第33話
無重力の通路の中を、一直線に飛んでいく。行く手を阻む重厚な扉へと、私の中の端末が遺伝子情報を送る。直ちに照合された後、静かに扉が開いていく。
血圧に心拍数と、求められる情報が扉を開ける鍵となり、幾重もの扉を抜ける。要求通りに記憶ファイルまでも送ると、最後の扉が開かれた。
筒状の、回転する空間に出る。
純白の光に照らされた部屋の内側に、等間隔でモノリスが立ち並ぶ。長方形の物体で、全ての光を吸い込む黒だった。
回る部屋の中心軸から外縁部へと続く階段が三つある。その内一つの階段の手すりを両手で掴む。一段ずつ慎重に、横方向への圧力に、慣らしながら降りていく。遠心力に、よろめきつつも降り立つと、部屋の奥から一層巨大なモノリスが姿を見せた。
シズクと共に小さなモノリスの間を進む。
耳に届く排熱音で、一つ一つが稼動中の端末であると理解できる。稼動ランプの一つも無いが、各モノリスの状態は私の体内端末越しにも確認できる。全モノリスが正常で、物理的な故障は無い。
最も大きなモノリスに赤い光が宿る。
その光はモノリスの内から滲み出るかのようで、暗くも鈍い光を放つ。周期的に弱くなる光に誘われ、私はそっと手を触れる。深紅の光は強く瞬き、低くて深い唸りを上げた。
視線を落とす。シズクが鳴いた。それも大きな声だった。
「こんな所まで来ちゃったね」
待っててね、と言おうとしてやっぱりやめた。その代わり、撫でようとして手を近づける。嫌がるかなとも思ったが、シズクは自ら頭を伸ばし、私の手に擦り付けた。
「やるよ。シズク」
ゴーグルを着ける。そしてモノリスの内へと落ちて行く。
暗黒の空間で光の一つも存在しない。誘われるままに身を任せ、どこまでも尽きぬ闇に沈み込む。
どこかの誰かの記憶が浮かぶ。
楽しそうな笑顔だった。シャボンのように浮かんでいき、弾けて消えてそれで終わった。
違う誰かの記憶が浮かぶ。
悲しそうに泣いている。シャボンのように浮かんでいき、弾けて消えてそれきりだった。
続々と、記憶ファイルが浮かび上がっては泡沫のように消えていく。
一つ一つに一人一人が、泣き笑い。怒り悲しみ、驚き喜ぶ。
年齢、性別、生まれに育ち、何もかもが違っている。それでも揃って共通するのは、たった一つ。全員が幸福そうにしている事だった。
シャボンに浮かぶ記憶ファイルを掻き分けて、下へ下へと、深く深く潜っていく。記憶の泡が産まれる先に、何か浮かぶのがわかる。手に取ってみれば、白いキツネの仮面であった。
白地に赤色の隈取り。吊り上がった眼や口に、鮮明な化粧が施されている。
指先でキツネの頬を擦った時、七色に輝く巨大なシャボンが現れた。
モノクロ調の服格好をした女の子の後姿がシャボンに映る。うす暗く、灯火が揺れる和風の部屋で、光に向かって歩いていく。その姿へと手を伸ばしかけ、そして下ろす。一緒に視線も下ろすと、緋袴の足元に、灰色の毛並みをした青い瞳の猫がいた。
膝をついて猫に触れる。ひとしきり撫でまわした後、抱きしめ両目を閉じる。やがて視界が戻ると、猫を置いて後を追うよう、手で押した。
振り返って猫は鳴く。もう一度、猫を手で押す。もう一度だけ鳴いた時、光に向かって駆けだした。
シャボンが割れる。
すべての泡が弾け飛ぶ。
どこまでも続く暗闇の中、落ちてきたシズクを受け止める。そして小さな身体を抱き締める。小さな身体を支えながらも手を放し、シズクを自由にさせると、モノリス内のファイル群へとアクセスした。
数千、数万にも及ぶ、ファイル群を走査する。ゴーグルの力をフルに生かし、百ものファイルを同時に読み取る。データベースにミドルウェア、その他バックアップに至るまで、センの欠片を同時進行で確認していく。
無事だったのはミドルウェアの一部だけのようだ。巫女装束のモデルデータも、データベースの内部も含めて、あらゆるデータが破壊されている。センを作る根幹部分はその原形を留めておらず、ほぼゼロからの修復となる。
ファイルの走査も終わらぬ内に、早くもコードを書き始める。
センが言っていたロジックとデザイン、すなわち論理と感覚の内、論理の部分に手を着ける。合理的で理にかない、論理的で因果が成り立つ。原因があって結果がある。一つの問いに一つの答えの、昔から変わらぬ記法で書いていく。
五、十、十五とファイルを作る。変更を遡れるように、コードを書きつつ動作させ、バックアップも取っていく。
思う通りに、思うがままに。思考操作で書いていく。時間も、疲労も、空腹も全て何もかも、意識の外に追いやって、自分とそして、未来のセンと二人だけの世界に沈む。世界の時間は加速して、万にも及ぶファイルとなった。
胸いっぱいに空気を吸い込み、ゆっくり吐き出す。
大方動作の確認を終えた。次は核となる学習データの挿入だ。
誰もが知っている言葉と定義をイメージによって関連付けて、基礎学習を行う。全ての言葉を学習させる必要は無い。最低限、知るべき言葉を押さえておけば、必要に応じて自ら物事を学ぶだろう。
学ぶべきデータを見繕う。生まれたてにも等しい、全くゼロのシステムだ。ならば分かりやすいものが良い。小さな子ども向けの図鑑や絵本を中心に据え、あらゆる本を集めた。
論理から感覚に移る。
二足す二は四ではなくて、五にも六にもなっていく。不確定で曖昧な、複雑怪奇な感情をコンピューターでどのようにして再現しよう。そもそも再現可能かどうかも怪しいが、少なからずセンと言う名の前例が居るから可能であるのは確かだろう。
ゴーグルを一度外して貰った飴の包みを解く。青色をした飴玉を口へ放り込んで、また戻る。
センは何と言っていたっけ。外部からの刺激がどうとか、パラメーターがあるだとか。そんな話を聞いた気がする。刺激に対して上下するパラメーターを用意して、数値によって反応をさせる、で上手くいくだろうか。
例えば誰かの笑顔を前にした時、あるパラメーターの数値が上がる。数値によって顔がほころび、喜びの感情として知覚させる。知覚するのは論理側だから、既に作り終えている。気にするべきは周囲の状況一つ一つ、全てに対応できるプログラムだ。連続的でアナログ的な周りの環境全てを評価するなど、可能だが現実的とは言い難い。
すっかり空いた感情部分をぼんやりと眺めながら、口に広がる果実の甘い香りを舌で転がす。香りは一層強くなり、歯にぶつかって音を立てる。いつの間にか起きたらしい。シズクが寝ぼけた調子で大きく鳴いた。
名前を呼んで、頭を撫でる。
両目を細めて喉を鳴らす。もっともっとと言わんばかりに、身体を私に擦り寄せる。優しく抱き上げると、シズクはゆっくりと大きな両目を開く。
海だけの青い惑星のような澄んだ瞳に、私の影が映り込む。なんだかそれが嬉しくって、思わず顔が緩んでしまう。艶やかな毛並みと、ふわふわの両手。円みを帯びた両の耳から長い尻尾の先まで、全てが愛おしくて可愛らしい。色々苦労もあったけど、離れすぎず、近づきすぎず。いつだって傍に居てくれた。
ありがとう、シズク。私の傍に居てくれて。
私の腕の中から飛び出し、背を向けて、そして長い尻尾で手招きをする。首だけ回して鳴くと、立ち上がって真っ暗闇に歩き出した。
シズクを追って一歩踏み出す。
緑が広がり、草花が茂る。
もう一歩、前に進む。
今度は青が広がって、蒼天の光が包む。
さらに一歩踏みだせば、晴れた空から雨が降ってきた。
優しくて柔らかく、雨なのに温かくある。空に浮かぶ雲は無い。青一色の天蓋が覆うだけだ。雨の雫は草花に当たり、弾けて跳んで光を放つ。
綺麗だね、と囁きかけて空の涙を受け止める。透明な雨の雫は手の中で、空の色を受けて輝く。視線を戻して見てみれば、シズクの影も形も消えていた。
「シズク?」
雨の音ばかりで返事は無い。
「シズク」
草と花の他に動く物は無い。
「シズク! ちょっとシズク! どこにいるの!」
私の声は何もない草花の上を抜けるばかりで、響きはしない。応じる者も、返事すらも無く。良く晴れた空にたった一つ。虹の橋が架かっていた。
ファイルが勝手に開かれる。文字が自ら生成されて、その直後から変化していく。どれ一つとして固定された文字は無く、常に揺らぎ、移ろい変わり、不要な文字から消えて行く。続々と増えたファイルは連携し合い、作成済みのロジック部分と結合する。
一つでは不安定に思えたファイル達は、互いに影響し合いながらシステムとして安定していく。やがて一つの塊となると、行き場を探して彷徨い始める。
急ぎ、私が持ってる記憶ファイルから身体のモデルを生成させる。できたばかりのモデルファイルを展開すると、立派な寝癖を宿した幼い身体が現れた。
システムが身体に宿る。
女の子の目が開いていく。澄んだ空の光を受けて青く光る。頬に付いた雨の雫に虹の七色が輝く。指先で雫を拭ってあげると、黒くて長い前髪が風に揺れた。
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