堕落の■

@MeatOgg

本文

 ふと、不倫というものをしてみたくなった。

 なにも私自身闇雲にそう考えたのではない、私が長い期間のニート生活を止め職業訓練校に通い始め真っ当なかたちで社会復帰をしようとした時に、友人であり先輩のある人物から、言われた言葉がきっかけであった。

 友人の家から帰宅する道すがら、2人で近況を話している時に先輩がぽつりと言った「人間というものは堕落できるほど強く出来てないと言うが、存外君を見ているとそんな事は無いのではないかと思っていたよ。」

 先輩は白みはじめた空を少し見て言葉を選ぶように続けて囁いた「やはり君もそうではなかったか。」

 気付くと私は足をとめていた、それ程に衝撃的であった。

 私自身自らが社会的に見て真っ当でない堕落した人間だと云う自覚はあったが、彼がそのように私の事を思ってくれているとは全く思い至らぬ事だったからだ。

 これはあくまで私の推測であるがその言葉にはどこか私が堕落することへの期待が込められているように思われてならなかったので、如何様に堕落すればよいのかと随分と思案した。

 まず職業訓練校を辞めると言う選択肢であるが、これは経済的に困窮していた事と、一度はじめてみたことを途中で辞めるというのが居心地が悪いという意地のようなものがあったため選択肢には入らなかった。

 次に単純に何か法を犯すような事をしてみるかとも考えたがこれもなかった、それと言うのもその方面において私には薮田君という良きも悪きも手本となる人物がいたからである。

 薮田君というのは有り体に言えば私の血の繋がった実の父親である、であるが薮田君と私が呼んでいるように自分の中で彼に対して父親という実感は希薄であった、私が幼い時分に離婚したという事と、そもそも家にあまり居着いていなかったためである。

 この家に居着いていなかったというのは、薮田君は定職につくという事が出来ない人間だった、そして会社を辞める時に必ずと言っていい程トラブルをおこして逃亡していた、やれ辞める時に現場のハイエースを盗んで逃亡する、やれ会社の資材を盗んで質に入れ逃亡資金に充てる、やれ社長とその息子のゴルフセットを盗んで質に入れ逃亡資金にするといった具合であった。

 そしてほとぼりが冷めるとひょっこりと家に帰ってきて、ことによっては「質札を持っているだけマシだろう」と開き直る。そして少し日が経てばトラブルを起こし行方知れずとなるとこの繰り返しであった。

 実の母親をして「あんな奴死ねばいいのに」と言わせる、子供の私から見てもどうしようもないろくでなしのクズであった。

 であるからして単純に法を犯し誰かに迷惑をかけるというのも、薮田君の影がちらついてどうしてもやろうとは思えなかった。

 そんな事を考えながら過ごしていたある日、暇つぶしにスカイプでの通話相手募集の掲示板で知り合ったミツキという女性と話している時のことであった。

 通話相手の女性は奇特にも私の声を気に入ったと言ってくれ、お互いに寝るまで囁き合うといういわゆる寝落ちをすることになった。

 その後も幾度かそのようなやり取りを繰り返しているうちに、彼女は私より10歳ほど年下だが結婚していると言う事を知りことができた。

 その時ふと閃いた、彼女には特定のパートナーがいる、対して私には特定のパートナーがいない、そして彼女が私の事を憎からず思ってくれているのであれば、このまま私たちが男女の関係に及べば、私は罪を犯さず堕落することができるではないかと。

 なぜなら私は今特定のパートナーがいないのだから誰と肉体関係を持とうと自由なのだ、不倫という罪を犯すのは彼女の方だけだ。

 これが私が不倫と言うものをしてみようと思ったいきさつである。

 1度そう決めてからは、彼女自身性に奔放なところがあったようでそれも手伝い以外な程に事は早く進んだ、最初は通話をしながら声だけで自らを慰め合い、それがビデオ通話になりお互いの恥部を曝け出しながら快感を貪るようになるまであまり時間はかからなかった。

 そんな日々が1ヶ月ほど続いてから、旦那が夜勤の間に彼女の家の近くのホテルに行こうという算段になった。

 彼女の最寄り駅までの電車の車内で私は浮かれていた、勝手に出てしまう笑みを押し殺すのに必死な程だった。

 そのせいか、彼女の最寄り駅は私の家から結構な距離があるはずだが、その時間を感じることもなく一瞬と形容しても良いほどで彼女の待つ駅についた。

 駅の改札にいた彼女は、眼鏡をかけたとても小柄で線が細い、見ようによっては地味にも見えるそんな女性だった。

 その彼女が優しそうな佇まいをして私を待っていた、とてもこれからこの女性が不倫をするなどとは想像もつかないようなそんな雰囲気だった。

 軽く挨拶をしてから、私たちは連れ立ってホテル街の方に歩いていった、腕を組もうかと言ったが恥ずかしいと彼女が言うので、手を繋いで歩いた。

 私の気持ちが舞い上がっていたからなのか、実際にそうだったのかはもう見当もつかないが、月がとても綺麗に見えたので、電車で聴いていたマリリン・モンローの歌詞を引用した、愛って言うのは青い月の下で学ぶって言うけど、今夜は良い日だね、等と言う素っ頓狂な私の発言にも彼女はコロコロと表情を変えて笑ってくれた。

 10分程歩くと目的のホテルに着いた、どの部屋にしようかと彼女に聞くと、お風呂の大きい部屋ならどこでも良いと言うので、さぁ部屋を選ぶボタンを押そうとすると、ふと手が震えているのに気付いた。

 あぁそうか、不倫以前の問題として私は風俗以外で女性と関係を持つのはこれが初めてではないかと思い出し、一気に緊張と高揚感がないまぜになった感情が押し寄せてきた。

 震える指でなんとか部屋を選んだ、部屋に入るなり彼女にキスをした、最初は驚いたようであった彼女も次第にその気になったのか、荷物を落とし私の腰に手をまわした、唇も緩め舌を入れてきてお互いに舌と体を絡ませあった。

 どのくらいそうしていたかはわからない、ふと彼女が少し身じろぎをして風呂に目を向けたので、名残惜しかったが彼女から離れて、風呂の湯をためることにした。

 風呂がたまるまで、少し頭を落ち着かせるためにも煙草を吸っていると、先に服を脱いでほしいと彼女が言ってきた、なんでも自分が先に裸になるのは恥ずかしいかららしい、私よりもずっと経験豊富であろう彼女のその発言に少し驚いたが、焦らしてみよう等という心の余裕のなかったその時の私は素直に先に服を脱いだ。

 それから彼女も裸になるのだが、まるで男性の前で裸になるのが初めての事であるように、本当に恥ずかしそうに服を脱ぐのである、この彼女の恥じらいのある仕草というのは彼女と別れるまでずっと変わることはなかった。

 この仕草は私を殊更に興奮させた、そしてまた彼女に抱き付き、舌を絡ませあった、服を着ている時にはわからなかった彼女の肌の感触、人肌の温もりに夢中になって彼女を求めた、風呂が溢れるバシャバシャという音で我に返らなければ永遠にでもそうしていただろう。

 一緒にバスタブに入ると、2人で入るとギリギリのその大きさは、自然と私たちを密着させた。

 お湯の温もりと肌の温もり、それが一緒になり、ただそれだけで幸福感で満たされた。これからも絶対に風呂は大きな部屋にしようと決めた。

 風呂から上がり、ベッドに場所をうつして行為をしようすると、ここでも彼女の恥ずかしがりな部分が顔をのぞかせた。

 彼女を愛撫しようと股に手を伸ばすとピッチリと足を閉じて触らせてくれないのだ、仕方ないので彼女の下半身に私の顔を近づけるようにして、両手で脚を開かせて彼女のヴァギナにむしゃぶりついた。

 彼女は片手で私の頭を押しのけるようにしながら、片手で枕を持って真っ赤になった顔を隠した。

 しかしその行動とは裏腹に彼女は大いに快感を得ているようで、愛液は私が啜り上げるそばからとめどなく溢れてきたし、その嬌声は枕越しでもはっきりと聞こえてきた。

 あぁ私が興奮しているのと同じように彼女も興奮しているのだなと思うと気持ちは昂ぶった。この昂ぶったモノをどう吐き出そうかと思っていると、彼女が枕越しに消え入りそうなか細い声で言った。

 「私だけじゃなくカズくんにも、気持ちよくなって欲しい」

 待ち望んでいたその言葉に、私たちはシックスナインの体勢になり、私は彼女のヴァギナを、彼女は私のペニスを嘗め合い、しゃぶりあった。

 私のペニスを嘗めながら「カズ君、もういっちゃいそうでしょ」と彼女が聞いてきた、実際もう果てる寸前であった私は「わかるの?」とだけ聞いた。

 「うん、だって味がかわってきたから」精液が尿道を昇っていき彼女の口の中に出るさまを想像すると、私の興奮は最高潮に達した。

 そしてそのまま彼女の口の中に精液を吐き出した、コクン、コクンと彼女が私の精液を飲み下している感覚を味わっていると、私のペニスは萎えるどころかより固さを増した。

 もう我慢の限界であった私はコンドームを掴み、乱暴に封を切った。

 「私がつけてあげる」と言って口でコンドームをつける彼女を見て、先ほどの精飲と言い、これと言い、恥じらいとは真逆の彼女の淫蕩な仕草に頭がクラクラとした。

 正常位で挿入すると、彼女はまた枕で顔を隠してしまった、枕を掴んで引き離そうと手を伸ばした。

 ほとんど形だけの抵抗の後、彼女の素顔があらわになった。

 そもそも本当に顔を見られたくなければ電気を消せばいいのに、それをせず、形だけの抵抗をする彼女の顔は、それを待っていたかのように快感で満ちていた。

 ややもすると、泣いているのではないかと思うほど目尻が下がりトロンとした目、そしてだらしなく緩みきった口元は、自分が1人の女性を感じさせているのだと実感させ、優越感のようなものをおぼえた。

 彼女の口を自分の口でふさごうとした時、お互いの性器を嘗めあった後のキスは気が引けるだろうかと思ったが、そんなことはなくすんなりと向こうから舌を伸ばしてきた。

 舌を絡ませると、体くねらせてから「カズ君わかりやすいね、キスしたらすごい固くなったよ」と上ずった声で言った。

 その晩に私は都合5回果てる事になったわけだが、回数を重ねるごとにお互いの愛液や精液、汗や唾液が混じり、ドンドンと匂い立つようになっていくキスが最も私を興奮させたのだから、後でわかることでもあるが実際に私はそういう性質だったのだろう。

 朝になり、名残惜しいが彼女と別れてそのまま訓練校に向かった私は完全に舞い上がっていた。

 訓練校で食後に歯を磨くときにホテルの歯ブラシをだしてしまい、色々と勘繰られるという失態を犯す程度には舞い上がっていた。 

 だがそれと同時に何か言いようのない違和感にとらわれた。

 1つは不倫すると言う目的を忘れて、セックスの快感に酔っているだけではないかとすぐ結論付ける事ができたが、それでもまだ残る違和感の正体にはその時はついぞ気付けなかった。

 2人目の女性であるサイカとの関係は、もう少し唐突な形ではじまった。

 彼女もスカイプの通話相手募集の掲示板で知り合ったのだが、お互い競馬が趣味と言うこと、私より随分年下なのに競馬だけでなく多方面の情報に聡い彼女の知性に惹かれて話は盛り上がった。

 それから一緒に競馬場に行こうと言う事になり府中の競馬場に何回か一緒に遊びに行った。

 この時はまだお互い男女の関係は全く意識しておらず、単なる競馬仲間という趣であった。

 そんな関係が続いていたある時、彼女が膝を痛めたのでリハビリも兼ねてプールに行かないかと誘ってきた、泳ぐことは元々好きであったし、その夏はまだプールに行っていなかった事もあり二つ返事で誘いに乗ることにした。

 プールの帰り、私の車で彼女を家に送りながらとりとめのない雑談をしていると、不思議な沈黙が私と彼女の間に一瞬流れた。

 私はスマートフォンのナビゲーションを彼女の家ではなく近場のホテルに変えた、お互い何かを話したわけでもなく、了承を取ったわけでもないが、そういう空気になっていた。

 ホテルの駐車場に車を停めて私が何かを言おうとしていると、彼女の方が先に、「旦那は出張だから」とだけ言った。 

 彼女との行為は取り留めて特別な何かをしたと言うわけではない普通のセックスだった。しかしミツキでは感じることのできなかった欲望を満たされたのも事実であった。

 生理中だけど構わないかと言う彼女に、血の味と匂いを想像してむしろ興奮を掻き立てられたし、実際に彼女の恥部を舐めると、普段傷口を舐めた時の血の味や匂いとは違う、鉄の匂いの中にどこか生臭さの混じったそれに夢中になった。

 またどこか冷静に、あぁ自分はやはり臭いに興奮する性質なのだなと、観察している自分もいた。

 ピルを飲んでいると言う彼女とは生でセックスをした、中に出した精液が充血した彼女の恥部から溢れて白濁と血の混じったそれを見ると、他人の女を抱いているのだという実感を大いに際立たせ、征服欲のようなモノが満たされたのである。

 そして行為の後のあの違和感がまたあった。

 そんな2人との関係が続いているうちに訓練校での過程も終盤になり、就職先の事や今の女性関係等、これからの身の振り方を相談しようと20年来の付き合いである幼馴染と真夜中にドライブをした、ひとしきり私が話し終わると、彼がすっとカーステレオに手を伸ばし音量を一気にゼロまで絞った。

 エンジン音とタイヤから伝わる振動だけが車内に響く中、一呼吸置いて彼が矢継ぎ早にまくし立てはじめた。

 「これから良い道に進もうとしている時に、同時に悪い道に進んでどうする」例え話をまじえて彼は続けた「虐めをしてた奴が虐めをやめました、でも代わりに万引きはじめました。お前がやってる事はようはそう言う事だぞ」「そうじゃないって言うなら別に構わんけど、真っ当な人間になりたいって言うならやる事は決まってるだろ」

 そして結論付けるように「俺も女関係じゃ人の事は言えないところもある、でもあえて言うけどその関係は終わらせろ」そう言って、カーステレオのボリュームを上げて普通の雑談をはじめた。

 自分でも薄々は思っていた事、そしてなにより長い付き合いの親友として全幅の信頼を寄せていた彼のその言葉はストンと自分の中に落ちてきて、自然と納得することが出来た。

 そうだこんな関係はもう終わらせよう、そう思っていた矢先にそれは起こった。

 ミツキとホテルに行く約束をしていた私は、彼女と会うのはこれきりにしようと決めていた。

 いつも通り一緒に風呂に入り、いつも通りの行為を終わらせた後に2人でベッドに横になりながら、今日で会うのは最後にしようと切り出そうとした時、彼女がこんな事を言い出した。

 「カズ君としてから箍が外れちゃったのかな、最近他の男の人とも会うようになっちゃったから、カズ君と会える回数減っちゃうかも、ごめんね」彼女は申し訳なさそうに、そして恥ずかしそうにシーツで顔を半分隠した。

 私は端的に聞いた「そいつらとはヤッたのか」さらに恥ずかしそうに顔を赤らめて「うん」とだけ彼女が言った。

 私の中で何かが爆発した、その感情を色々と説明することも出来るが、一番わかりやすく言うならそれは殺意であった。

 彼女を殴ろうと拳を振り上げた後に、顔を殴るのはまずいなと変な理性がはたらいた私は、サイドテーブルにあったタオルを引っ掴むとタオル越しに彼女の首を全力で絞めた。

 それでも自らの行為を直視する事のできなかった私は、彼女から目を逸らし視界の端で捉える事しかできなかったが、彼女の顔が赤くなったり青くなったりしているのを見て怖くなり咄嗟に手の力を緩めた。

 実際はそれほどの時間ではなかったのだろう、彼女は軽く咳き込むだけで、それから「ごめんね」と私をまっすぐ見た。

 激烈な殺意と言う感情が落ち着いてくると、今度は冷静な怒りがふつふつと涌いてきた。

 まったく自分勝手な考えだが、夫に抱かれるならまだしも別の男に彼女が抱かれたと言う、自分のものを盗られたような悔しさ。

 堕落すると言う目的は私のものなのに、私より彼女の方が堕落していると言う事への歪んだ劣等感。これは私の方が彼女より圧倒的に色恋沙汰に疎いという劣等感も含まれていたのだろう。

 他にも考えようと思えばいくらでも考えられるが、大きくはこの2つの感情に支配された私は激怒して、今度は言葉で締め上げる様に彼女を罵り倒した。

 それを彼女が黙って聞いていたのか、何かを言ったのかはその時冷静さを欠いていた私には思い出すこともできないが、一言だけ鮮明に憶えている言葉がある。

 「カズ君は未練たっぷりに見える」

 後から考えて見ると、まったく的を射た発言であったが、もう二度と顔も見たくないと思っていた、いや思い込もうとしていた私からするとその言葉は私の神経を逆撫でする酷く不快な言葉だった。

 より一層彼女を怒鳴り散らし、喚き散らしてから1人でホテルを出た。

 ホテルを出て夜風に当たると途端に後悔が襲ってきた。なんて酷いことをして彼女を傷付けてしまったのだと言う自責の念、彼女が私との今日の事を夫に話してしまったらどうしようかと言う恐怖、快感を共有できる相手、有り体に言うならセックスフレンドを失ってしまい勿体無い事をしたなという打算的な感情、それらが絡み合った後悔であった。

 私の恐れは杞憂であったようで、その後に彼女や彼女の夫からも何の連絡は無く、私からも連絡をすることはせず、最悪の形でミツキとの関係は終わった。

 ミツキに比べてサイカとはあっけないぐらい簡単に終わった。

 「サイカさん、セックスはやめて、またただの競馬仲間に戻らないか」「そうだね、小川さんとはそっちの方が良いと思う」こんな風なやり取りをしただけでセックスフレンドという関係は解消され、サイカとは今でも良い競馬仲間として付き合っている。

 こうして私の不倫と言う試みは終わった。

 また時期も良く、この時には仕事も決まり、普通の社会人のような真っ当で穏やかな生活がはじまった。

 しかし外見的、社会的にはそうであっても私の心中はまったく穏やかではなかった。

 行為の後に毎回おぼえていた違和感は答えが出ずに違和感のまま大きくなりばかりであったし、ミツキへの未練も日毎に大きくなるばかりであった。

 仕事中、日々の生活の中、特に自分1人になるタイミングでミツキの事を思い浮かべた。

 そしてその度にミツキとした数々の行為、それと同時に「カズ君は未練たっぷりに見える」と言う彼女の言葉も思い出され、性欲の昂ぶりと、自分の心を見透かされていたような悔しさ、屈辱感が同時に襲ってきて私の心はグチャグチャになった。

 そして半年程が経ったある日の朝に私は味わったことのない不思議な感覚に襲われた。

 昨日までの自分がまるで他人のようなのである。思えば当たり前の事で中学生から不登校、大学も大検で入学し、それも中退した私は人生の殆どをまともに生きてきた事がなかったのだから。

 この半年間、訓練校も含めれば1年半ぐらいか、この期間の生活と言うのが私にとってはおかしい生活だったのである。

 それが今この瞬間に爆発しただけと、後になって思えば簡単に答えの出る事であるが、その時の私は大変に混乱した。

 その時の私が出した1つ目の結論は自殺であった、自分が自分でないのなら生きていても仕様がない、そういう理屈だったのだろう。

 ネクタイを手に取ると、輪を作り棚に引っ掛けて自分の首をそれにあずけた、だがこれは呆気なく失敗する。すぐに棚が私の重さに耐えられず倒れたからだ。

 次に考えたのは母を殺そうというものであった、これは今だに不条理過ぎて理屈がわからないが、ただあの時の私は母を殺さねばと言う義務感にも似た感情に支配されていた。

 首を括るのに使ったネクタイを両手でしっかりと掴むと、母のいる階下のリビングへと向かった。

 予想通り母はリビングに居た、居たが、殺すこの場合は絞め殺すわけだが、それをどうやっていいかわからず、母の後ろを行ったり来たりした。

 そうしている内に冷静になってきたのか、自分がとろうとしていた選択肢の馬鹿らしさに気付き、ネクタイを落として母に話しかけた。

 「スマン、色々あって殺そうと思ってた」母には察しがついていたのだろう振り返りもせず言った「なんとなくそんな気はしてた、でも話したってことはもうしないんでしょ」 

 頭を冷やしたかったのと、こんな普通ではありえない状況での親子の会話であれば、普段気付けない事に気付けるのではないかと思った私は、お茶でも飲みながら母と話してみようと思った。

 その予想は当たっていたのか、普段では話せないような心の中のことをお互い素直に丁寧に話すことができた。

 そして気付いた、私の中で薮田君に父親という認識が希薄なように、母に対しても、いや小川津恵子という目の前の彼女に対しても母親という認識が希薄だと言うことに。

 彼女は私にとって子供の頃からそして今でもかわらず、格好良い憧れの存在であった。

 私にロックを教えてくれたのも彼女であったし、大学で心理学を専攻し、それから芸術学部で学んだ彼女に憧れたからこそ、私は大学で宗教社会学を学んで私も含めた人間の心や内面と言うものに迫ろうと思ったのだから。

 他にもここには書ききれない程に彼女は私の人格形成に大きな影響を与えてたいた、でもそれだけなのであった。

 会話をしている時も、その間に自問自答している時も私はついぞ彼女に母性と言うものを一切感じていない事に気付いたのである。

 そうしていると、そんな事はわかりきっていると言わんばかりに、空になったカップに紅茶を淹れながら彼女は言った。

 「カズが私に母親らしい母親を望んでいるのはとっくに知ってるけど」紅茶にミルクを入れて続けた「私はそうはなれないから」

 その時、その言葉を聞いて、私が行為の後に毎回おぼえていた違和感の正体がくっきりと形になった。

 ミツキを抱いている時に感じた温もりや安心は母性への憧れだったのか。

 サイカの中に出した時に毎回感じていたのは歪んだ征服欲を通して父性の獲得ができていると思っていたからなのか。

 父性と母性と言う当たり前に得られるものを持っていないがゆえにそれを持っている他人の心を繋ぎ止めておきたくなる。

 堕落を希求するのもただ自分が持っていない、できない側なら真っ当な一般人がしない道を歩いてプライドを満たそうとしている。

 他にもいくらでも思いつくが、ようは私と言う人間は何も考えず心のおもむくままにいればもう堕落するのだ。

 いつも感じていた違和感の正体は、何を不倫だなんて遠回りな事をしているんだという、自らでも気付かない自分からのメッセージだったのだ。

 それが正しい認識かどうかはわからないが、そう結論付けてしまうと全てが腑に落ちた。

 ならば心のおもむくところ素直に動こうと思った私が最初にやったのは、会社を辞めることだった。

 それも社会人としてはあるまじき行為を重ねに重ねて、会社からの連絡を無視するのは当たり前の事として、会社との連絡も母にやらせたり、訓練校の就職担当の職員にやらせたりした。

 休職という形で復職をにおわせながら傷病手当を貰って、やはり復職しない、そんなことを何ヶ月も繰り返し、周囲に迷惑をかけるだけかけて私は会社を辞めた。

 あと私に残されていることは1つしかなかった、スマートフォンを手に取り先輩に電話をした。

 先輩が私にどういった堕落を期待していたのか、そもそもそんな事は期待していなかったのか、そんな事はもうどうでも良かった。

 数回のコールの後に先輩が電話に出た、挨拶も無しに私は話すと決めていた言葉を放った。

 「先輩、私は立派に堕落していますよ」

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