アルスハイム工房へようこそ

日向タカト

第一話「アルスハイム工房へようこそ」

プロローグ

プロローグ「その想いを知ることは出来ない」

 夜空に星々の光がある。

 その星空の下に広がるネガルタ大陸にもいくつも光が存在する。

 それぞれがネガルタ大陸に存在する都市の輝きであり、光の大小が都市の大きさを示している。

 大陸東部にいくつか点在する大きな光の中の一つがミシュルだ。

 ミシュルは、ネガルタ大陸東部を治める大国イディニアの首都だ。大陸横断列車が東西に走り、ミシュルを大きく二分している。

 ミシュルの北東区の一角に大きな屋敷がある。

 広大な敷地面積を誇る屋敷だ。

 手入れされた庭園に咲く花は夜露に濡れている。

 屋敷の二階の角から微かな光が漏れている。

 光を追えば、窓がわずかに開き、カーテンが夜風に揺れ動いている。

 夜の静寂と違い、室内は慌ただしかった。

「治癒のアーティファクトを追加で持ってこい! 早くしろ!」

 そう叫ぶの医師だ。看護師はそれを受けて、ドアの向こうに指示を飛ばす。その間にも、医師はベッドに横たわる老人への回復処置を続けていた。

 老人は病床に伏せてなお、その精悍さは失われず、瞳にも強い意志がある。しかし、それでも彼を蝕む病魔には敵わなかった。高齢のため、何度か体調を崩すことがあったが、今回は三日ほど前から容態が急変して、危険な状態が続いていた。

 病院への搬送を当然検討されたが、それをこの老人は拒否した。

「モーリス、しっかり」

 医師と看護師が慌ただしく走り回る中、ベッドの脇に座り、衰弱しきった彼――モーリス・プレストンの手を握るのは、妻のライラであった。

 齢八十を超えるモーリスに対して、ライラはまだ三十半ばだ。この年の差によって世間ではさまざまな噂が飛び交っていたことは、プレストン夫妻は知っていた。それでも結婚してからの十年弱の時間を共に歩んできた。ライラにとって、モーリスはどれだけ年が離れていても最愛の人だ。

「先生、持ってきました!」

 医師は看護師から治癒のアーティファクト――それは特殊な容器に入った濃い青色の水だ――を受け取って、魔力を込めて起動させた。水が発光し、アーティファクトに組み込まれた治癒魔法が発動したことを確認して、モーリスの口元へと運び、飲ませる。モーリスの喉が水を嚥下すると、彼の身体が淡く光り、魔法効果により生命の活性が行なわれるが、それでも彼の容態は変わらない。

 ライラは彼の枯れ木のような手を握り、少しでも良くなるようにと祈りを込める。

 自分にはこうやって彼の回復を祈ることしかできない。

 その時、モーリスが大きく咳き込んだ。

「モーリス!」

 口を押える彼の手が、そして服が赤く染まる。

 吐血だ。

 ライラは慌てて、ハンカチを取り出し彼の手や口を拭う。

 真っ白なハンカチを真っ赤に汚れる。

 医師の顔を見れば、眉間の皺がより深くなっていた。

「もう一回!」

 医師が再び治癒のアーティファクトに魔力を込めようとしたところで、モーリスが手を挙げた。

 それが何を意味するのかを、ライラはすぐに理解した。

「もうよい」

 嗄れた声で、彼は医師を止める。

「待って! モーリス諦めないで!」

 ライラの悲痛な声を聞いても、モーリスは横目で妻である自分を一瞥しただけだ。

 話など聞く気はない。

 彼は昔からそうだ。

 一度決めたことを変えることはない。

 自分がいくら説得したところで意味はない。

「……もうよい」

 モーリスは再度医師に追加処置を止めるように指示する。

「しかし!」

 医師はモーリスの言葉に反発する。

 モーリスは小さく首を振る。

「治癒のアーティファクトを……いくつ持ってきても、魔法使いを……連れてこようが、この老体の消えゆく命を……繋ぐことは……できぬ」

 モーリスは途切れ途切れになりながら声を発した。

 彼は自分の命の灯火がもう潰えることを理解している。

 そう、これ以上なにをしてもムダなのだ。

 ライラが手を握っても、握り返す力をほとんど感じない。

「だから、最後に、妻と、ライラと二人に……させてくれ」

 その言葉に医師はなにかを言おうとして口を開き、言葉を飲み込んだ。目をきつく閉じ、

「わかりました」

 どうにか声を絞り出した。

 それは命を繋ぐ使命を持つ医師には苦渋の決断だったのかもしれない。

 しかし、患者の意志を尊重し、医師は看護師を連れて、退室した。

 二人きりになった室内には先ほどまでの騒がしさはない。

 わずかな静けさ。

 それは時間にすれば、一秒にも満たない。

 それでもライラには、とても長く感じられた。

「お前と一緒になって十年になるか」

 問いは小さな声だった。

「はい。もう十年、いえ、たった十年です」

 この十年を思い出し、噛みしめるように言葉にした。

「そうか……」

 モーリスは天井を見つめて、そう答えると、薄く目を閉じ、時間を掛けて、目を開けた。

「お前の店のライ麦パンの香りが懐かしい」

「アナタはいつもライ麦パンばかり買いに来ていましたね」

 ライラとモーリスは、ミシュルの小さなパン屋で出会った。

 当時、パン屋で働いていたライラは、いつも同じライ麦パンを買いにくるモーリスに声を掛けた。最初はただの世間話だった。それから少しずつ話を重ねていき、心惹かれていった。

「君は……私と……一緒になって、よかったか?」

 彼がそう投げかけたのは、結婚してから初めてだった。彼は寡黙で、感情もあまり出さず、結婚してからも仕事に打ち込んできた。夫婦の会話も決して多いものではなかった。

 彼との結婚生活に、子供の頃、夢描いていた幸せがあったわけではない。

 外から見たら、円満な夫婦関係ではなかったのかもしれない。

 でも、不幸ではなかった。

 それを考えれば、自分の答えは決まっている。

「ええ、幸せでしたよ」

 ライラが答えると、モーリスは自分の手を握るライラの手を振りほどき、彼女の顔へと右手を伸した。

 自分の頬に触れる彼の手に自分の手を重ねた。

「モーリス。あなたはどうでしたか?」

 ライラは涙で曇りそうなのを押さえ込み、穏やかな笑みを浮かべながら、モーリスに問いかけた。

「……私は……」

 モーリスは答えを考え、

「私はお前のことを……」

 続く言葉を紡ごうと、口を動かすが、それは声にならなかった。

 ライラの頬に触れていた手から力が抜けて、スルリと落ちた。

「モーリス!!」

 一際大きいライラの声に、席を外していた医師がドアを開けて入ってきた。

「モーリスさん! モーリスさん!」

 どうにかモーリスの命を繋ぎ止めようと処置が始まった。

 ライラはその処置を見届けず、部屋を出た。

 廊下の奥の窓からは、空に浮かぶ月が見えた。

「あなたは……最期に……なんて言ったの?」

 流れる涙を拭うことなく、更に疑問を口にした。

「あなたは私を愛していた?」

 ドアが開く音がした。

 医師が神妙な声で、何かを告げていた。

 言葉は耳に届いていたが、頭では理解できない。

 でも、何を意味しているのかはわかる。

 ただ、医師の言葉を聞きながら、

 

 あなたの気持ちを知りたい。

 

 ライラはそれだけを思っていた。

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