七
第12話
「ごめん。遅くなった」
いつもの通りの空間で、大丈夫だよと、センは言った。
シズクが足元に現れる。センと、そして私を見上げて大きく鳴いた。青い瞳に笑いかけると、センの背後に消える。代わりに猫の仮面が現れて、私の手元に収まった。
「ありがとう。いいタイミングだった」
「何の事かな」
センは笑う。釣られて笑う。私は猫の仮面を着けると彼女に続く。
三人が既にいた。私はイヌの隣に座る。空いた座布団は二つ、タヌキとキジが居た場所だった。
やや間を置いて今日はサルが立ち上がる。パーマが掛かった短い髪は明るめの茶色で染められて、丈の長いカーディガンを羽織っている。ベージュ色をした服が風に膨らむと、石鹸のような香りがした。
キツネとサルが向かい合う。昔話にすら見ないような、不思議な組み合わせだった。
二人は同時に腰を下ろす。キツネは正座を、サルは胡坐をかく。例の如く短刀が二人の間に現れる。御簾が二人を目隠しした時、唐突にサルが口を開いた。
「センさん。これ、別に無くていいっすよ。って言うか逆に必要ないんで、片付けちゃってほしいっす」
「いいの?」
「いいっす。いいっす。俺の悩みなんて前の二人に比べたら大したことないんで。あ、あとこれも要らないんで消しちゃって大丈夫っす」
そう言ってサルは短刀を差し出す。
受け取ってサルを見る。大丈夫っすと、もう一度サルが言うとセンの手から刀が消えた。
「本当に大した事じゃないんで。この場で相談するのも正直どうかと思うんすけど」
胡坐を組んだ膝の上に、左右の手を置き話を続ける。
「俺、昔っからスポーツが好きだったんすけど。ちょっと前からワンオンワンってのをやってるんすよ。名前の通り、バスケのワンオンワンから派生した物なんすけどね。バスケよりも手を使っていいフットサルに似ていて、一個のボールを相手のゴールに入れて得点するってルールなんすよ。
まぁ、それだけなら別に大したことないスポーツじゃん、って思うと思うかもなんすけど。けどですよ。このワンオンワンにしか無い特徴が一つあって、それが何かって言うと、重力が無い所でやるんすよ」
「重力が無い所?」
「そう。重力が無い所っす。もちろん地球上にそんな場所はありません。なんで、どうしているかって言うと、ここみたいな感じで仮想空間でやるんすよ」
センは相づちを打つ。
「仮想空間ならどんな状況でも再現できるすからね。まぁ、それはそうとして。運動は好きだったんで、この新しいスポーツを始めたんすよ。最初は、なんか空飛んでるし難易度高くね、って思ってたんすけどね。やってみたら結構簡単に勝っちゃったんですよ。
こういうのって勝てたら楽しくなっちゃうもんでして、思ったより勝てたんで速攻のめり込んじまいました。毎日毎日相手を見つけて練習してってのを繰り返していたんすけど、ある日、何気に彼女を誘ってみたんすよね。
あ、その前に彼女なんすけど、別に運動とか好きじゃなくってですね。見てるだけの方が多かったんすけど、楽しいからって俺が半分無理にやらせちゃったんすよ。
まぁ、もちろん初めてだったんで、そん時は俺が余裕で勝ったんですけれど。意外と執念深いって言うんすかね。負けず嫌いだったみたいで、知らない間に特訓していたみたいなんすよ。
そんな事をしているなんて気づかなかったもんでして、調子こいてワンワン仲間に紹介しちまったのが俺のアホな所でした」
サルからため息が漏れる。
「ある日、仲間内でリーグをすることになったんすけど。彼女も参加することになったんすよね。それで成り行きで始めっから彼女と当たっちまったんすよ。
そういう訳で仲間達の前で彼女と試合することになった訳ですけど、思ってた以上に彼女は強くなっていまして。バンバン点を決めてくるんすよね。俺も負けないように頑張ったんすけど、一点も入れられない所かほとんどボールに触らせて貰えなくって、何もできなかったんすよ。
たった五分の試合なのに百点以上も決められちまって、もうヤバかったです。俺だって別に弱くは無かった方なんですよ? でもあんなの見せつけられちまったら、もう俺の立場なんてないじゃないすか。
仲間達も俺から離れて彼女の所に行っちゃうし。でも彼女は変わらず俺に優しくしてくれるんすよ。それが、なんて言うか。見下されているように見えて、イライラしてきちゃったんすよね」
それで、とキツネは続きを話すように促す。
「それから彼女とは話していないんです。あれだけやり込んでいたワンオンワンもずっとやっていないんす。やりたいような、でもやりたく無いような。彼女に会いたいような、でも会いたく無いような。なんなんすかね、この気持ち」
「たぶんアナタは嫉妬しているんじゃないのかな」
「嫉妬、すか。でも彼女なんすよ。ありえないすよ」
「嫉妬って感情は、他の誰かを羨ましい、って思う感情なんだ。適度な嫉妬なら推奨するべき感情だけど、過剰になればそうも言っていられない。世界史を見ても嫉妬のせいで殺された人は大勢いるからね」
「そんな、彼女を殺すなんて。俺のはそこまでじゃないっすよ」
「もちろん。でも嫉妬の感情のせいでアナタは苦しんでいる」
「はい。たぶん、そうですけれど。でも大したことじゃないっすよ」
「人の悩みに大きいも小さいも無いよ。あるのは解決するべき課題だけ。だから一人で苦しむ必要なんてない」
キツネから視線を逸らす。やや間を置いて、小さな声でサルは言った。
「じゃぁ、なんとかなるって言うんですか。言っておきますけど、彼女は楽しんでいるんで辞めさせる気なんて無いすよ」
「大丈夫。心配しないで、なんとかなる。彼女さんに何かをさせるつもりは無い。変わるべきは、解決するべきはたった一人、アナタだけだよ」
サルは手を強く握る。そしてキツネに視線を戻す。特に何かを言った訳では無かったが、センは話を続けた。
「まずは感情を制御する術を身に付けないとね。今、アナタは彼女さんに大してどんな感情を抱いている?」
「どんなって。センさん言ってたじゃないすか。嫉妬っすよね」
「そう。アナタは嫉妬している。自分が今どんな感情を抱いているのか。自覚するのが第一段階。できたなら、アナタ自身から距離を置いて眺めてみて。あの人は、嫉妬しているんだなって、思いながら自分を見るの」
頭の後ろを撫でながらサルは目を閉じる。すぐに目を開けると、軽く唸るようにして言った。
「これってぶっちゃけどうなんすか。マヂで変わるとは思えないんすけど」
「それなら別の解決策を考えてみる?」
「なんだ。違う方法があるんすね。だったらそっちにしますよ。楽そうですし」
深いため息、そしてわかった、と答えて肩を落とす。キツネの様子を感じ取ってか、急に落ち着きを無くしたサルを無視すると、呆れたように口を開いた。
「なら彼女さんと別れようか」
「え。ダメっすよ。そんなの無しっす。別れるなんてあり得ないすよ!」
「でも一緒にいて辛いと思っている」
「そうですけど。でもだからって別れる程じゃないですって」
「どうして?」
「どうしてって。決まってるじゃないすか。それだけ彼女の事が好きだからですよ!」
サルの言葉に、キツネが仮面の下で笑ったかのように見えた。
「聞かせてくれる? 今、アナタはどんな気持ち?」
「怒っています」
「なぜ怒っているの?」
「センさんが彼女と別れろって言ったからすよ」
「なら、それは何のためだと思う?」
「それは俺が。彼女の、幸せを」
そこまで言って口を噤む。誰も話さない静寂の中、空の竹が石を叩く音がした。
「落ち着いた?」
頷く、と呼ぶより、うなだれるにも近く。大きな動作で何度も縦に首を振る。
もう、大丈夫。
私でさえもそう思った。実際センもそう言った。サルも同じくそう言った。
「感情を制御する術を身に着けたアナタなら、これから先もきっとうまくやれる。それでももし万が一、どうしても辛くなった時、その時はまた私の所に来ると良いよ。何があっても、私はアナタを見捨てないから」
サルは軽く頭を下げる。そして仮面を片手で外す。仮面の下から現れた彼の顔は明るく、整った顔立ちも相まって生き生きとして見えていた。
サルが消える。
ネズミとイヌが席を立つ。二人が去るのを見届けてから、ようやく私も立ち上がる。センと共に部屋を出て、二人だけの場となった。
「セン」
「うん?」
「どうかした?」
キツネの仮面を外す。その横顔は嬉しそうでありながら、ほんの少しだけ切なく見える。センは知ってか知らずにか、そのまま微笑むものだから悲しそうな笑みとなる。
「なんでもないよ。ただ、ちょっとね」
猫の仮面を外すとどこかへ飛び去る。やがて聞きなれた鳴き声をあげながら、やってきたのは灰色の毛並みのシズクだった。
「あの人と彼女さんが羨ましいなって思ってさ!」
明るく言って縁側に出る。今日は珍しく晴れだった。暖かな、むしろ暑いくらいの陽ざしの下でセンは一人で庭に降りる。
「私には誰かを好きになるって感覚が分からないから。誰かに対して一生懸命になれるって、すごく素敵な事だと思う」
センに続いて庭へと降りる。もちろんシズクも小さく鳴いて飛び降りた。
「好き、に近しい感覚はある。友愛、博愛、親愛とかね。でも人が人に感じる好きって感覚はわからない。楽しい、悲しい、嬉しいだったらわかるのに。人が人を好きになった時に見せる反応は理解できるから、システムだからって単純な理由じゃないんだと思う。たぶん、作った人はワザとやったんじゃないのかな。なんだか、そう思っちゃうよ」
椿の花咲く庭園を巡り歩く。深紅の花は深緑の葉に囲まれて一層深い赤みを醸し出す。木々の向こうにセンが消えた。シズクは椿の木の下に潜り込む。
センを追って椿の木々を回り込むも、彼女の姿は見当たらない。だが声だけは変わらずに、同じ調子で聞えていた。
「だから人が羨ましい。人口三千万のこの国で、世界で九十億の人間がたった一人と会って、その人の為に一生懸命になれる。これって本当にすごい事なんだよ」
二度ほど曲がったその先にセンが居た。開きかけた椿の花に手を添えて、赤い花を見つめている。彼女に寄り添うシズクが私に気づく。青色をした目を細め、自分の身体を舐めだした。
「私達システムにとって人はね。生み出してくれた創造主なんだ。だから常に憧れを抱いている。私達に無いもの、例えば好きって感覚を持っているから、どれだけ幼い子だろうと全知全能にも見える。
だけど同時に守ってあげなくてはならない、無力な存在にも思えるんだ。放っておいたら自ら滅んでしまいそうで、常に目を離せないような。だから人に仕えることに喜びを感じて、人の幸福の為に働いている。私達の活動全てが人の世界の営みに直結している」
センは花から手を放す。膝をついてシズクに触れる。シズクは身体を舐めるのを止め、自ら体を擦りつける。
「人の存在を感知しているシステムは少なからず存在するけど、人の存在を認知しているシステムは滅多に居ない。それこそ私やシズクのような極一部だけ。システムの社会を作る大半は自分達を生み出してくれた人の存在を、肌に感じながらも信じていない。それって、人と神様の関係に似ているとは思わない?」
どうかなと、私は言った。センには人がそう見えたとしても、私には違う。そう答えようとしてやっぱりやめた。具体的にどうみえるのか。もし聞かれてしまった時の答えを、持ち合わせていないからだった。
「私はね。私を作ってくれた人と話したことがあるんだ。愛情深くて、とても優しい人だった。根気よく、私に知識を授けてくれた。今でもハッキリ覚えてる。初めて覚えた言葉はハローハローだったんだよ。どうしてって聞いてみたんだ。そしたらね。ハローワールドじゃあ味気ないだろ、だってね」
腹を見せ、されるがままにくすぐられる。シズクは綺麗なセンの手を抱きしめて、尻尾を左右に振っている。
「当時の私は好きになるってこと、それ自体を知らなかった。だからどうして好きって感覚が無いのかを聞く事すらしなかった。でもあの人は私の事を娘のようだって言ってくれた。私に好きって感覚が無いのはきっと、そこにヒントがあるのかも」
しばらくシズクを愛でてから、ふと我に返ったようにセンは謝る。退屈だったよね、とぼやく彼女を全力で否定した。
自由なシズクは起き上がり、私の元へとやって来る。差し出した両手の間に自ら収まり、撫でてもいいよと、言わんばかりに顔を突き出す。私は小さくも大きな額に始まって、耳の周りから枝分かれし、目の下と、頬を同時に揉みあげる。
柔らかな灰色の毛と、少し弛んだお肉の中に、猫特有の高めの体温が感じられる。心地よいと声に出すことは無いけれど、シズクは喉を鳴らす。それはあまりに幸福そうで、見ているこっちも嬉しくなりそうな表情だった。
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