第27話

 似たような調子の記憶ファイルを次々漁る。女の子と暮らした日々のファイル群は膨大で、気づけば時間が過ぎていたようだ。

 部屋いっぱいにアラームが響く。見れば既に午前五時を指している。深く息を吐き出して、ゴーグルを外す。そしてベッドに放り投げると、ルームサービスに着替えと食事を用意させてシャワーを浴びる。

 履歴から出した食事は変わらず。温かい米に味噌汁に焼き魚、野菜の煮物に冷たい麦茶のセットだ。昼食用のセットながらも、今更メニューを変える気力もない。椅子に着き、そして箸を取る。ほんの少し口にすると、残りは全て片付けさせた。

 帽子を掴む。言うこと聞かない髪を押さえて帽子をかぶる。

 部屋の中を見渡して、忘れ物が無いか確認をする。そもそも持っていく物なんて大して無い。唯一、ゴーグルだけを拾い上げると、靴を履いてシズクを呼んだ。

 返事するようにして鳴いて、足音も無くやって来た。あごの下を二、三度撫でて、行くよと言って立ち上がる。シズクと共に部屋を出ると、エレベーターから地上に降りた。

 夜明けの外を一緒に歩く。

 波の音に海の香り。海より吹き込む朝の風はやや強くあり、帽子は今にも飛ばされそうだ。

 荒ぶる髪を掻き上げて、帽子を上から押さえる。紺に染まった暗い空が、紫、そして茜に赤に燈、黄と徐々に白みを帯びてくる。

 どこまでも並ぶ同じベンチに街灯だけの散策路を歩く。

 目印は無い。でも分かる。

 太陽が顔を出す。長い長い影を落として、遥かに遅れてシズクが歩く。立ち止まり、振り向く度に、シズクは抗議の声をあげる。猫の癖して、と思っていると、探していた人影が歩いてきた。

 レザーのトランクを手に持って、首からカメラを提げている。もちろん入国者グラスも忘れずに、いつものように着けていた。

「スズネさん」

 シズクが隠れる。目の端で姿を追いかけながら返事をする。彼は一度、シズクが逃げた先へ目を向けるも、何事も無かったかのように向き直る。

「行きましょうか」

 小さく頷く。シズクに合図を送って、セラフの隣を歩く。駅へと続くエレベーターに乗り込むと、鞄は座席後ろのトランクへと詰め込み車に乗った。

「僕の国には自由があります。法に基づき保証された人権の下、人は人らしく、幸福に満たされた毎日を過ごしています。自由、平等、博愛と言えばフランスですが、間違いなく僕の国にも継承されています。コンピューターでは無く、人間による政治によって、皆幸福に生活しています。きっと、スズネさんにとって良い刺激になるはずです」

 膝の上ではシズクが小さくうずくまっている。小さな身体に手を乗せて、そのまま何度も繰り返し撫でる。

 車はやがて環太鉄道駅地下の、自動車用の駅に着く。セラフと、私に次いでシズクが車から降りると、カーゴロボットがレザーの鞄を取り出した。

 カーゴロボットを従えてエスカレーターに乗る。二人と一匹で一つのステップに、一段下ではロボットがトランクを運んでいる。仮想の鳥居を幾重も抜けてフロアに立つと、誰も居ないターミナルを抜け、出発ロビーへと向かう。

 無人の手荷物検査にて、カーゴロボットに別れを告げる。セラフは入国者グラスを返却すると、ラウンジへと無事抜けた。

 海面際の大窓に波が何度も打ち寄せて、空と海中どちらも同時に見て取れる。柔らかく、厚みのある一人用のソファに深く腰を下ろすと、狭苦しい中シズクが無理に飛び乗った。

「怖くない。大丈夫」

 小さくて臆病な、生き物の背中に触れる。密着しているから分かる。シズクの震えを抑えるように、丸くて小さな身体を包む。

「今、なんと?」

「なんでもない」

 会話も無いまま時間が過ぎる。燈色だった空は気づけば空色で、赤みも消えていた。

 合成された音声が、列車が到着すると告げる。英語とそして日本語で、それぞれ二度ずつ、合計四回、聞き漏らす者が居ないように丁寧に案内をした。

 行きましょう、と立ち上がったセラフを追って立ち上がる。何度も何度も鳴きながら、シズクが後ろに続く。

 一階層分下に繋がるエスカレーターに乗る。足元だけが照らされた暗いトンネルを抜けて、巨大な半円筒のホームに降りる。

 四つのホーム全てを覆うガラス張りの天井に、海水面が映り込み朝の陽射しも相まって、眩むほどの不規則な光の模様を描きだす。

 早朝だから、の割に人は誰もいなかった。

 反対行きの列車が窓から光を放ち、唸りながら発車する。赤色のテールランプを見送ると、間もなく列車が来ると放送された。

 予定の列車はすぐに来た。

 無数のヘッドライトを点灯させて、けたたましくもミュージックホーンを鳴らす。圧縮された暴風とメロディとが一緒になってトンネルを抜け、広いホームを駆け回る。

 帽子を強く押さえ、強風に目を細める。ブレーキ音など全くさせず、徐々に速度を落として行く。いくつもの窓が駆け抜け、やがて小さな扉が目の前で停止する。

 すぐには扉は開かない。まずは奥側、降車用の扉が開く。同時にホーム下では荷物室の扉が開けられ、車体とホームの隙間からレザーのケースが運び込まれるのが見える。

 降車用の扉が閉まる。回転灯に光が灯り、幾つか警告が現れる。ホームから伸びるステップが車体との隙間を埋めた後、安全柵と乗車用の扉の二つが示し合わせたのかのように、同時に開いた。

「行きましょう」

 促され、環太鉄道に乗り込む。

 太平洋を右回り。即ち、日本を出てから北方向へと向かう列車に人は少なく、むしろ居ないと言って良いほどだ。貸し切りの車両の中から私達の席を見つけると、窓際の席に座るようにと譲られた。

「飛行機以上に面白くありませんが、折角ですし外の景色が見れるほうが良いでしょう」

 窓を使ったデジタルサイネージに運行会社のロゴが映る。それは正面、座席の背面に備えられたモニターも同じで、全てが同時に切り替わった。

 万が一の事故時における対応と、乗車マナーの注意が流れる。トイレの位置と飲食物の注文に、客室乗務員の呼び出し方法までもを説明するとモニターは切り替わり、太平洋の全域と現在位置が映し出された。

 発車サイン音が鳴り渡る。

 扉が閉まり、ホームドアも閉じていく。隙間を埋めるステップもホーム下に格納されて、荷物室の扉も閉じる。なんとも奇妙な静寂の後、ホーム上で見送った時よりも、静かに列車が動きだす。

 シズクが私とアームレストの、狭い隙間に無理に身体をねじ込んで、自分の尾を抱きしめている。窓の外に目を向けながら、小さな身体を優しく撫でる。安全柵が徐々に速度をあげて後ろへ流れて消えた。

 光満ちるホームを飛び出し、海面直下のガラス張りのトンネルを行く。魚の影も形も無い中、緩やかな勾配を列車は更に加速する。朝の日差しは遥かに高くて遠く離れ、もはや手が届くとも思えない。深海へと突き進む、長く連なる宇宙船は充分以上に速度が乗ると、タイヤを車体に納め高速走行へと移行した。

 そこから先は何もなかった。

 暗黒の海が広がるばかりで、魚も何も見えやしない。窓に映るのは、鏡のように反射した自分の姿ばかりでそれ以上の物はない。唯一、窓に映し出された偽の魚が一匹、二匹、暗い海の中で列車と共に泳いでいる。

 暗い窓に寄り掛かる。

 走行音や振動が車体越しに感じられる。長い前髪を持ち上げれば、窓の向こうの私も一緒になって髪をあげた。

 綺麗な額が窓に映る。眉の他に何もない。髪をまた元に戻すと、私はゆっくり目を閉じた。

 瞼の裏に、ステップだけの透明な下り階段が続く。全く同じ間隔で、何かが弾む音に振り向けば、ボールが弾み落ちてくる。段々毎に音を立て、やがて私を通り抜けると、果ての果てへと落ちて行った。

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