予知夢的症例◆ある学生の考察とアプローチ
磨己途
《最初の夢》
夢特有の感覚というものがある。
このときもまず初めに、ああこれは夢だな、という感覚があった。
それ以外の情報は全てその後だ。
自分は体育館に続く渡り廊下にいて、窓から外の様子を見下ろしていた。
下には幾人かの生徒たちの姿がある。
こんな時間に、これだけの生徒が外を出歩いているのは妙だと思う。
……こんな時間?
こんな時間とはいつだろうか?
そうだ。今は授業中だったはずだ。
一つの疑問から敷衍していき、自分が置かれた状況を追認していくような奇妙な感覚。
まさしくこれは夢だという思いが強くなる。
だが、夢だと気付いたところで一向に目が覚める気配はない。
そうするうちに校舎の外に出て来る生徒が続々と増えていった。
見るからに何か様子がおかしい。皆、遠巻きにするように、校舎の方を振り返りながら、何かの様子を窺っているようだった。
腹の底が冷えるような抗いがたい感情が……、恐怖が、ジワジワと心の隅々まで浸食するように襲ってくる。
自分は酷く恐ろしい夢を見ているようだ。だがしかし、一体何がそんなに恐ろしいというのか……。
外はいよいよ騒然さが増し、幾人かは我先にと集団から離れ、遠くへ走り去って行った。
自然とその中から見知った顔を探そうとする。
……一人いた。陸上部の長谷川だ。
長谷川は、すでにグラウンドの中程まで達しており、そこから他の者と同様に、校舎の方を振り返っていた。
なるほど、夢の中でも俊足キャラの役回りなのかと妙に納得していると、左腕を引っ張る強い力を感じた。
視界が自分の立っている渡り廊下へと引き戻される。
腕を引いていたのは同じクラスの吉岡という女子だった。
同じクラスではあるが、これまで会話をしたこともないし、知っていることと言えば吉岡という名前と顔。それと、いつも白峰と一緒にいるなという印象くらいか。
長谷川といい、吉岡といい、自分の夢に出てくる登場人物としては意外な人選に思えるが、夢というのは案外そういうものなのかもしれない。
夢の中の吉岡は、こちらの左腕にしがみ付き、必死で自分の方に引き寄せようとしていた。顔がこちらに向いていないところを見ると、無意識の所作なのだろうか。
彼女が不安げに見つめる視線の先を追って、こちらの視界も動く。
生徒たちがパッと離散する場所で目の動きが止まった。
その中心には暴れ回る一組の男女。一人の女子生徒が、男子生徒の背中に飛び乗るようにして覆い被さっているようだが……。
いや、あれは本当に女子生徒なのだろうか。
視覚がバグを起こしたように、女子生徒を形作る輪郭が、黒い
あまりに異質であるが故に、生徒たちが遠巻きに見ていた恐怖の対象がソレであることは、瞬時に理解できた。
それだけではない。この夢全体を満たす、不穏な空気の根源がソレであることは、もはや疑いようがなかった。
夢の中の自分は最初からソレの存在を知っていたのだ。
それを今、追認したに過ぎない。
ソレを見たとき感じたのは、驚き、ではなく、諦念に近い何かだ。あるいは後悔。
こうなることを自分は知っていた。
何もかも分かっていた。
しかし、こうなることを避けられなかったという無力感。
分かったときには手遅れで、もはや取り返しが付かないという後悔。
そして、これから起きることも、きっと自分は知っているはずだと思った。
何の理由もなくそのことが思い浮かぶ。何処からか天啓のようにもたらされた閃きではなく、始めから自分の中にあったと知る奇妙な感覚。
その居心地の悪さが、ねっとりと気持ち悪い──。
揉み合う二人の近くにいる生徒たちは、それぞれに助けに入るべきか、逃げるべきかを逡巡しながらも、群としては徐々に二人との距離を広げていた。
今、女子生徒の姿をしたソレが、男子生徒の首筋に噛み付いたように見えた。あるいは、首の角度からそのように錯覚しただけで、実際は噛んでなどいなかったのかもしれない。
しかし、確かにそれが切っ掛けであったようだ。男子生徒は、それまで身体を支えていた何かを急に失くしてしまったかのように、カクリと膝を折り、前のめりに倒れ、そして動かなくなった。
動かなくなった物にもう関心はない、ということなのか。男子生徒の上に伸し掛かっていたソレが、その場にすっくと立ち上がる。
一瞬視界が暗転する。
次に視界が開けたときには、ソレが近くにいた別の女子生徒を押し倒し、仰向けに抑え込む姿が映っていた。今度もまた、首筋に噛み付いているように見える。
悲鳴が上がっただろうか?
これも夢のなせる業か。実際に何か聞こえたわけでもないのに、女子生徒の大きな悲鳴が周囲に響き渡ったという〈事実〉だけを追認する。
二人を遠巻きにしていた生徒たちが一斉に逃げ出した。これまでのような、遠慮がちに距離を取るのとは違う、それは全速力の遁走だった。
その様子を離れた場所で見ている自分には、不思議なことに、彼らがどんなに走ったとしても、決してソレからは逃げ切れないという確信があった。
その確信が何処から来るのかは、幾ら理由を探しても分からない。何故だか分からないが、夢の中の自分は、それを当たり前のこととして〈知っている〉ようだった。
今この瞬間に、どれだけ遠くへ逃げても、速く走っても、一瞬で追い付かれてしまう。それに……。
……それに、何だったろうか?
突然、置き去りにされたように思考の先を見失う。
大事なことが思い浮かんだはずなのに、急に意識の焦点が合わなくなるような歯がゆい感覚──。
無人となった場所には、先に倒れた男子生徒と、今まさに組み合う二人の姿だけが残されていた。
女子生徒は叫び声を上げ続けながら、しばらく抗っていたものの、その動きは次第に緩慢になり、遂には動かなくなる。
同じだった。それまで女子生徒の上に圧し掛かり、彼女を組み伏していたソレが、最初の男子生徒を襲った後と同じように、真っ直ぐその場に立ち上がる。
その様子は無機質な円柱か、そうでなければ枯れ木のように見えた。
人間、いや、仮にそうでなくとも、動物か何かであれば、まだしも次の動きや感情を推し量れようというものだが、枯れ木を相手にそれは難しい。恐ろしい脅威であるはずのソレからは、まるで生気や意思と呼べるようなものが感じられなかった。
よく目を凝らせばスカートの裾や長い髪のように見えるものによって、女子生徒であった名残を見て取ることができるが、何かこの世の理とは異なる、異質なオーラをまとったように、ソレが意思を宿した存在であるという認識を許さない。
それに目をやっていると、自分の腹の底に淀む、得体の知れない暗鬱とした感情が胸の辺りに迫ってくるのを感じる。
嘔吐くような恐怖と、憤りと……、これは物悲しさか?
様々な感情が絡み合い、何が本当か分からなくなる。
自分が、自分でない気がする。
夢の中で発狂するなどということがあるのだろうか。
だが、今自分は確実に正気を失おうとしていた。
──痛い。
左腕が痛い。
肩が抜けてしまうかと思うほどの強い力で引っ張られ、意識が逸らされる。
無論、夢なので実際に痛みがあるわけではない。ただ、痛みを感じるほどの強い力で引かれたという〈事実〉を認識したに過ぎない。そういうことなのだろう。
腕を引っ張っていたのは、今にも泣き出しそうに顔を歪める吉岡だった。
何を言っているのか正確には入ってこないが、しきりに早く逃げようと促していることは伝わってきた。
逃げる、という言葉にハッとして、窓の外に視点を戻すと、すでにそこには何もなかった。咄嗟にソレはもう、どこかに移動してしまったのだと悟る。
それに加えて、同じ場所に倒れていたはずの、男子生徒と女子生徒の姿も見えなくなっていた。
おい、増えた! 増えたぞ!
誰かが近くでそう喚き立てていた。
吉岡ではない。盛んに喚いているのは中原だった。
普段から騒々しい奴だが、今はかなり興奮した様子で、窓に額を押し当て下を覗き込むようにしながら何事かを捲し立てている。
夢の中の視界が揺れる。
側にいたのは吉岡と中原だけではなかった。
広瀬もいる。それに岩見と倉田。
同じクラスの見知った連中が、体育館と本校舎を繋ぐ渡り廊下に集まっていた。
その現状を認識した途端、自分たちの孤立感を露わに感じた。
それと同時に、〈逃げなければいけない〉という差し迫った強迫観念も。
地上の騒ぎを見下ろし、傍観者のような振る舞いでいたが、この場所が安全だという保障はどこにもなかった。
ソレの姿が見えなくなったことで余計に恐怖がかき立てられる。
もしかしたら、今この瞬間にも、アレが、階段を上ってこちらに迫ってきているかもしれないのだ。
逃げなければ……。
今すぐ、どこか安全な場所に……。
しかし一体、どこへ逃げれば安全だと言えるのだ?
足がすくむ。身体が重い。
他の皆はどうしている?
急に周りの状況を見失ってしまったようだ。
暗い。視界が狭まる。
夢が……、暗転する──。
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