影裏案件 -凍り鬼―

見鳥望/greed green

プロローグ

「はっ、はっ、はっ、はっ」




 虫の音が心地よい夜の公園を田口清太たぐちせいたは走っていた。


 社会人になって三年が過ぎた。仕事に精を出せば出すほど残業は増え、食生活は偏り、睡眠は減り、正しい生活リズムは簡単に崩れていった。


 それに伴い当然のように身体には相応の結果が出始めた。みるみるうちに腹回りに脂肪がつきすっかりだらしのない身体となってしまった。入社した頃にはスリムだったはずの面影はもうどこにもなかった。


 「入社した頃はスラっとしてカッコ良かったのにな」、なんて周りから言われる事も多くなり、このままでは自分が忌み嫌っていた中年太りのオヤジになってしまうという恐怖感から、夜のジョギングを日課にするようになった。




 始めたての頃はやはりきつかった。たいした距離も走っていないのに息はぜえぜえとあがった。しかし、それと同時にすっきりとした心地よさも感じていた。仕事で疲れているのに更に運動だなんてと思っていたが、仕事の疲れとはまた違った毒素の抜けていく清々しい疲れに、自分自身これなら続けられると感じた。




 その日も清太は走っていた。時刻は夜の十一時過ぎ。最近はより集中して走る為に音楽を聞きながら走っていた。好きな音楽と共に走る時間はこれまた気持ちのいいものだった。




 ――ん?




 見慣れた公園の景色。わざわざその景色をまじまじと見る事なんてしない。でも、いつも見ている景色だからこそ、それでもその時その場の違和感を認識する事が出来た。


 公園内にいくつも設置されている外灯。そのうちの一つ、ベンチの近くに設置されている灯りが一人の影を照らしていた。誰かがそこに座っているのだ。




 ――こんな時間に何やってんだ?




 時間はもう夜の十一時を過ぎている。たまに自分と同じように走る人を見かける事もあるが、こんな時間にベンチに人がいる事は一度も見た事がなかった。


 自然と警戒心で走るスピード緩んだ。それでも徐々に人影との距離は縮まる。どうやら男だという事が分かった。男は視線を前に向けたまま、じっとその場に座っていた。だが、何かを見ているわけではない。ぼーっと虚空を眺めている、そんな印象だった。




 清太の中で不気味さが増した。何か悩み事でもあって夜風に当たりに来たのだろうか。そんな時もあるかもしれない。思いつめて思考も何もかも放棄したいのか、それとも家に帰れないような事情があって時間を潰さざるを得ないからだろうか。不気味さを打ち消すように理由を考え始めれば、特段不思議な光景でもないと気持ちが落ち着いてきた。




 しかし、距離が更に縮まった時、その考えは一気に不気味一色に塗り替えられた。


 男性の横顔が見えた。前を向いたまま、口をぽかーんと開いている。その表情のまま微動だにしていないのだ。


 おかしい。ここに来てようやく彼の異常さに気が付いた。


 そこにいるのに、そこにいないような気味の悪さ。初めて清太はここで一つの考えが頭に浮かび始めていた。その可能性に思い当たった時、清太は今すぐここから逃げ去りたい衝動に駆られた。さっさと走り抜けてしまいたい。関わるべきではない。だが、もしそうだとしたら見過ごす事も出来ない。その時はもう走る事を止め、ゆっくりとした歩行へと切り替わっていた。


 清太はおそるおそる彼に近付き声をかけた。




「あ、あのー……」




 彼から反応はない。相変わらず口を開いたままだ。




「あの、大丈夫、ですか?」




 どうしようかと迷ったが、清太は思い切って彼の肩に手を置いた。




 ――え?




 思わず清太は置いた手を慌てて離した。




 ――何だ今の感触は? これはまるで……。




 背筋に悪寒が走る。やはり関わってはいけない。そう思ったが、彼に触れてしまった手前もう後には引けない自分がいた。


 清太は、もう一度彼の肩に手をかけ、今度はそのまま前後に少しゆさゆさと揺さぶった。やはり反応はなかった。そして何より、先程一度触れた時の感触が間違いではない事を感じた。




 彼の身体は異常に硬かった。この感触には覚えがあった。昔、死んだ愛犬に触れた時の感触と全く同じだった。


 震える手をポケットに突っ込み、スマホを取り出した。三つの番号を押すだけなのに、震えた指先でうまく押せなかったが、なんとか繋がった先に清太は一言伝えた。




「すみません、人が、し、死んでます」


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