・第232話:「聖母の切り札」

 聖母に、もう1度チャンスを与えられた。


 聖母からその失態を許されたわけではなかったが、とにかく生き延び、それどころか、これまで聖母から与えられていた権勢を取り戻せるかもしれないと理解したヘルマンは、聖母の前を、喜色を浮かべながら辞していった。


「まったく……。


 あつかいやすい男です」


 うやうやしい仕草で退出していったヘルマンのことを見送った聖母は、やがて、再び足を組んで片手で頬杖を突き、ゆったりとリラックスしたような姿勢を取ると、やや軽蔑(けいべつ)するような口調で言った。


「昔から、あの男はそうでした。


 他者に、優越した立場にありたい。

 他者を嘲笑する立場でありたい。


 そして、生き延びたい。


 そんな本能に忠実な男でした。


 だからこそ、御しやすく、今まで忠実に私(わたくし)に仕えてくれたのです。


 もっとも、今回のような失態をしでかすとは、さすがの私(わたくし)にも見抜けませんでしたが」


 その言葉は、いったい、誰に向けられた言葉なのか。

 聖母の、ただの独り言なのか。


 聖母はまるで誰かに語りかけるように、その本質とはかけ離れた美しく澄んだ声で、しゃべり続ける。


「せっかく、今まで特権を与え、私(わたくし)の研究の成果を与えてやったのです。

 せいぜい、その骨の一片まで、私(わたくし)のために役立ってもらわねばなりませんね。


 ……しかしながら、これは、いよいよ、お前に動いてもらわなければならなくなりました」


 その言葉に、聖母が腰かけている玉座の影が、わずかに蠢(うごめ)いた。


 ヘルマンはずっと平伏していたし、謁見の間は薄暗かったから気づかなかったようだが、聖母が腰かけている玉座の裏側には、誰かがずっとひかえていたようだった。


「わかっていますね? バーナード。


 たとえ、かつての親友であろうと、お前の手で必ず、反逆者・エリックを始末するのです」

「……はっ」


 どこか楽しんでいるような聖母の言葉に、聖母の玉座の影にずっとひかえていた騎士・バーナードは、短く返答して頭を垂れていた。


「すべて、聖母様の御意のままに。


 我が手で、必ずやエリックを打ち滅ぼして見せましょう」

「あの男は、もう、頼りにはなりませんからね。


 期待していますよ、バーナード」


 かしこまって聖母への忠誠を示すバーナードに、聖母は楽しそうな様子のまま、言葉を続ける。


「ご安心なさい、バーナード。

 お前がエリックと刺し違えることとなったとしても、残されたお前の一族は、私(わたくし)が特別に、手厚く待遇して差し上げましょう。


 そして、世はこともなく、今まで通り。

 この先も、幾百年、幾千年と、私(わたくし)の導きの下で存続していくのでしょう。


 光栄に思うのです、バーナード。

 お前はその、礎(いしづえ)になるのですから」


 その聖母の言葉には、バーナードはなにも答えなかった。

 ただ沈黙したまま、じっと、聖母の影の中で頭を垂れている。


 そのバーナードの様子に、聖母は、仮面の中で笑ったようだった。


 それは、愉悦(ゆえつ)の笑みだった。


 それから聖母は、すっ、と静かに立ち上がると、玉座の脇に立てかけてあった剣を手に取り、鞘から引き抜くと、背後を振り返った。

 そして頭を垂れたままのバーナードの肩に、そっと剣の切っ先を当てた。


 それは、聖女・リディアが有していた聖剣と対になる、勇者に与えられる聖剣だった。


 かつてエリックに与えられ、魔王・サウラを倒すために振るわれた剣。

 そして、用済みになった勇者のエリックから奪われ、聖母の手元に戻ってきていた剣だ。


「騎士・バーナードよ。


 これより、お前が、新たな勇者となるのです」


 まるで、上位の存在が騎士を叙任(じょにん)するようなかっこうで。

 聖母は、顔を決して聖母へと向けないバーナードに、愉快(ゆかい)そうな口調で言う。


「お前がこの聖剣を振るい、そして、反逆者・エリックを……。

 今や魔王・サウラと融合し、新たな魔王となったかの者を、滅ぼすのです。


 この、私(わたくし)のために。

 この世界のために。


 そしてお前と、お前の一族のために」


 それから聖母は、聖剣をゆっくりと鞘(さや)へと戻すと、そのまま、バーナードに柄を向けて、仮面の下からバーナードに微笑みかけた。


「さぁ、新たな勇者・バーナードよ。

 この聖剣を手にするのです。


 そして、新たな魔王・エリックを、滅ぼすのです。


 かつての親友である、お前自身の手によって」


 その聖母の言葉に、バーナードはじっと、身じろぎもしなかった。

 そして、聖母が受け取るようにと向けている聖剣の柄を、バーナードはなかなか受け取ろうとはしなかった。


 かすかに、バーナードの身体が震えている。

 それは、ヘルマンのような恐怖心ではなく、もっと別のなにかの強い感情を、必死に抑え込もうとしているような震えだった。


「どうしたのですか? 勇者・バーナードよ。


 さぁ、聖剣を手に取るのです」


 そんなバーナードに、聖母は、楽しくてしかたがない、というような声色で、聖剣を手にするように重ねて命じた。


 そして聖母は、ねっとりとした口調でバーナードに言う。


「お前だって、よくわかっているでしょう?

 お前も、お前の一族の命運も、すべて、この私(わたくし)の掌中にあるということを。


 お前が役割を果たせば、私(わたくし)は、お前と、お前の一族に繁栄を約束しましょう。


 ですが、もし、お前がヘルマンのように私(わたくし)の期待に背くとすれば……。

 私(わたくし)は、[別の]勇者を、見つけなければなりません。


 すべて、お前次第なのですよ? バーナード」


 その聖母の言葉を聞くと、バーナードの身体の震えは収まった。


 そしてゆっくりと顔をあげたバーナードは、悲壮な決意のこめられた表情で聖母を見上げると、聖母から聖剣を受け取った。


「ええ、それでいいのです、バーナード」


 そんなバーナードに、聖母は、満足そうな言葉をかけていた。

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