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試験後のタイヤは、立川の技術開発研究所にまとめて送り返される。テストコースと立川の間には専用のロジスティックが構築されていて、週に二回、定期便のトラックが運航しているのだ。大輔は自分の評価したタイヤを研究所に送り返すため、出荷専用の倉庫でワンボックスからの荷下ろし作業に汗を流していた。
テストドライバーと言えば、ある種の花形職業のような印象だろうか。多くの人はテストドライバーに対し、サーキットのような所で車両を使い、タイヤを鳴らしながら派手なドリフトなどを決めている華やかなイメージしか持たないかもしれない。
しかしながら、それは彼らの仕事の一面しか見ていない。極端な言い方をすれば、自らが運転するという部分を除いては、街のタイヤショップの兄ちゃんたちと、さほど変わらないとも言えるのだ。
彼らは決して、破格の報酬でレーシングマシンを駆る『F1パイロット』などではなく、普通のサラリーマンなのだ。日々、研究所から送られてくるタイヤを評価し、そして日々送り返す。そしてその合間には、デスクに向かって報告書を書き上げる。そんな泥匂い仕事もまた、テストドライバーの仕事である。
何本目かのタイヤを引き摺り下ろした時、大輔の手が止まった。限界走行をしたためか、トレッド表面は熱で溶けたようにベタ付いている。どのようなタイヤでも過酷な走りを経た物は、多かれ少なかれこのような状態にはなるものなのだが、今大輔が手にしているタイヤは、少々度が過ぎているような気がした。
大輔はそのタイヤを足元に降ろし、サイドウォール部分に書き込まれた、チョークの手書き文字を目で追ってみる。
P-EP-3 FL / 224B-9472 / マブチ
最初の EP の部分がタイヤモデルを表し、コービータイヤの高級セダン向けラグジュアリー/スポーツモデル『Eagle Pilot』がベースの試作品であることが解かる。そのモデル名の前に P- が付くのは、これが次期製品の開発段階にある証だ。その後の -3 は、試作水準の三番目という意味になる。
大文字の FL は車両への装着位置を表し、左前輪ということ。廉価な商品では装着位置を問わない場合も多いが、高級品や趣味娯楽性の高いタイヤの場合、回転方向が指定されていたり、前輪と後輪でタイヤサイズが異なっていたりして、細かく装着位置を指定される場合も有るのだ。
/ と / の間に有る英数字の羅列は、タイヤ試作から運搬、入出庫などに用いられる追いナンバーで特に深い意味は無いが、一番最後の片仮名が、このタイヤの評価を依頼した設計担当者の名前になる。
数日前に評価した、馬淵の試作品だ。
確かあの時はキツネが飛び出してきて・・・。
そこまで思い出した大輔の両手には、このタイヤが突然グリップを消失した際の感触が、まざまざと思い出されたのだった。あの時の消失感といったら、これまでの大輔のテストドライバー人生の中で、一度も経験したことが無い違和感だった。
彼は、一旦は降ろしていたそのタイヤをワンボックスの中に戻すと、連れ合いのタイヤ三本(FR:右前輪、RL:左後輪、RR:右後輪)も探し出し ──独特のベタベタした
空き時間を使って、もう一度評価してみるつもりだった。
*
バコン、バコン・・・ と音を立てながら、高山の運転するGOLFがガレージに戻って来た。エンジンを切ると直ぐにドアを開けて出てきた彼を待ち構えていたのは大輔である。車両に歩み寄る彼の顔は若干ニヤケている。
「どうだった? 凄かったでしょ?」
バタム・・・ とドアを閉めた高山が興奮した様子で、堰を切ったように応える。
「今居さん! このタイヤ、ヤバいっすよ!」
高山元春は大輔が最も信頼する後輩社員の一人だった。彼の評価担当は大輔とは異なり、生産財タイヤである。しかもヨーロッパの自動車メーカー担当ということで、国内や米国のユーザーよりも高速性能を重要視される場合が多く、腕に覚えの有るドライバーが集まる課に所属している。
そんな彼は生粋のテストドライバーではなく、本職のレーサーからの転身だ。プロのレーサー時代の戦績としては、FJ-1600クラスにおいて、年間最優秀ドライバー賞を受賞。その後にF-4にステップアップして10戦中7回入賞を果たし、そのうち3回は2位の成績だった。結局、表彰台の一番高い所には手が届かなかったが、F-4日本一決定戦では3位に食い込むなど、表彰台の常連としてならした実績を持つ。
その後、スーパー耐久シリーズへの参戦なども果たした高山だったが、年齢的に体力面の限界などを感じ始めて引退。そしてコービータイヤのテストドライバーとして、第二の人生を踏み出した格好だ。各自動車メーカーの実車試験部からの転職組も多い部署において、ある種、異彩を放つ存在として、組織内では独自の立ち位置を形成している。
「ヤバいよね!? 絶対ヤバいよね!?」
食いつき気味の今居に、高山が同意を表明する。
「限界走行してると、急に『ツーーーッ』って滑り出しますよ、コレ。いきなり氷の上に乗ったみたくなって、俺、逆に笑っちゃいましたよ。前もって今居さんに聞いてなかったら、絶対スピンしてましたね」
「だよね。これは売っちゃいけないよね」大輔は腕組みをしながらタイヤを見下ろした。
「ってかコレ、次期Eagle Pilotですよね? パターンがそういう感じだし。大丈夫なんですか、こんなの上市して」
「うぅ~ん・・・ 俺も詳しくは聞かされてないんだけど、Eagle Pilot後継検討の内の一水準なんだ。でもこれで決まりじゃなくて、他の水準はもっとまともなタイヤだったよ。
そっか。やっぱり高山君が乗っても同じなんだね。じゃぁ、報告書は『これだけは無い』って書き直しておくよ。ごめんね。仕事終わった後に余計なことさせて」
申し訳なさげな大輔に、ヘルメットを脱ぎながら高山が言う。
「いやいや、全然構わないっすよ。それより今日、立川から
「あっ、やっぱり神谷さんだったんだ? 走ってる時にチラッと見かけて、ひょっとしたらそうかなって思ってたんだけど。オッケー。じゃぁ7:00頃にいつもの店で」
その後、事務所に戻った大輔は、高山による再評価結果も踏まえて報告書を書き変えた。後は社内の報告書ワークフローに流すだけ ──その後、上長を経由して評価依頼者に転送されつつ、社内のデータベースに登録される── という所まで書き上げてあったのだが、該当するタイヤの追加コメント欄を変更したのだ。
システムの都合上、五十文字までしか入力できないので、その短いコメント欄で如何に状況を正確に伝え、ドライバーズインプレッションを語るかは、報告書の書き手の文章力次第である。
訂正前:
常用領域の性能バラン (10)
スは高水準なるも、高 (20)
速域での性能低下が目 (30)
立ち、お薦めできない (40)
。 (50)
訂正後:
限界走行時のグリップ (10)
力低下は許容範囲を超 (20)
え、市場で問題を引き (30)
起こす可能性を否定で (40)
きない。 (50)
報告書全体を何度か読み返し、問題無しと判断した大輔はマウスを操作してディスプレイ上の送信ボタンをクリックした。その操作によって報告書は直ちにワークフローを流れ始め、彼の手元を離れていった。
その一連の流れを確認した大輔はパソコンをシャットダウンすると、「お先失礼しまーす」と言いながら事務所を後にした。
*
「本当かよ、それ?」
神谷が刺身に付け過ぎたワサビに顔をしかめながら聞き返す。彼は元々、立川の技術開発研究所出身だが、実車試験部に転属となって十年ほどが経過していた。しかしこの春、再び立川へと転勤となり、今は研究所に付随する室内試験所の所属である。
そんな彼が、今日は古巣であるテストコースに出張してきたのだ。扱い難い実車試験部に顔が利く彼のような存在は研究所にとっては都合の良い存在であり、テストコースがらみの案件では何かとお声が掛かるのだ。
「マジ凄いんですから! 室内試験ではそういったヤバい傾向は出てなかったんですか?」
利き手ではない左手で出汁巻き玉子を突きながら、高山が受けた。あえて利き腕ではない左手で箸を扱うというダイエット法の最中なのだ。
「いやぁ、室内試験では原則、そこまで限界に持っていかないからな。あくまでも基本性能しか評価してないよ」
「そっか。そりゃそうですよね」大輔はジョッキのビールをグィと煽る。「でも、今度のEagle Pilotは、かなり気合が入ってるんじゃなかったでしたっけ? 設計の馬淵君が『社運を賭けた新商品』みたいなこと言ってましたよ」
「気合入ってるよ~、研究所は。特に材料系の化学屋さん達が大騒ぎしてるね。本社も盛り上がってるって噂だけど」
ワサビをビールで飲み下しながら神谷が応えると、出汁巻き玉子をポロリと落としてしまった高山が重ねて聞く。
「今までと何が違うんですか? パターンは旧パターンと変わりませんでしたけど・・・」
「パターンはまだ検討段階みたい。暫定的に旧パターンで評価してるってことだろうね。それよりもトレッドに用いたゴムが、かなり革新的らしいよ」
「革新的?」結局、箸を突き刺した玉子を口に運ぶ高山。
「基本は天然ゴムなんだけど、添加してる有機材料が今までとは何だか違うらしい。新しいタイプの合成ゴムで、それをかなりの割合で混ぜることで天然ゴムの使用量が劇的に減らせるんだとさ。
まっ、二人の言うヤバいタイヤが、その革新材料を使ったタイヤなのかどうかまでは判らないけどね」
タイヤなどに用いられる天然ゴムは「パラゴムノキ」から生産されており、その栽培地域は東南アジアに限定されている。世界規模で経済が減速しつつある状況でも天然ゴムに対する需要は旺盛で ──その用途はタイヤだけに限らず、身の回りのあらゆる機械部品、或いは日用品の中で用いられている── その様子はさながら東南アジアのゴールドラッシュの様相だ。このゴム景気のお陰で、当該地域の人々が貧困から抜け出せているのは好ましい状況である一方、環境面での脆弱性が指摘されてもいる。
当然ながらゴム農家によって広大な森林が伐採され、ゴムノキだけが植林されている。それは『森林面積』という指標では問題無きが如く考えられがちだが、多様性を失った単一種の農地 ──いわゆるモノカルチャー── では、たった一つの病気で全ての森林が無に帰す可能性を内包しているのだ。
かつて、自動車産業の父ヘンリー・フォードがブラジルの熱帯雨林に、ゴム材料生産の為の広大なプランテーションを造ったことがあった。しかし南米葉枯れ病の蔓延によって ──ゴムノキは葉枯れ病に弱いとされている── たった数ヶ月で全滅してしまったのだ。
以来、この地にゴム農園が根付いたことは一度も無く、南米の葉枯れ病が東南アジアにもたらされた際には、タイヤ業界だけでなく、自動車産業全体が停止することを示唆しているわけだ。
従いコービータイヤでは、天然ゴム資源に関わるリスクヘッジの為に、その生産性向上に向けた技術研究と並んで、使用料削減、代替材料の開発を加速させており、今回、馬淵が評価依頼したタイヤに用いられていたトレッドゴムは、その切り札になり得ると考えられていた。
「構造開発部は面白くないんじゃないですか? そういった話なら、次期Eagle Pilotの手柄は、根こそぎ材料研究に持っていかれそうじゃないですか」
空になったジョッキを集め、新たに注文し終えた大輔が向き直る。茨城の田舎に引き籠っていると、研究所や本社など、中央の雰囲気や温度が伝わってこないので、こういった出張者からの情報が重要だったりするのだ。同じ釜の飯を食っていた神谷もその辺のことは承知しているので、研究所の生の空気感を積極的に伝える。
「そうそう。連中、ピリピリしてるよ。ただでさえ技術部門の重役の殆どは、材料系で占められてるからね。構造系の人間は一人も居ないんだもん。噂では構造開発部が取り潰しになって、あちこちの部署にばら撒かれるって話でさ。もう構造の連中は戦々恐々だよ」
「マジですかっ!? それじゃぁ、お家断絶じゃないですか!?」高山は仰け反った。
「材料研究と構造開発は仲が悪いからねぇ~。仁義なき戦いってやつかね?」
そんな社内闘争には何の興味も無いと言いたげに、神谷は呆れ顔だ。彼はそういったパワーゲームに関わる立場に立てるほどの評価を、会社から受けることなく定年を迎えつつある老兵なのだった。それは彼が、社内的には劣勢の構造系の人間だからなのかは判らないが。
「なるほど。だからいまだにパターンすら決定してないんですね? 構造開発部の存在意義を誇示するには、それなりに突っ込んだ設計にする必要が有るってことですよね」
さもありなんという様子の大輔の思いを、神谷の情報が後押しする。
「そう。構造開発のスパコンは今、次期Eagle Pilotのシミュレーションに絞って、24時間フル稼働してるらしいよ」
組織図3
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コービータイヤ
└COO
└技術分掌
└技術統括部門
├材料研究本部
│└材料研究部
│ └機能性材料研究課
│ ・光重真紀
│ ・本山真治
│
├構造開発本部
│└構造開発部
│
├設計本部
│└乗用車タイヤ設計部
│ └消費財タイヤ設計課
│ ・馬淵一成
│
└支援本部
├試作工場
├室内試験所
│└小型タイヤ試験ユニット
│ ・神谷直樹
└実車試験部
├生産財試験課
│・高山元春
└消費財試験課
・今居大輔
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