4-8 黒い靄糸を辿って

「とりあえず、こちらの本は持ち出させてもらいましょう。この本がなくなったことで慌てていれば黒、それ以外の反応を示していたら白だと判断しましょう」

『あの坊主がおひいさんに見せてないだけで、呪われても仕方ないような一面がある可能性もありそうだけどなァ。ま、今回はそうしとくかァ』

「確かにそうですけど、まずは依頼人であるフレーデガル様には否がないと考えましょう。依頼人のことは信じなくては」


 イリガミ様と言葉を交わしながら、イツカは本を胸に抱いて歩き出す。

 ローレリーヌを起こさないよう静かに歩くイツカの背後で、部屋に落ちていた影がゆらりと起き上がった。


「イリガミ様」


 イツカの声が空気に響き渡る。

 振り返ることなく、足を止めることもなくイツカが呟いた瞬間、イリガミ様が背後に影へ飛びかかった。


『ギィィィ――!!』


 イリガミ様の牙が影の喉笛へ食い込む。

 あらゆる呪詛も穢れも食いちぎる牙が影の喉笛を切り裂き、濁った悲鳴をあげさせた。

 そのまま首を落とす勢いで食らいつこうとイリガミ様が口元に力を入れ直そうとするが――それよりも早く、影がイリガミ様の身体を強く突き飛ばした。


 質量を持たないはずの影がイリガミ様に触れ、大きな音をたてる。

 室内を震わせた音に驚いてイツカが振り返ったとき、視界に映ったのは床に叩きつけられたイリガミ様の姿だった。


「イリガミ様!?」


 今回もイリガミ様が影を飲み込んで終わりだと思っていた。

 だが、実際にはイリガミ様が抵抗を受け、影から引き剥がされてしまった。

 予想していなかった展開を前に、イツカの喉から驚愕の声があがる。思わずイリガミ様の下へ駆け寄りそうになったが、イリガミ様の声がイツカの足を縫い止めた。


『油断しただけで問題ねェ! おひいさんは大人しくしてなァ!』


 素早く体勢を整え、イリガミ様がイツカへ吠える。

 その一瞬の隙をつき、影がイリガミ様から素早く離れて窓へ駆け寄る。そのまま窓ガラスを突き抜け、外へ逃げ出していった。

 騒がしくなっていた室内が再び静まり返り、先ほどまでの騒動が嘘だったかのように平穏さを取り戻す。しんと静まり返った部屋の中、影が逃げていった方向を見つめていたイツカだったが、やがてイリガミ様へ視線を戻した。


「……イリガミ様、大丈夫ですか?」

『問題ねェ。おひいさんこそ、あいつに何かされてないだろうなァ』


 恐る恐るイリガミ様へ歩み寄ると、苛立ち混じりの声が返ってくる。

 ひとまず大きな傷がなさそうな様子に息を吐くと、イツカは改めて窓のほうへ視線を向けた。

 窓はしっかりと閉められており、窓ガラスが外と室内を区切っている。だが、あの影は確かに窓ガラスをすり抜けて外へ逃げていった。わかりきっていることだが、イツカとイリガミ様の前に突然現れたのはこの世のものではない存在だ。

 窓から逃げていった影の形を思い出しながら、イツカはぽつりと小さく呟いた。


「……イリガミ様、今の、どう見ます?」


 イツカがまともに姿を見たのは逃げていく後ろ姿だったが、あの影は狐のような形をしていた。

 狐と言い切るには不格好で、けれどこの世の生き物ではないとわかる性質を持つもの。その正体が何なのか、イツカには心当たりがある。

 だって、生き物の形をした人ならざる存在は――クラマーズ家にとって非常に馴染み深いものだ。


『見た目は俺たちと似てたなァ。気配も近かった』


 イリガミ様の言葉に、イツカの呼吸がひゅっとわずかに詰まった。

 イリガミ様たちと似た外見と近い気配ということは、イリガミ様たち――憑き物と似た存在である可能性があるということだ。


 憑き物。人に憑依し、一族の間で受け継がれていくもの。正しく付き合えば人に利益を与え、扱い方を間違えれば不利益を与える存在。

 彼らがいかに危険で相手取るには厄介なものであるかは、他の誰でもないイツカ自身がよく知っている。


 イリガミ様と同じ存在であるのなら、イツカと近い人間が今回の事件の背後に立っているかもしれない。

 険しい顔をするイツカのすぐ傍で、イリガミ様が数回鼻を動かしてから口を開いた。


『だが、俺たちにしては匂いが混ざってンな。多分、まがい物だ』

「まがい物……?」


 憑き物のまがい物なんて、用意することが可能なのだろうか。

 けれど、同じ憑き物であるイリガミ様がそういうのであれば間違いないだろう。

 少しの間、イツカは無言で思考を巡らせる。しかし、何も思いつくことはなく、深く息を吐きだすだけで終わった。


 あの影の正体。ネッセルローデ領を蝕み続ける呪詛と術士。ローレリーヌの部屋にあった本。わからないことが新たに増えてしまったが、調査が全く進んでいないわけではない。

 だが、集まった情報を元に考えて結果を出すには、イツカだけの力では難しそうな部分も出てきた。


「……一度、お兄様に連絡をとってみよう」


 イツカの脳裏に幼い頃から見てきた兄、コウカの背中が浮かぶ。

 呪詛や穢れ、そこに属する存在たちの研究を幼い頃から行っている彼の力を借りることができれば――調査がさらに進展するかもしれない。

 部屋で見つけた本を抱きかかえ、今度こそイツカはローレリーヌの部屋から出ていった。

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