さよならのその日まで

 自分が死ぬ日のことを考えたことがあるだろうか。

 そりゃあ人はいつか必ず死ぬんだ、ある程度歳を重ねていれば一度や二度くらい考えたことがあるだろう。俺もぼんやりと、病院の一室で妻やまだ見ぬ子供たちに囲まれて息を引き取る……そんな未来を遠くに思い描いた。何の根拠もなく、俗に最も幸せとされる最期を自分も迎えられると信じて疑っていない。

 人生はその日を迎えるまでの過程だとして、何ができるのかは常に考えていた。何も思い残すことなく逝けるように、この世に遺せるものは早いうちから遺しておこうと準備していた。

 生きた証などという大それたものはまだ遺せていないけれど、手っ取り早く生命保険には加入しておいた。もし、万が一のことがあったときに家族を路頭に迷わせることだけはしたくない。極論、家族さえ護ることができれば俺には何の心残りもないと思う。


 それなのに。


 妻と二人で朝食を囲んでいた。白米と卵焼きと焼き鮭と味噌汁。毎日朝からこんなに豪華なご飯を食べられて、俺はどれだけ幸せ者なのだろう。テーブルを挟んだ向かいで妻も同じように微笑んでいる。

 その顔が歪む。いや、そうじゃない。歪んでいるのは俺の視界の方だ。歪みはどんどん酷くなっていき、空間が混ぜられていく。どこが上で下で右で左なのか分からなくなって、俺は椅子から転げ落ちたらしい。床の冷たさが頬に鈍く伝わってくる。

 身体に力が、入らない。

 何が、どうなっている?

 霞む目で妻を見上げると、幸せの滲み出ているような微笑で、ただ俺を見下ろしている。

 自分が死ぬ日のことを考えたことがあるだろうか。

 俺は、考えたことなんて、なかった、らしい。


 ああ……おまえは、ほんとに、きれい……だ、な…………




――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

今回の使用単語

「のこす。ほけん。びしょう」

兵庫県川西市付近だそうです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る