第12話 狂乱の殺人虫

 投げ落とされた火炎瓶は、アスファルトの地面……ではなく、そこから少し離れた、雪の積もった場所に落下した。雪が衝撃を吸収してしまい、瓶は割れなかった。瓶を割らなければ、中身の灯油が漏れ出ず、炎は燃え広がらない。瓶に栓をしている布切れだけが、虚しく炎を揺らめかせている。


「そ、そんな……」


 だめだった。俺の提案した討伐作戦は、失敗に終わった。

 勢いのつきすぎたムカデは急に曲がれず、そのまま台車を跳ね飛ばしてメグミさんのいる針葉樹林へと突っ込んでいく。だん、だん、と二発の銃声が聞こえたが、ムカデの足は止まらない。


「メグミさん!」


 この時俺は、拾った斧をまだ大事に抱え続けていたことに、今更ながら気づいた。このままでは、メグミさんがやられる。俺は地面を蹴り、斧を振るってムカデの胴体に切りかかった。

 走るムカデの背甲に、斧を振り下ろす。しかし背甲は岩のように硬く、傷一つつかない。当然だ。銃弾を通さない堅牢な鎧に、俺の細腕に振るわれる斧が通じるはずもない。

 ムカデはもう、メグミさんの目前まで迫っていた。冷凍ガスが噴射され、彼女の体を包んでいく。

 その時、メグミさんは冷凍ガスを浴びながらも、至近距離で発砲した。銃弾はちょうど触角の付け根部分に命中したのだろう。左の触角が、白い液体を散らしながら吹き飛んだ。ムカデの頭がのけ反り、冷凍ガスの噴射も止んだ。

 思わぬ反撃を食らったムカデは、まるで怒りを表しているかのように頭を震わせた。そして、上から覆いかぶさるように、メグミさんに襲いかかった。

 すでに冷凍ガスを全身に浴びてしまったメグミさんの動きは鈍かった。雪に足をとられているから、というのもあるかも知れない。彼女はムカデの牙を、よけることができなかった。


「やめろぉ!」


 俺の絶叫が、薄明の空の下に虚しくこだました。メグミさんの腹を、ムカデの牙が突き破る。その刹那……全ての風景が、スローモーションで流れていくように見えた。

 ああ、助けられなかった。彼女は俺を助けてくれたというのに……

 メグミさんは、姉の開発したホルモン剤を処分するためにここに来た。きっと彼女も、姉の息子である白石と同じように、複雑な心境だったはずだ。それでも彼女は白石と違って、姉を化学史から葬り去ることを選んだのだ。そんなメグミさんが、間接的に姉が生み出したともいえる怪物に命を奪われるなんて、あんまりな結末だ。

 

「くっそぉ! てめぇ許さねぇ!」


 俺は怒りに任せて、ムカデに斧を振るった。今度は背に向けてではなく、腹側から切り上げるようにした。背甲は硬いが、腹側は柔らかいはずだ。

 斧は腹の肉に食い込んだ。体液が垂れて地面に滴っているのが、その証拠だ。だが、それまでだった。ムカデは頭を動かすことなく、尻尾を鞭のようにしならせ、尾の先端についている二本の細長い脚で俺の腹を打ち据えた。そのパワーは強烈で、俺は大きく吹き飛ばされ、アスファルトの地面に背をぶつけた。衝撃とともに激痛が走り、俺はすぐに立ち上がれなかった。

 俺のすぐ隣には、あの吉崎がうつ伏せに倒れていた。噛まれた脇腹が黒く変色しているのは、毒の作用によるものだろうか。普通のムカデに噛まれても激しく痛むのだから、あの大きさのムカデとなれば致命的な毒を持っているだろう。

 ムカデはゆっくりと体を曲げ、斧を杖代わりにして立ち上がろうとする俺に頭を向けた。次は俺の番……ということか。ちょっかいをかけてくる小うるさい虫に腹を立てて、排除にかかったのだろう。このムカデにとってすれば、俺など目障りな小虫程度の、矮小な存在にすぎない。

 つらかった。みじめだった。俺は恩人を助けられず、目の前で殺された。そして今、俺の命も風前の灯火と化している。だめだ。助からない。失敗だ。終わりだ。


「久留米サン!」


 野太い声が聞こえた。鍾さんだ。声だけではない。チェーンソーの唸る音も同時に聞こえてくる。鍾さんはチェーンソーを振り上げて、二階から飛び降りていた。

 わざわざ俺なんかを助けに来てくれたのか……? いや、あの怪物を排除しなければ、自分も助からないのだから当然か。俺を助けるつもりで来てくれたなんて、自意識過剰もいいところだ、と、俺は心の内で自らを嘲った。

 落下エネルギーの乗った回転刃が、右の牙に叩きつけられた。唸り声をあげながら食い込む刃が、牙をすっぱりと切り落とした。地面にまき散らされた透明な液体は、きっと牙の中に蓄えられた毒だろう。

 思わぬ奇襲によって片方の牙を失ったムカデは、すぐさま反撃に出た。素早く鍾さんの方を向いたムカデは、首を大きく持ち上げて、鍾さんの頭上から冷凍ガスを噴射したのだ。


「鍾さん!」


 チェーンソーを持っているからか、それとも着地時に足を怪我したのか、鍾さんはろくな回避行動を取ることなく、白い霧のようなガスにすっぽり覆われてしまった。あれではもう、助かる見込みはない。

 残るは俺一人になった。ムカデは体をくの字に曲げ、牙と触角を片方ずつ失った頭を、ゆっくりとこちらに向けてくる。ようやく立ち上がった俺は、斧を振り上げた。蟷螂之斧とうろうのおのとは、まさにこのことかも知れない。

 肋骨の辺りが痛む。骨が折れているのかも知れないが、骨折を経験したことがないので、骨の折れる痛みがどんなものかは分からない。

 今まで何の役にも立たなかった斧だが、これに賭けるしかない……俺は腕にうなりをつけて、斧を振り下ろした。狙いはムカデの体……ではない。そのすぐ傍で雪に刺さっている火炎瓶だ。

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