第6話 桜の誘拐
桜の下には死体があると、花見の席でよくぞ言えた物だと輝夜は、浮気調査のために花見をする人々に紛れる。
聞こえてきた会話はそんなロマンの欠片もない話なものだから、真っ昼間とはいえあまり気分は良くない。
これが他の年頃の娘であれば、やだもう、だなんて告げて笑って嫌がる素振りのひとつでも見せれば可愛げがあるのだろうけれども。
何せ自分は厄介な宿命に生きているらしいと最近自覚しつつある輝夜なものだから、うんざりとした表情をした。
「先生、どうしたのです?」
「あれ、お前も花見に来ていたのか、仕事中だよ」
後ろから声をかけられれば、桜の影から現れたのは市松だ。
何処か少しだけ幼い雰囲気がしたが気のせいだろうか。
市松は何せ、両手一杯にいなり寿司の入ったお弁当箱を抱え、いなり寿司を食べている。
これで市松でないというのなら、驚きだ。
市松はいなり寿司を差し出し、輝夜に提供しようとした。
小腹が空いてるものだから、一つ口にし有難く頂戴した。
「今、依頼人の旦那を張っていてね」
「桜の下で浮気とはずいぶんな御方」
「私もそう思う、威勢が良いな堂々としてる。この分じゃ慰謝料取られても仕方ないだろう」
輝夜は少し変わった風味のいなり寿司を口にしながら、写真をいくつか収めまたなりを潜める。
すると市松がまたいなり寿司を勧めてくる、珍しい物だ好物をやたらとくれるだなんて。
「先生はお花お好き?」
「桜は好きだよ。精神の美を意味するのだから、きっと心を意味してる。心の中がこんなに艶やかだと素敵だよな」
「ふふふ、そう」
市松は嬉しそうにまたいなり寿司を勧めた、これで三つ目を口にする。
何だか……食べる毎に目眩がするのだから、何かしら疲れてるのだろうかと思案を巡らす。
「先生、神域についてどのくらいご存じ?」
「吉野がその神域だということくらいしか」
「吉野は、きっと染井吉野からきてるのよ。桜の品種の一つ」
「だとしたらあいつが神域なのは面白いな、桜も神だと現すようだ」
「そうかもしれない。先生、桜のもとで行う花見は昔から夢うつつ分からなくなったりすることもあるのよ」
「……今日のお前は多弁だな」
「先生、神域はね、こっそり。そう、こっそりとばれないようにお気に入りを、神の世界へ招きたがるの。お気に入りに嫌われたくないもの、だからばれないようにこっそりと神の力を注ぎ込んで、神に近しくするの」
「へえ、するとどうなるんだ」
「世間がね、そのお気に入りを忘れてくださるの」
市松が不穏に口元をずらして笑った瞬間、桜の木から吉野が現れた。
吉野は市松が持っていたいなり寿司の入ったお弁当箱をたたき落とすと、お弁当箱と市松だった姿は消え、笑い声だけが残っていく。偽物だったらしい。
子供の笑い声が、「またね、輝夜」と賑やかに消えていく。
吉野の登場に驚いた輝夜だが、吉野は輝夜の様子に構わず口元にイカ焼きを突っ込む。
温かく。それはやたら磯臭い、生命の味がする。
「あれは桜の精だ、おねえさん。あの狐に化けて、神の食べ物を与える行いで、おねえさんを招こうとしていた」
「このイカ焼きは?」
「これは貴方を現世に戻すために、現世で売っていた物を買ったものだよ。人の手で焼いた、現実の火を通した温かい物を食べれば向こう側に戻れる。此方の世界に来てはいけないよ、おねえさん」
「此方? 君はやっぱり……」
「兎に角、人の世界に戻るんだ。おねえさんにはそれが一番イイ。どんな目に遭おうと、貴方が生きるべき世界はきっとあちらなんだ。……おねえさん、ずっと。ずっと貴方の幸せを祈ってる。俺のした行いは許されなくても、貴方の幸せだけは守ってみせるよ、貴方の命が尽きる日まで。いつまでも、貴方を愛している」
吉野は切ない笑みを浮かべ、輝夜の頬と唇を親指で撫でた。
イカ焼きをもぐもぐと咀嚼し終わる頃合いに、瞬けば吉野は消えていて、人々の喧噪が聞こえる。
人の世界とやらに戻ったようで、先ほどまで匂いはしなかったのに、出店の匂いが漂う世界へと戻った。
取り込まれそうだったのだろう、神の世界とやらに。
今回ばかりはきっと本物の市松でさえも助ける行いは出来なかっただろう。
神域に、初めて触れたのだから。
どこからがうつつで、どこからが神域の世界だか、輝夜にはさっぱりと分からなかったが、これからは白昼夢に気をつけようと意思を固めた。
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