第3話

 いくつもの襖が次々開く。センに誘われ私は進む。和風の部屋は変わり映え無く、通り抜けるたび同じに見える。

「大丈夫。緊張しなくていいよ」

 センは言った。緊張していた筈はないのに、気づけば息を殺していた。

 湿る木と、仄かな花の香りが鼻孔をくすぐる。心地の良いその香りは、爽やかで甘く、前を行くセンからするようだった。

「ここから先に進むにあたって、私から三つお願いがあるんだ」

 椿が描かれた屏風の前で止まって言った。

「まず一つ目、何があっても口を挟まないこと。二つ目、ここで見聞きした内容はたとええ家族だろうと、友人だろうと誰にも喋らないこと。最後、この空間で人と会うときは必ずこれを着けること」

 センから仮面を受け取る。黒色をした和風の猫の仮面だった。

「ここから先の部屋では人の心に踏み込んだことをする。だからこそ、土足で踏みにじるような事をしてはならない。もちろん顔を隠すためでもあるけれど、仮面には他人の感情から自己を守る力も秘めている。スズネちゃんがスズネちゃんであるために、仮面は絶対外さないこと。もし外す事があるならば、それはここにいる必要が無くなった時かな」

 猫の仮面は微笑みながらも哀し気で、困りながらも怒っているような、見る者によってどうとでも取れる表情だった。無表情、でも無いのだが、混ざり合った感情を抑えつけた顔つきで、あえて言葉で表すならば、無表情こそ最も適した言葉だった。

 仮面を着けるのを見計らい、センはキツネの面をする。白地に赤色の線、隈取りとでも呼ぶのだろうか。吊り上がった眼や口に、鮮明な化粧が施されている。服格好も相まって、まさしくお稲荷さんだ。

「さっきの約束。お願いね」

 私は無言で頷く。彼女の顔はキツネの仮面で見えないが、何となく笑ったような、そんな気がした。

 木が擦れる音がして襖が開いた。私はセンの後に続いて部屋に入る。中では既に五人の人が待っていた。年齢性別様々ながら、そろって仮面は着けている。タヌキにネズミにサル、キジ、イヌと一人一人、皆違う。

 六人目としてイヌの隣に正座する。センと同じ約束をしたのだろう。誰も口を開かない。私を気にする様子も無くて、かえって安らぎを感じる程だ。

 衣擦れと、畳に擦れる足音が耳に届く。センは急がず焦らず前に立つ。二つの灯台に照らされたキツネの仮面が、一瞬私に目を向ける。

 深い静寂。そして呼吸音。

 心臓の音まで聞こえてしまいそうな静けさの中、タヌキの仮面が立ち上がる。

 男性、それも高齢の。黒に近い灰色のズボンにワイシャツ、袖捲りした腕は太ましく、やや赤らんでいる。白みがかった髪は頭頂へ至るにつれて薄くなり、肌色ながら灯火により照っていた。

 センは彼を私達の前に座らせる。両膝をつき、両の手を置き俯く彼の正面で、彼女は右足左足と順に畳む。背筋を伸ばし正座するキツネの仮面は、タヌキの仮面を静かに見つめていた。

 短刀が宙に浮かぶ。それは音も無く、二人の間に横たわる。

 御簾が現れ、彼女らと私達との間を隔てる。椿の刺繍が施された布に影が映り込む。キツネとタヌキの二人の影で、どちらも灯火に合わせて揺らぐ。

「どこからお話しいたしましょうか。身の上話を誰かにする日が来るなんて、思いもしませんでしたから」

 低くて重い、男の人の声だった。

「大丈夫だよ。アナタが思ったように話してくれればそれで良いから」

 タヌキの人は顔を上げ、そして俯く。しばらくの沈黙の後、言葉を探すように話し始めた。

「私はまだこの国が、資本主義だった時代に生まれました。父も母も労働に従事し、当時としては一般的な家庭の子どもだったと思います。学業の成績は平均よりも少し上。良くも悪くも平均的な、ありふれた子どもの内の一人でした。

 ゆとり世代だのなんだの言われましたが、そこそこの大学を留年せずに卒業しました。就活にしてもアベノミクスの影響により最大規模の売り手市場で、大した苦労をすることも無く。ただ何となく、内定が最初に出たからそこにしようと漠然とした気持ちで入社しました。

 同期と比べて仕事ができる方ではありませんでした。ただ、出世したいとも、高い給与が欲しいとも思わなかった事もあり、なんとなくでも真面目にコツコツやっていました。そうして数年経った時、私の下に初めて後輩が着きました。初めての後輩でしたから、上手く教えられるのかどうか、私はむしろ不安でいっぱいいっぱいになっていました。

 ですが、いざ会ってみると私の心配など吹き飛びました。笑顔の可愛らしい、新卒入社の女の子です。完全に一目惚れですね。笑ってください。ですが、その子と会って私の世界は華々しく明るい物に見えたのは確かです」

 タヌキは一度言葉を区切る。そして深いため息を一つ、俯いたまま微動だにせずに少しだけ間を置いた。

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