4-5 黒い靄糸を辿って
気のせいかと思ったが、じっと目をこらせば、やはり周囲に漂う靄よりも色濃い何かがゆらゆらとわずかに揺れているのが見える。
揺れ動くそれに反応し、手を伸ばす。見失ってしまわないよう目をこらし――ぎゅっと強くそれを握り込んだ。
「ッぃ、っつ……!」
瞬間、イツカの手に焼けつくような鋭い痛みが走った。
とっさに手を離してしまいそうになるのをこらえ、掴んだものを引き寄せて観察する。
イツカの手の中に収まっているのは、深い黒色をした糸。周囲に漂う黒い靄を集めて細い一本の糸にまとめたかのようだ。
周囲に満ちているものと非常によく似た気配をまとっているが、この糸が放つ気配は周囲の呪詛が放つものより凶悪に感じられた。
「これは……」
『ほォ、珍しいなァ。
痛みに耐えながら首を傾げるイツカのすぐ傍でイリガミ様の声がする。
見ると、イツカの足元に広がっている影からイリガミ様がぬるりと姿を現し、イツカの手の中にある黒靄の糸をじっと見つめていた。
普段はギラギラときらめいているイリガミ様の瞳が、今は珍しいものを目にした際に見られる煌めきに満ちている。
「呪糸?」
不思議そうな声色で復唱するイツカに対し、イリガミ様が言葉を発する。
『呪詛がより凶悪に成長したとき、見られるものだ。対象の人間の身体に絡みついて、より深くまで人間を蝕む。普通なら相当手練の術士が飛ばした呪詛にしか見られないもののはずなんだがなァ』
ひゅ、と。わずかにイツカの喉が引きつった音をたてた。
通常の呪詛よりも深く人を蝕み、絡みつくもの――かなりの手練の術士が飛ばした呪詛にしかみられないはずの現象ということは非常に厄介なもののはずだ。
これまでの経験の中で得てきた知識と、目の前に横たわる呪詛の情報が噛み合わず、混乱ばかりが広がっていく。
前提として考えていた『力の弱い術士』という根本的な部分から間違っているのか、それとも新手の呪詛なのか。はたまた違う要因が絡み合い、単純なものではなくなってしまっているのか。
考えれば考えるほどに思考の糸がもつれていき、答えが見えなくなっていく。
『おひいさん』
イリガミ様の声が、凛とイツカの耳の中で響く。
普段と何も変わらないイリガミ様の声が届いた瞬間、絡まっていたイツカの思考が一瞬でぴたりと止まった。
手の中にある呪糸を手放さないようにしつつ、ゆっくりとイリガミ様へ視線を向ける。
イリガミ様は、普段と何も変わらない様子でそこにいた。
考えれば考えるほどによくわからないものを相手にしているはずなのに、イリガミ様は慌てたり混乱したりする様子がない。至っていつもどおりの姿でそこにいる。
イリガミ様からすると、これくらい慌てるうちに入らないのかもしれない。はたまた、イツカが正体のわからない相手を目の前にして混乱する様子を楽しんでいるのかもしれない。
どちらなのかはわからないが、普段と変わらない姿で傍にいてくれるのは今のイツカにとって非常に助かった。
イリガミ様が――自分の神様が慌てずに傍にいてくれているのなら、きっと大丈夫だと思えるから。
『その手の中の呪糸、そいつを頼りに歩いてみなァ。呪糸は大体呪詛の対象者と繋がってっからなァ』
イリガミ様の声に耳を傾けながら、イツカは改めて己の手の中にある呪糸へ視線を落とした。
呪糸を掴んでいる手はいまだに焼けつく痛みを放っている。呪糸と触れている箇所は火傷のような傷ができ、その箇所の肌がじわじわと黒く変色してきている――呪詛によって何らかの怪我を負っているのは間違いない。
けれど、傷を負っているのにも関わらず、イツカは呪糸を握り込んだ。
途中で離してしまわないようにしながら止めていた足を動かし、呪糸を辿っていく。
恐ろしいほどの静寂の中、辿りついたのは廊下の一番奥にある部屋だ。
「……この部屋に、もしかして」
『あァ。あの小娘が言ってた人間がいるだろうよォ』
イツカが辿り着いた部屋の扉は、しっかりと閉まっている。
それにも関わらず、手の中にある呪糸は扉をすり抜け、イツカが立っている廊下側に伸びている。
『絡みついてる人間だけでなく、他の奴らにも手を出そうとしてたんだろうなァ。とっとと断ち切ったほうがいいぜェ、おひいさん』
それは、遠回しな『早く喰わせろ』という催促だ。
言葉を発するかわりに小さく頷き、イツカは目の前にあるメープル色の扉をノックする。しかし、何らかの言葉が返ってくることはなく、扉をノックする音が空気に溶け込んでいくだけだった。
「……失礼します」
何度目かになる深呼吸をしたのち、ドアノブをしっかりと掴んで開ける。
一枚の扉によって遮られていた部屋の中は、廊下以上にひどい状態だった。
部屋の中自体は、いたってシンプルだ。足元には落ち着いた色合いのカーペットが敷かれ、タンスやクローゼット、テーブルなど一般的な家具が設置されている。奥のほうには大きめのベッドが一つ置かれ、誰かが横たわっているのが遠目からでもわかった。
それだけなら普通の室内だが、室内全体にどす黒い靄が広がっている。特にベッドの上に靄が集中しており、イツカの手の中にある呪糸もベッドから伸びていた。
呪詛に覆われて暗く感じられる部屋へ足を踏み入れた瞬間、じっとりとした嫌な空気がイツカの肌を舐める。ひどい不快感に眉根を寄せながら歩を進め、奥に設置されたベッドの傍で足を止めた。
『あァ、案の定ひどい状態だなァ』
イリガミ様がベッドの中を覗き込み、ぽつりと呟く。
イツカもベッドで眠っている女性の様子を見つめたまま、無言で小さく頷いた。
ベッドの中では、ブルネットの髪をシーツの海に広げ、女性が眠っている。どこか苦しそうに聞こえる寝息をたてており、眉間にもシワが寄っている。顔色も非常に悪く、誰の目から見ても体調が悪いのだとわかる状態だ。
ベッドから伸びている呪糸は、彼女の首にしっかりと絡んでいる。首だけでなく、手にも、足にも、そして身体全体にも、不穏な気配を感じさせる黒い糸がしっかりと絡みついていた。
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