2-6 侯爵の契約婚約者
「正直に申し上げますと、お屋敷の中でもネッセルローデ様を苦しめているものと同じものが存在していました」
フレーデガルから返る言葉はない。
先ほどまでの和やかな空気はどこへやら。今、二人の間を支配するのは美しい夜の庭園には似合わない緊張感のある空気だ。
「……使用人たちの様子は?」
「本日お出迎えに来てくれた方々の中には、わたしから見て気になる方はいらっしゃいませんでした。しかし、ネッセルローデ様のお話によれば使用人の方々も細かい負傷をしやすくなっているとのこと。本日お会いできていない方々の中に、あなた様を苦しめているものと同じものの影響を受けている方がいらっしゃる可能性がございます」
己の目から見た景色をフレーデガルに伝えるイツカの声は淡々としている。
フレーデガルへ視線を向けず、ただひたすらに淡々と言葉を告げる様子は不安をかきたてられる。
だからこそネッセルローデ邸で深刻な何かが起きているのだとわかる。
イツカと同じ世界を見れないフレーデガルには、己の屋敷で何が起きているのか明確にわからない。
けれど、人とは違う世界を見るイツカが真剣な声色で言葉を紡ぐのなら、きっと事態はフレーデガルが思っている以上に悪いのだろう。
ゆっくりとした動作でイツカが庭園から再度フレーデガルへ視線を戻し、青い瞳で彼を見つめる。
「なので、まずは空間中に散っているものをなんとかしつつ、使用人の方々の様子を見ていきたいと考えております。使用人の方々の中に様子がおかしいと感じる方がいれば、その方を優先して対処。それと並行して、今回の事件の犯人を探す調査も行いたいと考えております。そのために屋敷の中を自由に見て回る許可が欲しいのですが……」
婚約者候補という仮の立場を与えられているとしても、ネッセルローデ邸の中だとイツカは異物だ。
スムーズに、そしてトラブルなく調査を進めるためにも、フレーデガル本人からの許可はどうしても欲しかった。
フレーデガルがぱっとイツカへ視線を戻し、少々驚いたと言いたげな顔で彼女を見つめる。
「もちろん。クラマーズ嬢がやりやすいように調査を進めて構いませんが……わざわざ許可を求めなくとも大丈夫でしたのに」
「ネッセルローデ様のお屋敷の中では、わたしは異物ですから。異物が勝手にお屋敷の中を動き回っているとなったら、使用人の方々も落ち着かないかと思いまして。……ともあれ、許可をありがとうございます」
深々とフレーデガルへ頭を下げ、イツカは感謝の言葉を口にした。
これで安心して屋敷の中を調査できる。フレーデガルからも使用人たちへ話がいくだろうし、使用人たちも安心して過ごすことができるだろう。
(とりあえず、これで何も気にせずに調査ができるようになったし……明日から本格的に頑張らなくちゃ)
膝の上でぐっと手を握り、イツカはやる気を高める。
そんなイツカの様子をどこか安心したような目で見ていたフレーデガルだったが、ふと何かを思い出したような顔をした。その後、言うか言わまいか迷うように何度か唇を開閉したのち、恐る恐るといった様子で口を開く。
「……そういえば、これは仕事中にふと思ったことなのですが」
「なんでしょうか」
「クラマーズ嬢。あなたのことを名前でお呼びしてもよろしいでしょうか」
フレーデガルが発した言葉は、イツカを驚かせるには十分すぎるほどの力を持っていた。
目を丸く見開き、イツカはぽかんとした顔でフレーデガルの顔を見つめる。
つい先ほどまでの真剣な表情から一変、驚いているのだと隠しもしない顔は十八歳という大人になる一歩手前の少女らしさがあるものだ。
なんだか微笑ましい気持ちになりながらも、フレーデガルは言葉を続ける。
「その、現在の呼び方でも問題ないとは思うのですが……もう少し距離感の近い呼び方をしてみたいという思いもありまして。それに、そちらのほうがよりそれらしく見えるかなと」
「あ、なるほど……」
今の呼び方でも特に違和感はない。けれど、もう少し距離感の近い呼び方をすれば、婚約者候補らしく見えるかもしれない。
周囲をより深く騙すことにも繋がるため、一度飲み込んだはずの罪悪感が再び顔を出す。
しかし、イツカは調査のためにフレーデガルの下へやってきている状態。ある意味では、彼の屋敷に潜入してフレーデガルへ呪詛を送っている犯人を見つけようとしているようなものだ。
もしイツカが調査のために滞在していると気づかれたら、何らかの妨害行為を行ってくるかもしれない――その可能性を考えると、周囲を騙し切るくらいでちょうどいいのかもしれない。
一人で思考を巡らせたのち、イツカは小さく頷く。
「わかりました。なら、ええと……フレーデガル様とお呼びしてもよろしいのでしょうか」
まだ出会ったばかりで、あまりたくさんの時間を共有していない異性を名前で呼ぶ。
同性相手でもあまりしたことがない経験に、ほんのわずかな気恥ずかしさがイツカの胸に広がった。
けれど、家名から名前へ呼び方を切り替えるだけで、つい先ほどまで感じていた距離感は確かに縮まったように感じられた。
呼び方を切り替えるだけでこんなに変わるのだから、なんだか面白く感じられ、イツカの口元に笑みが浮かんだ。
「少々くすぐったさもありますが、その呼び方でお願いします。私もイツカ様とお呼びさせていただきますので」
「わかりました」
クラマーズ嬢と呼んでいたのが、イツカ様へ。
ネッセルローデ様と呼んでいたのが、フレーデガル様へ。
お互いに新しい呼び名を口にしたのち、イツカとフレーデガルはお互いの顔を見たまま気恥ずかしそうに口元を緩めた。
互いに距離感が近い呼び方をした途端、なんだか気恥ずかしくなってしまうが――あまり悪い気はしない。むしろ、これを機に親しくなれそうな気がした。
(今までの呼び方から新しい呼び方へ、即座に切り替えるのは難しいけれど……頑張らなくちゃ)
最初は苦労するかもしれないが、何度か繰り返せば新しい呼び方も己の中で馴染むはずだ。なかなか慣れそうになかったら、一人のときに練習すれば問題ないだろう。
一人、新たな決意を胸に抱えながら、イツカは軽く深呼吸をして口を開く。
「……明日から、本格的に調査を開始しようと思っていますので。改めて、しばしの間よろしくお願いいたします。ネッセルローデ様……じゃなくて、フレーデガル様」
「こちらこそ、しばしの間どうかよろしくお願いいたします。あなたが少しでも調査しやすくなるよう、私もサポートさせていただきますので」
互いに改めて言葉を紡ぎ、どちらからともなく深々と頭を下げる。
少しの間、頭を下げた状態を保ったのち、互いにゆっくりとした動作で顔をあげた。
イツカの青い目とフレーデガルの赤い目がばちりと合い、視線が絡む。少しの間見つめ合ったのち、不思議とおかしくなってきて二人揃ってくすくすと笑いあった。
本当の婚約者ではない、一時的に結ばれた偽りの関係。
けれど、それがまるで真実であるかのような二人を、夜空で輝く月だけが見ていた。
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