手紙―視点―
kaku
夫
妻から手紙が来ている、と連絡があったのは、昨日の夜のことだった。
「これですよ」
初老の男性弁護士からすっと差し出されたそれは、業務用によく使われる、茶封筒に入っていた。
「ご親戚の方は、落ち着かれましたか?」
続いての弁護士の問いかけに、俺は「ええ、まあ」と曖昧に頷く。
一人暮らしを長くしていた祖母が入院したのは本当だが、それを理由にこの弁護士事務所に行くのを先延ばししていたのは、完全に自己都合だった。
祖母の入院の対応は両親がしていて、俺のできることなど、見舞いぐらいだった。
この弁護士事務所だって、車で五分ぐらいのところにあるから、本当に「行きたくない」から、行かなかったのだ。
けれど、昨日『奥様から、手紙が届きました』と言われて、そうも言っていられなくなったのだ。
俺は、じっと茶封筒を見つめていると、
「読まれますか?」
と、弁護士が訪ねて来た。
どうしようか、と俺は茶封筒を見ながら思った。
妻が家を出て行ったのは、半年前のことだった。
妻と俺は、結婚相談所で知り合った。
俺は、恋愛とかほとんどしたことがなかった。
「恋愛」というものに憧れはあったけれど、どうやって進めて行くのか、全くわからなかったのだ。
そうこうしているうちに三十代も後半になり、結婚相談所に入ることにしたのだ。
結婚相談所ならば、理想の「妻」を見つけてくれるだろう、と。
そうして出会ったのが、妻だった。
明るい表情をした妻は、俺の話を笑顔で頷きながら聞いてくれた。
勇気を出して「結婚して欲しい」と言った時も、「わかりました」と笑顔で頷いてくれた。
俺は。
自分の全てを受け入れてくれる、理想の妻を手に入れた、と思った。
だけど。
結婚してからの妻は、全然理想とは違っていて。
俺が冷蔵庫に入っていたおかずを食べたら「勝手に食べないで!」と言い、洗い物をしてあげていたら、「乾いた物を勝手にしまいこまないで」と苦情を出し、「トイレを掃除したよ」と報告しても、「わかった」と言うだけで、お礼の言葉もなかった。
それどころか、朝ごはんは作ってくれないし、お弁当だって俺は自分で作らないといけなかった。
俺が帰ってくる頃に家にいないし、妻との生活は、俺の理想とは全然違っていた。
俺は結婚したら朝起きたらできたてのご飯ができて、妻は手作りのお弁当を渡してくれて、笑顔で送り出してくれると思っていたし、帰って来たら、妻が笑顔で『お帰り』と言って、できたての夕飯を出してくれるものだと思っていた。
ご飯の後は二人で後片付けして、TVを見ながら話して、寝て、休日は、一緒に起きて、二人で朝ご飯を作って、家事をした後は、二人で出かけたりしたかった。
そして外出先から帰って来たら、ゆっくり珈琲でも飲みながらテレビを見て、まったりとした時間を過ごすこともやってみたかった。
だけど、現実は。
妻は俺の出勤時間には起きて来ず、仕事帰りも俺よりも遅かった。
お互いシフト制だったから、休みも重ならず、だんだん俺は、「こんな生活は、俺の望んだものじゃあない」と思うようになった。
だって、こんな生活は、俺の望んだ生活じゃあなかった。
俺は、自分を優しく包み込んでくれる女性と、結婚したはずなのだ。
なのに、妻は事あるごとに、俺を責め立てた。
何をしても、注意されて、「こうしなさいよ」と言われる。
妻の言う通りにするのは、苦痛だった。
苦痛で仕方がなかったから、俺は自分の部屋に閉じこもった。
妻がいつか、その部屋を開けて、「ごめんね。あなたに優しくしないで」と言ってくれると思っていた。
けれど。
そんな日は、来なくて。
代わりに、妻は「別居したいの」と言って、俺と住むアパートを出て行ってしまった。
俺は、止めた。
でも、妻は「どんな結婚生活を送りたいのか、きちんと本音で話し合いたいの」と理解できないことを言って、出て行った。
そうして、外で会った時も、「どんな結婚生活送りたいのか、考えて来た?」と開口一番訪ねて来て、俺はどう答えて良いかわからなかった。
そのうち、休みのスケジュールをラインで伝える度に、「離婚について話し合いたい」と連絡するようになって、とうとう耐え切れなくなった俺は、弁護士を探して、妻と離婚について話してくれるように頼んだのだ。
最初、弁護士は乗り気だった。
『ちょっと、奥さん自分勝手ですね。わかりました、あなたの言い分をきちんと話して、奥さんに理解してもらいましょう』
と、言ってくれたのだ。
俺は、これで妻が「ごめんなさいね、あなたに優しくしないで」と謝って、戻って来てくれる、と思っていた。
けれど。
妻も自分の弁護士を立てて来て。
妻の弁護士の方から連絡が来たとたん、今、俺の目の前に座る弁護士は、弱気になった。
『これは……正直、難しいです』
妻側の弁護士から送られて来た「資料」を見ながら、弁護士はそう呟いた。
『まず、第一にセックレスであったこと。これ、話してもらっていませんよね? 挙句、奥さんの方が解決に向けて積極的に動いていますよね。生活費も、あなたの方が少なく入れていますし、奥様がそれを勝手に浪費していた様子もありません。きちんと生活費に使われています。それに、奥様の方があなたと一緒に交流するために、積極的にお出かけに誘ったりしていることも記録に残っています』
確かに、弁護士の言う通りだった。
妻が「一緒に習い事しようよ」と誘って来たから、俺は妻と一緒に料理教室に通っていた。
お出かけなんかも、妻が企画していたものに、俺が一緒について行く、という感じだった。
『あなたは、夫婦仲を改善するために、何か積極的に動かれましたか?』
弁護士の問いかけに、俺は答えることができなかった。
『奥様に戻って来て欲しければ、調停、と言う方法もあります。ですがその場合、調停人に全てのことを話さないといけません。そして、奥様もそれは同じことです』
そして、弁護士の言った言葉の意味も、理解できなかった。
『簡単に言えば、夫婦の知られたくないことも、赤の他人に全て離さなければならない、ってことです』
セックレスのことも。
俺は、一番知られたくないことだった。
俺にとって、「セックスが怖い」と思っていることを他人に知られることは、死にたくなるぐらいの屈辱だった。
実際。
そのことを知ってからの弁護士の俺を見る眼差しは、どこか憐れんでいるように思えた。
屈辱、だった。
だから。
俺は妻の言い分を飲み、離婚を承諾した。
そうしたら、速効で離婚届けが妻の弁護士から届けられた。
後は俺のサインを記入して、役所にそれを提出すれば、離婚は完了だった。
けれど。
それから二週間。
俺は、祖母の入院を理由に、弁護士事務所に来るのを避けていた。
俺は、離婚はしたくなかった。
そのことを、妻にも気付いて欲しかった。
けれど、妻からは何の反応もなくて。
そして、今日。
妻の手紙が目の前にある。
「読んでもらって……良いですか?」
情けないが、声が震えた。
それでも、俺の望んでいた言葉が書いてあるかもしれない、という一抹の希望も捨てられない。
「……わかりました」
どこか呆れたような口調にも聞こえる声で、弁護士が頷く。
カサカサと、手紙が開かれる音が聞こえた。
「『あなたへ
離婚を受け入れてくれてありがとうございました。あなたも、また次のご縁があって、縁づく時が来ると思います。
どうかその時は、自分の思いを相手の方に伝えるようにしてください。
相手の方があなたの期待する言葉を返さなくても、あなたとは違った意見を出して来たとしても、それは、あなたの全てを否定することではありません。
どうか勇気を持って、お互いが納得できるまで話し合いをしてください。それが、私があなたとしたかったことです。お元気で』」
低めの声で読まれた手紙は、それだけが書いてあるようだった。
「……良いお手紙ですね」
手紙をたたみながら、弁護士は言った。
手紙の内容を聞いて。俺は、望みがあるんじゃないか、と思った。
妻は、『それが、私があなたとしたかったことです』と書いていた。
それは、きっと俺にまだ未練があるからなのだ。
「……妻に、手紙を書きたいです」
それならば。
離婚届けと一緒に、手紙を添えて。
俺の気持ちを、妻に伝えようと思った。
『許してあげるから、もう一度がんばって欲しい。俺も手伝うから』、と。
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