足跡
帰宅すると、家の周りにはビッシリと足跡が付けられていた。
玄関から庭先、隣家との間の細い道にまで、所狭しと足跡が並んでいる。夏祭り後の神社の地面でさえ、ここまで足跡が残ることはあるまいと思うほど、それは明確に地面に刻んであった。
私はグルリと自宅を一周して、今度は逆回りにもう一周した。足跡は家の周りを占拠していた。今度のは、やけに気合が入っているようだった。
時刻は夕方の六時を過ぎたところだった。夕焼け小焼けのメロディーが住宅街に流れる。哀愁のある温かな雰囲気で街中が満たされている。
流れるメロディーが止んだ後しばらく経って、私は足跡をもう一度注意深く観察してみることにした。
玄関から庭先にかけて中腰で進んでいく。さながら事件現場を物色する探偵のような格好だ。最近はもうほとんど気にしていなかったが、改めて観察してみると、何か新しいことが発見できるかもしれないと思った。
靴のサイズはやはりバラバラだった。私よりも大きなサイズのものもあれば、小さいサイズのものもあった。足裏の模様もすべて異なっていた。複数人、自宅の周りに足跡を付けた者が存在する。靴の種類を数えると、おそらく四種類。大人二人、子供二人の足跡だと推測できた。新しい発見はそうそう出てくるものではない。
「おかえりなさい」
背後から声をかけられて、私は驚き振り返った。妻が買い物から帰ってきたところだった。「どうしたの?」
「いやなに、ちょっと今回のは気合が入っているから、観察してみようと思って」
「確かに」妻は足元を見回した。「でも特段変わったところはない気がする」
私たちはしばらく足跡を観察し、何も得られるものがないと判断すると、一緒に玄関から自宅に入った。妻はキッチンで今晩の夕食の準備に取り掛かった。私は部屋着に着替え、リビングのソファに座り、テレビをつけた。アナウンサーが端正な声で今日起こったニュースを読み上げている。庭先が見える引き戸のガラス窓に視線をやると、先ほど観察していた足跡が無言の存在感をアピールしていた。色彩絵の具で描いたような西日が差し込み、観葉植物とともに足跡も赤く照らされていた。
妻がダイニングテーブルに夕食を並べたので、私はテレビを消し、妻と向かい合わせになって食事をした。かぼちゃの煮物、切り干し大根、鶏肉の炒め物、それに米と豚汁。まだそこまで年齢を重ねているわけではないが、妻の料理の色合いは質素で茶色い。
「味付け濃かったかな」
「大丈夫。美味しいよ」
十五分ほどで食べ終わると、妻が皿洗いをはじめる。私は一足早く庭先に出て、倉庫から箒を取り出し、足跡の掃除を開始した。しばらくして妻も出てきて、一緒に箒で地面を掃いた。
足跡を掃除する時間、妻と私は今日あった出来事について話した。一振り箒を掃くごとに話題が飛び出してきた。食事の際は特に話すことは思いつかないのだが、この足跡を掃除している時間は、互いに言葉が尽きることがなかった。握る手を作用点とし、箒がてこの原理で左右に揺れる力が、私たちの会話を促進しているようでもあった。
掃除にはおおよそ一時間近くかかる。一時間近く毎日濃密に会話をする夫婦はそこまで多くはないのではないか。
足跡が付けられ始めてから一年以上この習慣が続いていた。私が帰宅し、食事をした後、足跡を掃除し、風呂に入り、ワインを一杯飲んでから就寝する。
足跡が出来る前までは、妻との会話も、夜の営みもほとんどなかったが、この足跡の掃除が習慣になってからその問題も解消した。夫婦での豊かな会話の時間はすべてにおいて良い影響を及ぼした。
妻とともに箒を新調するためにホームセンターに行き、箒を一つ一つ吟味した。雨の日にできる足跡は箒では綺麗にならないため、学校の校庭をならすのに使うようなトンボも購入した。学生時代、運動部に所属していた私は、トンボを手に取ると懐かしい気持ちになったが、妻はトンボを手に取るのは初めてだったようで、とても楽しそうにトンボをかけていた。雨合羽を着て家の周りをきれいにならしていく作業は苦ではなかった。むしろトンボの扱い方を妻に教える時間は、学生時代好きな女の子に勉強を教えていたときのむずがゆい幸福さを思い出させた。故に、長らく忘れていた妻の色っぽい所作にも改めて気づくことが出来た。私たちは夜の営みにも情熱的な習慣を取り戻すことに成功していた。
「こんなものかな」と妻は手を止めた。
「そうだね。今日はこれくらいにしよう」
「この箒もそろそろ交換した方がいいんじゃない?」
見ると、妻の持っている箒は毛先がけばけばとあらぬ方向に散らばっていた。私は頷き、今週末にまたホームセンターにいって新調しようと言った。妻もそれに同意した。
箒を倉庫に戻し、私たちは自宅に戻った。おいだきのボタンを押して、風呂が沸くのを待っている間、私はソファで読みかけの短編小説を読み、妻は隣で料理本を熱心に読んでいた。
「これ、食べたい?」と妻が私に料理本を寄せて言った。見開きにはマカロニグラタンが載っていた。
「たまにはそういうのもいいかもね」
「そう。今度作ってみるね」妻はそのページに付箋をつけて、次のページに移った。私はまた短編小説に戻った。
しばらくして風呂が沸いた。妻が先に入って、私が後に入った。風呂から出ると、妻はワインをすでに準備して待っている。私たちはソファで肩を並べながらアルコールを摂取する。私たちはお互い酒には強くないため、一杯飲むだけで気持ちが良くなった。妻がグラスをローテーブルに乗せ、私の胸元に手をやると、それが合図かのように私もグラスを置き、互いに見つめ合った。
そのままソファの上で始めることもあるが、この日は妻の手を取り、二階の寝室に向かった。焦れる思いは階段を一段上がるごとに高まった。
休日、私たちは朝から車でホームセンターに向かった。箒を二本と軍手を二つ購入した。掃除をする際に手が痛むことがあったため、その対策として軍手を試してみようと買い物をしながら思いついた。
車に荷物を積んだ後、同じ敷地内にある飲食チェーン店で食事を済ませた。その後、映画館に向かい妻が観たがっていた映画を観た。カフェで映画の感想を語り合った後、近所のスーパーで買い物をし、家に向かった。
「もうこんな時間。早くしないと日が暮れて足跡が見えなくなっちゃう」妻が腕時計を気にしながら言った。
「備え付けのライトみたいなの買う? 去年の冬は懐中電灯でやったけど、持ちながらだと掃除しづらかったよね」
「うん。でもまだこの時期は大丈夫だと思うけど」
「でも買ったほうがいい気がするな。いくらくらいだろう」
「あんまり明るすぎると近所迷惑になっちゃうから、足元だけ照らせるようなやつがいいな」
「帰って掃除した後、調べてみようか」
帰宅し、車を車庫に入れると、私たちは買ったばかりの箒と軍手を持ってすぐに庭に向かった。
しかしこの日、私たちは掃除をすることはなかった。
足跡が付いていなかったのだ。
私たちは、家の周りを一周し、もう一周し、足跡がないことを確認した。
「こんなこと初めてじゃない?」と妻が言った。
「うん。何かあったのかな」
「……わからない」
私たちは黙ってその場に立っていたが、肌寒くなってきたため、新しく買った箒と軍手を倉庫にしまって、中に入った。
その日は食事をしながら足跡について少し話をしたが、その後は特に会話をするわけでもなく、風呂の後にワインを飲んでもお互いに酔えなかった。
「今日はやめとこうか」と私が言うと、妻は黙ってうなずき、ワイングラスを二つ持ってキッチンで洗い物をした。私はテレビのニュースを見て、寝る前にもう一度庭に出て懐中電灯で地面を照らしてみたが、足跡は付いていなかった。
寝室に行くと妻がもうすでに寝ていた。私も横になって、そこでライトのことを思い出したが、明日調べればいいと思い、そのまま眠った。
次の日になっても足跡は付かなかった。私たちはその日一日中家にいて、時折リビングから庭先を眺めたが、何も起こらなかった。
夕方になって妻がスーパーに買い物に行き、帰ってくると夕食の支度をした。
夕食はマカロニグラタンだった。
「味、薄かったかな」と妻は言った。
「うん。塩の量が足りてない気がする」
「……塩とってくるね」
「うん。ありがとう」
妻が席を外している間に、私はテレビのリモコンを探した。ソファの上に見つけて、スイッチを入れるとバラエティー番組をやっていた。私は音量を上げた。
(完)
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