十一
第22話
ベッドに腰かけ倒れ込む。反射光の照明の中、暗い天井を見上げる。
セラフの国に行ってみれば、何かが変わるのだろうか。センも、そして母親からも、手の届かぬ所へ行けば、誰にも口出しされない場所でなら、何かを得られるのだろうか。
不意にシズクが現れた。咥えていたねずみのおもちゃを放して、ベッドの下から鳴く。
疑問符が付いたかのような鳴き声を無視して、頭を腕に横たわる。
シズクがベッドの上に乗ったらしい。沈み込む感覚が伝わる。少々荒い鼻息に、毛の擦れるような物音が、すぐ後ろから聞こえてくる。しばらくの間ごそごそ何かをやっていたが身体を私に押し付けると、それっきり大人しくなった。
背中からシズクの体温が感じられる。温かく、そして心地良い。ゆっくりとした呼吸に合わせて、膨らんでは縮みを繰り返す。体温と、呼吸とそして鼓動を感じながら、夢の世界へと呑まれていく。
「学校へ行きなさい。これもアンタの為なんだから」
学校なんか行きたくないと言った途端にこれだった。私の為にならないと言っても言っても聞きやしない。最大最悪、私にとってのラスボスは間違いなくこの人だろう。
「なんで? お母さんは学校に行ってないじゃん」
「お母さんはちゃんと学校に行ったの。スズネみたいに我が儘なんて言わなかった。ちゃんと勉強して、友だちもいっぱい作ったの。スズネもそうしないと、大きくなった時に困るわよ」
「別に困ってない」
「今はお母さんがいるからでしょ! いつかはお母さんも居なくなるんだから、その時学校行っていないと困るわよ」
「どんなふうに?」
「もう、時間が無いんだから文句言わないで早く行きなさい。これ以上親に向かって口答えしたら怒るからね!」
もう怒ってる。
そう言えばまた怒られるから心の底に抑えつける。
大きく燃え盛る感情を小さく小さく押しとどめ、箱に入れて鍵をする。二度と溢れ出さないように、鎖で封印まですると、二度と見つからぬほど深い底まで落とし込む。
一人で自動車に乗り学校に行く。
学校地下のホームには、同じくらいの子ども達が談笑しながら、駆けながら、揃ってエレベーターホールへと向かう。待っていた、同年代の男の子達のエレベーターに乗り込むと、少し遅れて走ってきた女の子を最後に扉が閉じた。
「おはようございます」
小突き合いと、まる聞こえの内緒話が消え去った。
まばらながらも男の子達から挨拶が上がる。扉の前の私の横で、女の子は上がった息をそのままに、おはようと、笑って私に言った。
「スズネちゃんさ、小数の掛け算ってやった?」
「やった」
「あれムズくない?」
「別に」
エレベーターが停止する。小学一年生のフロアだ。奥の奥から掻き分けて、降りる子の為に出口を譲る。
「すごいね。じゃぁ今度さ、教えて」
「調べればいいじゃん」
エレベーター内に戻る。少し余裕ができたものの、すぐ目の前で扉が閉まる。
「今算数、何やってるの?」
「三次関数」
また止まり、扉が開く。私と女の子を残して、全員がエレベーターから降りた。
「それって、何年生のなの?」
「知らない。カリキュラムにあったからやった」
「ムズいの?」
「いや」
二人だけになった。女の子は思い出したかのように、小さな鞄を持ち上げる。肩ひもと鞄の付け根にぶら下がる、毛玉のような何かを私に向けると嬉しそうに口を開いた。
「見て見て、可愛くない?」
目を向けて見てみれば、デフォルメされた猫のキーホルダーだ。トパーズにも似た黄色い瞳に白灰茶の三毛猫だった。
「うん。可愛い」
私の言葉にとびっきりの笑顔を向ける。鞄の中をかき回し何をする気かと思えば、もう一つの猫のキーホルダーを差し出した。
「お母さんと作ったんだ。スズネちゃんにもあげる」
灰色の猫だった。海のように少々濃い目の青の瞳に、円みを帯びた二つの耳が乗っている。受け取ろうと手を差し出すも、途中でダメだと思いとどまり、出しかけた手を引っ込めた。
「いらない」
「なんで?」
女の子は残念そうで、悲しそうで、今にも泣き出しそうだった。見ていられなくて目を背けるも、その子は更に一歩食い下がってきた。
「ねぇ、なんで?」
「お母さんが猫を嫌いだから」
「なんで? 嫌いなのはお母さんでしょ?」
「怒られるからいらないの!」
女の子の手を思わず叩く。
灰色の猫のキーホルダーは床に落ち、青い目で見上げている。それがあまりに鬱陶しくて煩わしく、見ているだけでも腹が立つ。
キーホルダーを蹴り飛ばすと女の子は泣き出した。
エレベーターがやっと止まる。聞き覚えのある音に合わせて扉が開く。
涙を流す女の子をそのままに、暗い廊下へ踏み出した。
ぼんやりとする頭を持ち上げ身体を起こす。張り付いた瞼を擦って目を開ける。明るくなった部屋の照明に、目を慣らしつつ両手を組んで伸びをする。
気づけば眠っていたらしい。知らぬ間に、センからメッセージを受け取っていた。
ベッドで眠るシズクを撫でる。
前足で顔を擦り、細く青い目を開ける。夢現の中、声を出しながら欠伸をすると、起き上がってすり寄ってきた。
ゆっくりとした瞬きの後、額から首にかけてを擦りつける。
指先で灰色の頭を掻くとセンのメッセージに目を通した。
「シズク。行くよ」
我に返ったのかのように、大きく両目を開け返事をする。
ゴーグルをルームサービスから受け取って、冷たい麦茶を用意させる。出された麦茶を一気に飲み干すと、ゴーグルを付けて椅子に座った。
「スズネちゃん。あのね」
こぢんまりとした和風の部屋に巫女装束のセンがいた。センは何かを言いかけたが、すぐにその口を閉じる。私のすぐ足元でシズクが鳴いたかと思った途端、猫の仮面が飛んできて、手の中に飛び込む。
「セラフって人なんだけど」
仮面を着ける。
センはしばらく俯いて、そのまま話すのを止めた。代わりにキツネの仮面を取り出すと、両手で身に着け、白いキツネの顔をあげる。
雨降る音にシシオドシが混ざる。
センを無視して私は一人で先に部屋へと向かう。椿の襖の前で止まると、それは自ら動いて左右に開く。
今日は一番乗りらしい。六つの座布団の一つに腰を下ろす。
一分、二分と過ぎていく。イヌの人は現れない。一人きりの空間で、不意に思い出し本を取り出す。
読んでみようか、なんて思いながら本の中に指を差し入れた時だった。畳と布の擦れる音に顔を上げる。開いた椿の襖から、イヌと、キツネが入って来た。
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