パンダさんの成長 / もくふー。
追手門学院大学文芸部
第1話
少女は綿菓子の袋を開けて、むしゃむしゃと食べ始める。
「
甘い物食べたら、しょっぱいのも食べたくなるよねー。と言って、少女はレジ袋から次々と小さな駄菓子を取り出す。
「え、いいよ。私は大丈夫」
少女に大きすぎる一口を差し出されて苦笑を浮かべたのは、翠(スイ)と呼ばれたもう一人の女の子だった。翠の前の小さな机には真っ白なスケッチブックが置かれていたが、少女が取り出した色とりどりのお菓子たちに埋め尽くされてしまった。翠が何か書こうとしていたことなど、少女はまるでお構いなしだ。
「甘い物、好きでしょ?」
「ええっと、好きでも嫌いでもないかなあ」
「もー。はっきりしないなー。だから翠ちゃんに買う時、いつも悩んじゃうんだよねー。ほんと、翠ちゃんのそういうとこが、そういうことだよー」
むうっと頬を膨らます少女の表情はコロコロと変わる。思っていることが顔に出るなんてものではなく、思っていることは表情筋を最大限使って、顔に出すようにしているのだろう。好きも嫌いも、言わなければ、態度に出さなければ伝わらないのだ。そしてこの場合は「嫌」の感情。それは確かに翠にも伝わった。
「ごめんね」
翠は眉尻を下げ、なんとなく謝ってしまう。ハッキリと感情を表現する少女と翠は、まるで対照的だ。
しかし、お互いそんな正反対な部分が気に入っていた。翠も少女の押しの強さには負けてしまうが扱いは慣れていた。むしろ空気を読まず人と対立しやすいこの少女と、ここまで長く付き合っていけるのは自分だけだと喜ばしく思っていた。
そのような付き合いだからこそ、少女の次の台詞も大体検討が付いている。「そういうとこは嫌だけど、優しいとこは好き」と言うに決まっているのだ。しかし、その予想は少女のはっと息をのむ音で裏切られた。
「あ、違う! うわー、ごめん。今日はね、今日は、
そんな話をしに参上したわけじゃなくって……」
珍しく少女は口ごもり視線を彷徨わせた。いつもはっきりしている少女に似つかわしくない様子に、翠は熱でもあるのではないかと疑ってしまう。
「びっくりした。あなた、謝れるの。だ、大丈夫だよ。そういうハッキリしたところが良いんだから」
そのように翠が褒めても、少女は頭を悩ませているようだ。話をどのように切りだそうかと考えあぐねてるようなその様子に、翠は「今日は槍でも降るのかな」なんて不審に思いながら、スケッチブックの上のお菓子をよける。そして先程までかこうとしていた新しいページに鉛筆を走らせた。
「翠ちゃん、それ。いつもなにを書いてるの」
「物語。っていっても、絵本みたいな。面白みもない物語なんだけど、暇つぶしね」
「絵、描けないのに?」
「うん。描けないから、絵本の絵抜きを書いてると思ってくれたらいいかも」
翠の言葉に少女は、なにそれーと大きな笑い声を上げた。隣の部屋の人にうるさいと怒られないかと心配する翠を他所に、少女は無邪気に目を輝かせて懇願する。
「見せて。見たい。見せて」
そうなったら少女は何が何でも自分のしたいことを貫く。案の定、翠が迷っているうちにスケッチブックはひょいっと少女に取り上げられてしまった。その拍子にバラバラと机の上の駄菓子が地面におちる。
少女は手に取ったそれを食い入るように見つめ、ページをめくって読みはじめた。それはスケッチブックだというのに、黒い鉛筆で書かれた文字だけが並んでいた。
「仕方ないでしょ。絵心ないし、人並み外れた発想力も持ってないし……」
読まれた恥ずかしさから言い訳を並べ始めた翠を遮ったのは、想像以上の褒め言葉だった。
「これ、好きだよ。ありがちであるあるの展開だけど、優しくてふんわりしてる」
それは想像以上の褒め言葉だが、誇張ではない。この少女が正直で自分の思ったことを誤魔化さないのを翠はよく知っている。だからこそ信用できる言葉に、翠は小さな声でありがとうと返した。
「ねえ翠ちゃん、あたしの話もかいてよ! ありがちな小学生の話だけど、あるあるじゃないかもだよ」
少女は、翠にスケッチブックを返して言った
「パンダになりたかった子の話。どう、おもしろそう? ねーねー、ちょっとだけ。かいてみてよ」
「……パンダ?」
これは、冗談なのだろうか。しかし、冗談のような言葉に反して、少女の目には先程のような無邪気な輝きはなかった。笑い飛ばせずにいた翠の無言を肯定と受け取ったのか、少女は楽しそうに語り始める。翠は仕方なく鉛筆を握りしめ、少女の話をゆっくりと噛み砕きながらスケッチブックに描けない物語を書きはじめる。
○●
あるところに、パンダになりたいパンダさんがいました。別に笹が食べたいわけではありません。パンダがいつでも、白と黒にはっきり分かれているところが大好きなのです。パンダは自分の体の色だけでなく、認識できる色も白と黒の2つだそうです。きっと、感情までも二元論。とても単純です。
対して人間は、とても複雑でした。たくさんの色を認識できる目は、見たくないものまで見えてしまうし。感情だって、複雑すぎて二元論では語れません。ややこしくて中途半端です。
ならば、パンダになればいいのです。単純明快で、視界良好。迷いなく楽に生きられるのですから。
最初からパンダになりたかったのではありません。ピンクのランドセルをもって、嫌なことでも面倒ごとでも笑顔で立ち向かうような少女だったはずなのです。困っている子がいたら助けてあげます。弱い子がいたら助けてあげます。優しくて誰からも好かれるような模範生。だから、そんなパンダさんが家に帰るとママが褒めてくれるのです。
ある時、パンダさんは膝にケガをして帰ってきました。ママは驚きましたが、パンダさんはちょっぴり誇らしげでした。
「公園でね、いじめられてた子がいたから、やめてって注意したの」
パンダさんは、それから納得いかないという表情をして事情を説明しました。
「でも、なんかね、関わってくるなって突き飛ばされちゃったの。だから転んで……。違うの、いじめられてた子に突き飛ばされたの。助けてあげたのに、不思議」
ママは褒めてくれませんでした。その代わり心配そうに、どうしていじめられてた子を助けたのか聞きました。
「ママが褒めてくれるから」
パンダさんの正直な答えに、ママは悲しい顔をして「ママのせいだね」と呟きました。胸が苦しくなりました。そんな言葉が欲しかったわけじゃない。
間違っていたの?助けてあげたのに、悪い子なのでしょうか。人を助ける理由が、他人ではなく自分のためだから悪い子なのでしょうか。なら、黙ってみているのが良い子なのでしょうか。言葉にできない感情は紙で手を切った時のような痛みに変わり、じわじわと長引いて。
プツリと切れました。
いや、切ったのです。言葉にできない感情が多すぎて、伝えられない感情が多すぎて、そんな中途半端な感情は持っていても気持ち悪いだけなので、切って捨ててしまいました。だから、パンダさんには「善」と「悪」しかありません。弱いものを助けようとしたパンダさんは悪ではない。
たった二つの選択肢で、白か黒のどちらかを選ぶのみ。それ以外の中途半端な感情に時間をかけるなどナンセンス。かしこく、要領のいい生き方です。そこに迷いなど必要ありませんでした。読める空気も読みません。嫌うならどうぞ。心の勝藤なんか
○●
「あ、違う。葛藤だ」
「そんでねー。こっからが面白いんだよー」
「ちょっとまって」
翠が誤字を書き直そうとしているのに、少女は話を進めようとする。必死で止めると、少女は仕方ないなぁといいながら話を中断し、椅子の背もたれに体を預けた。
「翠ちゃん見てー。夕日きれいー」
はしゃぐ少女に適当な返事をしながら、翠はスケッチブックとにらめっこしている。文章を添削しているようだ。そんな翠の様子に、少女は退屈そうに伸びをして窓の景色を眺める。
翠の部屋の大きな窓は、普段はあまり開けることはないが掃除は行き届いていた。二階建ての一軒家に住む少女からすると、遠くの街のビルが眺められるくらいに高い景色は新鮮なものである。
消しゴムを使って揺れる机の音や鉛筆を走らせる音が消えて、ページをめくる音が聞こえたのが用意ができたという合図。少女は翠に向き直る。
「それでね、それで話の続き。こっから、一人の女の子に会うの」
少女の話し方は、いまいち要点がまとまっていない。翠は、それをうまくまとめられるように頭をフル回転させながら書きはじめる。
○●
ある日の放課後、パンダさんは図工室にいました。なんとなく家に帰りたくなくて、鍵のかかっていない教室に入ったのです。しかし、誰もいないと思っていたのはパンダさんの思い込みだったようで、そこには先客がいらしていました。
「え。なに」
突然図工室に入ったかと思えば我が物顔で机にランドセルを置き、くつろぎ始めたパンダさんを、先客の女の子は訝しげに見つめました。パンダさんは質問には答えず質問を返します。
「何してるの?」
「……掃除の、当番」
「へー」
洗い場を掃除するためにスポンジをもった女の子は、消え入りそうな声で言いました。掃除当番は五人一班。残念ながら図工室には女の子以外に人影はありません。ずっと一人で掃除をしていたようです。
「他の人さぼってるんだったら、さぼっちゃえばいいのに。何も自分ひとりでやんなくてもさー。あっ、掃除好きなの?」
「掃除、好きなわけではないよ。そんな嫌いでもないけど」
「たいして好きでもないなら、やめちゃいなよー」
パンダさんは気まぐれで少し口出ししました。この女の子が一人でいいことをしても、誰も気づかなければ何の得にもなりません。さらに、褒めてもらえることもなければ掃除が楽しいわけでもないのですから、全くの時間の無駄だと思ったのです。
「でも、周りの人に頼まれて。図工室は居心地いいし別に嫌ってわけでもなくて」
そういいながら女の子は、洗い場についた絵の具の色をスポンジに染み込ませていきます。
「さっきから嫌でもないし好きでもないとか、中途半端で嫌だ。はっきりすればいいじゃんよー」
パンダさんは語気を荒げるでもなく自分の思っていることを言いましたが、初対面の人からこんなことを言われると大概の人は怒ります。怒りの原因というのは自分自身にあることが多いのに、それにも気づかず相手に怒りを投げつけて満足する人が多いのです。
「でも、誰とでもうまくやっていきたいから頑張るの」
予想に反して、この女の子は怒りませんでした。パンダさんは、やわらかくて何でも受け止めてくれる、まるでスポンジのようだと思いました。きっと、自分の悪いところも他人の悪いところも目一杯吸収して、たくさんの選択肢を考えているのでしょう。周りに流され空気を読んで、それでも必死に楽しもうともがいているようでした。中途半端で要領の悪い生き方は、パンダさんとは相容れないものです。
しかし、そんなスポンジのようなスポンジちゃんのことを知りたいとおもいました
○●
「ねえ、このスポンジちゃんってもしかして」
少女の話が止まったその瞬間、翠は口を挟んだが、少女に阻まれてしまう。
「見て見て。日が暮れて、もう真っ暗」
翠が少女につられて窓の景色を見ると、ついさっきまでオレンジ色だった街は真っ黒に覆われていた。大きな窓ガラスは夜になると鏡のように変わり、蛍光灯に照らされた室内を映し出す。こんなに大きくて開放的な窓があるのに、この部屋にいると圧迫感を感じて仕方ない。空気まで人工物のように感じるのは、季節など存在しないという風に管理された、空調のせいだろうか。
「続きは?」
優しい声色で問いかける翠に、少女は一拍おいて話しはじめる。
「二人は、すごおく仲良くなったの。わーわーとうるさくみんなとしゃべるくせに友達といえる人は少ないパンダさんと、大人しくて人付き合いが不得意なスポンジちゃんは、全く正反対だけど、小学校の間ずっと一緒にいたの」
少女は再び口を閉じた。先ほどまでは止めても止まらなかったというのに、話が進むにつれ、言葉は途切れ途切れになっていった。この部屋に訪れた沈黙を破ったのは翠だった。
「あなたの、いや、パンダさんのそういう生き方、嫌いじゃないよ」
このパンダさんの話のどこまでが脚色なのか翠にはわからないが、目の前にいる少女のことは理解しているつもりだ。自分の意見がハッキリとしていて、ド直球。だから、このように少女が迷っているのは本意ではないはずなのだ。少女がそのままパンダのように生きたいなら、翠はそれを止めない。そう伝えるために、優しく微笑んだ。しかし、少女はその笑顔に顔をゆがめ苦しそうな表情を返した。そして一つ、深呼吸してから、話を再開する。
「次はなんと、中学生編なのです」
じゃーんと効果音がつきそうな調子で言った少女だったが明らかに空元気だ。翠はそれに気づきながらも、話し始めた少女の背中をおすように一枚ページをめくり、書きはじめる。
○●
中学生になり、スポンジちゃんは美術部に入りました。今までは一緒だった通学路も別々で歩くことが多くなり、同じ学校にいるはずなのに会わないことが続きました。今時、携帯だってあるのだから、そんなに離れた感じなんてしないと思うかもしれませんが、所詮、あんな機械など細い線をひいて繋がっているように見せかけることしかできないのです。パンダちゃんは悲しいと思いました。相変わらず自分の周りにたくさん人はいるのに、何かが足りないのです。
その日は、雨が降っていました。期末テストの最終日、パンダちゃんはなんとなく家に帰りたくなくて、意味もなく寄り道をしました。向かったのは、小学校のころスポンジちゃんとよく行った公園です。階段を登ると、ほんの少しだけ目線が高くなり遠くが見えるのが二人とも大好きでした。
一人で階段を上り屋根のあるベンチに腰掛けると、寂しさが襲いました。
何気なく通学路を眺めているとスポンジちゃんが歩いているのが目に入りました。隣に並んで歩いているのは、おそらく部活の友達でしょう。パンダさんの知らない子と楽しそうに歩いているのを見て喉の奥が締まるような感覚を覚えます。
スポンジちゃんは、階段の上にいるパンダさんに気が付き友達にお別れを言ってから、階段を上ってきました。
「久しぶり」
誰に対しても変わらない優しい笑顔です。パンダさんは、久しぶりが当たり前になってしまうことが恐くなりました。
もちろん、久々に会えたスポンジちゃんのことが嫌いなわけではありません。でも、スポンジちゃんを好きだと言い切れません。ならば、この中途半端は何でしょうか。白黒のパンダに、中途半端はいらない。プツリと切れたあの時のように切って捨ててしまおう。そう思うのに、スポンジちゃんの姿を見ると何度でも同じ思いに苛まれるのです。
どうしたらいいか分からない。パンダさんは自分の荷物を手に取り、帰ろうとしました。
「ちょっとまって。どうしたの突然。私、なにかした?」
何も言わずに帰ろうとしたパンダさんのことを、スポンジちゃんは手首を掴んで引き止めました。
なんでもないとそっけなく返しましたが、なんでもない訳がありません。何かがずれはじめたのです。好きと嫌いしかなかった自分の、知らない感情に対処できない。いらない。
「離れて」
掴まれた手を、払いのけただけでした。
しかし、ランドセルより重くなった中学生のカバンは、スポンジちゃんの体を後ろに引っ張りました。後ろは階段だと理解はしていても、ぐらりとよろめいた体を止める暇などなく。ただ、ドサリと階段の下まで転げ落ちたのを見ていました。そして、気づきます。
パンダさんは、大事な友達を。
○●
ボキリと鉛筆の芯が折れ、翠の手が止まる。少女は俯いたまま顔をあげない。
「あの日、あたしが、落としてしまった。階段から、翠ちゃんを」
相変わらず、大きな窓は静かなこの病室を映し出す。そこには、面白みもない白い壁。床。天井。木のクローゼット。そして、頭に包帯を巻き、白いベットに静かに座る翠。
「後遺症になるような怪我はなかった。けど、衝撃で軽い脳震盪を起こして、病院に運ばれた。ショックからなのか、落ちた時の記憶があやふやだった」
翠の手は止まったままだ。少女は構わず話し続ける。
「翠ちゃんは、階段を上ってる途中に足をすべらしたと思い込んでて。あたしと話したこともすっかり忘れてた。
だから、言うの迷って。あれは、事故じゃない。あたしのせいだ」
この一週間、真実を言わずにお見舞いにきた。このまま、何も言わずに元の関係に戻ろうとおもっていた。
しかし、少女のほうが限界だった。笑顔を向けられる資格のない少女にとっては、翠の「ありがとう」も「おはよう」も「またね」ですらも凶器になるのだ。自分で自分を許せない。いや、許してはいけない。この罪悪感を、白か黒で判断してはいけない。少女にとって、それは苦しくて耐えられなかった。何も知らずに笑顔を向けてくる翠に、君のせいでこんなに苦しいのだと言い聞かせたい。そんな最低な考えに至り、さらに自責の念にかられてしまう。
「そっか」
やっと言葉を発した翠に、少女はびくりと肩を揺らした。隠せない擦り傷を無数につくった翠を目の前にして、許しを請うほど図々しくはないつもりだが、事の顛末を話して自分だけ楽になろうとしている気がして息苦しい。
しかし、少女はここまできて話をやめるわけにもいかなかった。心の中で何度も謝罪を繰り返しながら、手を握りしめて少女は続けた。
「あたしね、パンダになりたかったのになれなくて。今までだったら、しんどくない選択肢を迷わず選べたのに。好きなことだけ選んで、楽だったのに。できなくなっちゃって」
道路を走る救急車の音が妙に大きく感じた。
翠は顔を上げなくなってしまった少女から目をそらし、窓を見た。
そこに広がる夜の街は、黒に覆われてなどいなかった。白と黒がたくさん混じり、善でもなく悪でもない人々が交じる。そして、階上にいる少女もまた、白も黒も選べずに彷徨っているのだろう。
「翠ちゃんにケガさせてから、この気持ちが、「嫉妬」とか「やきもち」とかいうんだって知ったの。自分の感情に対処できなくて、こんなことになって、どこまでも子供で」
だから、本当にごめんなさい。そう締めくくって、長い少女の物語は幕を閉じた。もちろん幕が降りても拍手はない。二人はお互い言葉を発さなかった。
しばらく時間がたち、翠はおもむろにもう一本の鉛筆を取り出した。そして、ちょいちょいと少女を手招きする。少女がスケッチブックの文字が見えることを確認してから、翠は自分の言葉で新たなページに書きはじめる
○●
パンダになれないとパンダさんは言いました。でも、私も同じなのです。私だってスポンジにはなれない。パンダさんは私のことを、自分の意思も欲もなく誰に対しても平等に優しい存在だと言います。でも、ただ優しいだけのスポンジではありません。
だって私、記憶があやふやになんてなっていないのです。
「離れて」
階段から落ちる直前に聞いたその言葉を覚えています。むしろそんなひどい台詞、記憶があやふやになって忘れてしまえばよかったのに、覚えています。
そして、パンダさんが初めてお見舞いに来た時、あなたの目の前が罪悪感で真っ暗になっていたことにも気づいていました。その上で、私は「何があったか覚えてないけど、あなたが救急車よんでくれたんだよね。ありがとう」と優しく微笑むのです。
ぐっと涙をこらえて平静を装うパンダさんを見て、私は包帯をまいた頭で考えていました。
「ああ、私が許さなければ、あなたの私に対する罪悪感は一生消えない。ずっと離れないでいてくれる」
常識や正論が裸足で逃げ出すような感情を、持ってしまいました。私には、意思も欲もこんなにあったのですね。こんなんだから、私は優しいスポンジにはなれません。
元凶はすべて私です。
階段から落ちたのも私が食い下がった結果の事故で、パンダさんは悪くない。むしろ私が階段から落ちなければ、あなたはパンダでいれたのに。白くて黒くて単純で、悩むこともなくまっすぐに生きる、愛らしいパンダでいれたのに。私が、パンダさんを人間に変えてしまったの。
でも、あなただってそうでしょう。あなたもスポンジだった私を変えたの。
〇●
「だから。お互い様だよ。どっちも中途半端で、白黒ハッキリなんてしてないただの人間」
コロンと鉛筆をおいて、翠は困ったように笑った。同時にスケッチブックの文字を必死に追いかけていた少女も顔をあげ、二人の視線は久々に絡み合った。少女の目にはまだ困惑が浮かんでいた。
「人はいつだってグレーだよ。ギリギリアウトでギリギリセーフ。ギリギリでいつも生きていたいから~ってやつ。ね?」
いつもなら少女の笑いを十分に引き出せる言い回しも不発に終わる。目をそらして再び下を向き始めた少女を、翠は許さなかった。
次の瞬間、病室にそぐわない乱雑な音が響く。それに思わず顔を上げた少女は、呆気にとられた表情で声を上げた。
「え。翠ちゃん、なにしてんの」
突然、翠がスケッチブックの紙をビリビリと破り始めたのだ。
「書いた物語を全部、無かったことにするわけじゃないよ。ただ、踏ん切りをつけるため」
翠は今まで二人で書いた物語を全部破き終え、新しい真っ白なページを撫でる。
そして、その最初のページに物語を書きはじめた。
〇●
パンダさんは、パンダではなくなりました。
「悪い」と「良い」の中間があることを知ったのです。「好き」と「嫌い」で成り立つわけではないことを知ったのです。パンダは人間に進化して、「黒」と「白」の間の「グレー」で迷い続ける覚悟を決めたのです。
スポンジさんは、
●〇
「鉛筆、貸して」
少女は翠の鉛筆をひょいっと取り上げた。翠は、まだ文章を書いてる途中だと不満を漏らすが、少女はどこ吹く風だ。そして「グレー」に二重線をひいた。
「白と黒の間がグレーだなんて、決まってないでしょ」
少女は「グレー」を消して「虹色」と書き足した。
白と黒の間は、きっと虹色。とても複雑で日に日に色は変わって、いつまでたってもよくわからない色。そんな中途半端な色だけど、それを謳歌するしかないのだ。二人で中途半端を見つけていこう。
また、続きを書きはじめる。
〇●
あとがき
長い文章になってしまいましたが、読んでいただきありがとうございます。
中学生の一日を、獲れたてピッチピチの産地直送で届けようと思って書きました。
もし何か伝わるものがあったのならば、貴方の強い感受性のおかげです。うれしいです。感謝。
暑さでぐでーんとなってしまう和歌山のパンダがかわいくて好きです。
パンダさんの成長 / もくふー。 追手門学院大学文芸部 @Bungei0000
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