うすら笑う彼女は希求する

ウワノソラ。

第1話 彼女

 彼女はうすら笑う。右の腹部に手をやって確かめるも、もとあったはずの傷などなくすべてが夢のようだった。


 確かに、自らの手で腹部を包丁で貫き、なみなみと血をほとばしらせながら息絶えたはずだった。弟と母とを憎みながら、どうにもならない世界に嫌気をさしながら、台所で自ら命を絶ったに違いなかった。


 ――まだ生きてたのか、と落胆がにじむ。


 次こそはほんとうに死ななければ……。鈍り切った頭でそう思いながら、彼女は冷え切った指先でシンク下のひらきを開ける。馴染みのある一番手前の包丁を抜き取り、両手で握り締めてみるが、不自然に力んだ手が、腕が、肩が戦慄わななき始めていた。


 腹を刺すくらいでは、刺しどころによっては一命を取り留めてしまうかもしれない。なら動脈を狙って首を掻き切るくらいのほうが確実かもしれないと考えた。だとすれば、よく切れるほうが皮膚も鋭利に切り裂いてくれるだろう。

 そうだ、包丁を事前に研いだほうがきっといい。彼女は目をほそめ、親しげに包丁を眺めていた。


 抽斗ひきだしの上段にしまってある砥石といしを取ったのち蛇口からの水にくぐらせ、包丁を砥石に沿わせて小気味よく前後に滑らせていく。

 手が自動的に動いているような錯覚を覚えるほど、ほとんど意識を向けずとも包丁は研がれていった。


 ――タン。かすかにステンレスの作業台から音が響いた。タン――。タン、タン……。刃を研ぐ摩擦音とは別の、降り出した雨のようなまばらな音が続く。

 頬をつたい落ちてステンレスを打つ落涙の音が、冷たい空気のなかで響いていた。


 ほんとうは、自分ではなく苦しみの元凶そのものである弟を殺してしまいたかったのに、彼女はそれを選べなかった。

 悔しさばかり込み上げてくるも、自らが消えてなくなることが彼女にとっての正解に違いなかった。


 憎悪の感情から引きずり出されるようにして、脳裏に暗い記憶が浮き上がってくる。

 それは母が新しい男を作って何日も家を空けて、弟と二人で家にいるのが続いたときだった。

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