アンチゴネーの駆ける街

沢河俊介

人のいない街

 夕方、仕事を終えたデレク・チェスタートンは、自宅アパート近くの駐車場に車を止めてしばらく歩くとアパートの入り口で立ち止まって、あたりをキョロキョロと見まわした。人の気配がなく、いま立っている地点から100ヤードばかり行った先に広場が見えた。2カ月ぐらい前のこの時間は、晴れていると酒場を目指す人々が広場に湧いて出てきたものだった。けれど今は鳥や猫が石畳を堂々と歩く姿のほかに動く物などなかった。

 鼻と口をふさぐマスクの位置がずれていないか確かめ終わると、デレクはアパートに入り、誰もいない薄暗い廊下の奥にあるエレベータまで脇目もふれず歩いた。乗り込もうと鍵の先でエレベーターのボタンを押そうとするが、思い出したように手を止め、振り返って非常階段へと足を向けた。誰かが上から降りてこないだろうかと、いったん立ち止まって息を殺し、耳をすませた。人の気配がないことを確かめると、階段を静かにのぼり始めた。自分の家のフロアまで登り詰めると仄暗ほのくらい長い廊下を進んだ。そこは虚ろで、靴が絨毯じゅうたん起毛きもうを潰す音しかなかった。

 デレクは自宅の扉前にさしかかると、静けさを破るように金属のきしむ音が聞こえてきて、びくっとした。同じフロアに住むマーヴィン・アップショーが扉をあけている音だった。相手の姿が見えると10mほど離れたところで挨拶を交わし、立ち話を始めた。

「買い出しに行こうと思うんだが、店に食い物はあると思うかい?」マービンはデレクと離れたままで話しているせいか、大声だった。

「スーパーのアルマンで日用品を買おうとしたけど、ほとんどなかったよ」

「そうか」

「早く、自由に外出できる生活に戻りたいよ」

「まったくだ、この流行はやりやまいのせいで商売が立ち行かなくてなぁ」

マービンはそういいながら、うつむいて靴底を絨毯にこすった。

「俺は郵便局づとめだから外出が許されているんだ。買い物があれば代わりに行ってもいいよ」

「ああ、今度頼むよ。ところで子供は元気かい? 学校は?」

「娘は学校の授業をパソコンで受けているよ。あんまり楽しそうじゃなけどね」

 束の間だが二人の男は外出すらままならない昨今の社会情勢について、愚痴をこぼし合った。

 デレクはマービンと分かれて自宅の扉を開けて入ると、取っ付きにある娘のドーラの部屋の扉が少し開いていて、中から話し声が聞こえきた。友達が来ているのかと扉の前で聞き耳を立てたが、声はパソコンに向かって話しているらしいドーラのものだった。

 デレクは洗面所にいくと、顔につけているマスクを外し、それを忌み嫌うようにゴミ箱へ投げ捨てた。しかし、思い出したようにマスクを大事そうに拾い上げ、洗面台の横に置いた。それから、自身の顔を鏡で見ることもなく、うつむいたまま神経質そうに石鹸せっけんで手を洗い始めた。


 ドーラはパソコンの前に座っていた。顔は窓の方に向けて頬杖ほおづえをついていた。外は曇り。教師はパソコンの中で授業をしていた。哲学の授業に使うヘーゲルに関するファイルを開くこと指示すると、これから示す箇所に印をつけるようまくしたてた。でもドーラその間、ずっと、うわの空だった。

 毎年のこの時期は春休みが明けて学校に行くはずだった。今年は外出することもできず、配信による学校の授業をパソコンで受けていた。彼女は友達のジョアンと1か月近く会えなくて、このところウンザリしていた。

 3か月ほど前から街に流行り病が蔓延まんえんしていた。市長はこの市区に外出制限を発令した。この病気は、肺炎の症状を引き起こし、すぐに治すことができないので病院が患者で溢れかえった。空気感染する可能性が高いこと、高齢者ほど死亡率が高いこと、そして、世界の国々でそれが蔓延していることをニュースが伝えた。一日の死者数も日を追うごとに増えていった。病院で亡くなった遺体を家族が引き取ることもできず、嘆き悲しむ人々がテレビに映しだされた。この病気にはどんな薬が効くのか、他の街の病床は何パーセントの空きがあるのか、ワクチンや薬の開発はどれくらい進んでいるのか、そんな話題で大人たちは何もかも混乱していた。だからドーラはそわそわした気分が毎日抜けきれず、授業が身に入らなかった。

 ドーラは配信による授業が終わると父のデレクが帰宅していたことに気づいた。

 リビングへ行くと晴れない表情のデレクは、帰宅途中で買ったちょっとの野菜と果物、そして、缶詰や瓶詰を紙袋から出して机に並べていた。その姿を見たドーラは母親が今日も帰らないことを察した。

「私のキャスケット、取りに行ってくれた?」ドーラがデレクへ訪ねた。

「ああ、忘れてた」デレクは顎を上げ、そっけなく答えた。

「朝、あんなに念を押したのに」

「ごめんよ、考え事があって、すっかり忘れてたよ」

 2週間ほど前に、母親と旅行かばんを買いに行ったときに、ドーラは被っていったキャスケットを店に忘れてきてしまった。そのあとすぐに外出禁止令が当局から出され、許可がおりていない未成年者は外出できなくなってしまった。出勤した父に帰りにでも取りにいってくれないかと頼んでいた。父が勤める郵便局の仕事は社会生活を維持するのに必要不可欠だとみなされ、出勤のために外出を許されていた。

「町のあちこちに憲兵がいてな、それが気になって、つい忘れてしまっていたよ、すまない」

 さっき、ドーラの部屋から外を見下ろしたときもそうだった。街に立っているマスク姿の警官は、通りかかる人や車をいちいち呼びとめ、彼らから書類を受け取って尋問しているようだった。

「授業は終わったのか?」デレクはドーラへたずねた。気持ちが切り替わったように声のトーンが上がった。

「えっ、うん、退屈だわ」

「しばらくの間だけだよ、我慢しないと」

「ママは、まだ、時間がかかるの」

「ああ、そうだった、さっき病院に連絡したんだが、熱は下がってなくて食欲もないそうだ。意識はあって容体も落ち着いているらしいが」

「ふうん」

 ドーラは少し不満顔で父親を眺めた。おととい母ダリアが入院した。デレクは病院とたえず連絡を取っているはずなのに、母の容体を自分へ伝えないことに苛立っていた。病院の検査では母が例の流行り病にかかっていたことが判明したのだ。

「レナルドが何か食い物を持って帰ると、助かるのだが」デレクはそういいながら、瓶詰の中の酢漬けや魚のペーストをまじまじと眺め、水のペットボトルを冷蔵庫からいったん外に出して、中を整理し始めた。

 ドーラより6歳上の兄レナルドは外出していた。普段は家で仕事をするコンピューターエンジニアだったが、お昼前から市のボランティアとして出かけていた。外出することができない年寄りたちへサンドイッチを届けるために、街を回っていたからだ。

 ドーラは台所の引き出しからクッキーの包みを取り出して破ると、中身をかじりながら自室へ戻った。

 ドーラはスマートフォン出すと友人のジョアンとビデオチャットを始めた。ジョアンに1か月ほど会っていないが、実際には肩が触れ合うほどの距離で会っていないというだけであって、ほとんど毎日こうしてスマートフォンで会話をしていた。

「やることないし、暇だからさ、この機会に練習しようと思って」話し始めてすぐそう言うと、ジョアンはカメラの画角からしばらく消えた。戻ってくると手にはギターが握られていた。「姉貴から借りたんだ」そう云うとギターを抱きかかえて弾き始めた。曲名すら云わなかったのでドーラは鼻で小さく笑った。演奏は練習したばかりだけあって、お世辞にも上手いとはいえなかった。でもジョアンとつながっているこの時間が心地よかった。

 ジョアンは派手好きで、学校でも目立つ子だった。ドーラも他の子と比べて地味というわけでないが、ジョアンと一緒にいるとジョアンが派手な方、ドーラが地味な方とみんなは区別した。

 一年前の学校の学園祭でチーム対抗のダンス大会を開いたとき、一緒に全身黒タイツの衣装を手作りし、何人かで出演した。ジョアンはクネクネした『降臨ダンス』というのを考えだした。私たちはそれを1日ほどで習得してから、みんなの前で披露した。大会で獲得した点数は最下位だったが、仲間たちに大うけだった。我々のグループと距離を置くお堅い子たちは『降臨ダンス』を冷ややかに眺め、私たちを狂っているとあざけったりした。私は彼らをせせら笑うだけで意に介さなかったが、ジョアンは「凡人っていうのはどんなやつらにも寛容だけど、天才だけは認めないものよ」とワイルドの言葉を引用してそういった。

 ジョアンが1年上の先輩にふられてから数か月たった。それ以来二人で恋の話をすることはなくなった。最近のジョアンはというとビデオチャットの始めに当たりさわりのない会話をしてから、何かのついでに兄のレナルドが何をしているのかそれとなく聞くことが増えた。「もしかしてレナルドのことを好きなの?」とドーラはジョアンに聞けずにいる。自分とこんなにも頻繁にビデオチャットをしてくれるジョアンのほんとうの目的が、レナルドとのきっかけ作りだったとしたら、崩れ落ちるほど精神的ダメージを受けるに違いない、と想像したからだ。


 今、社会は外出が制限されている。自宅からビデオチャットを使い、TVニュースのインタビューを受ける市井の人々が増えた。政府は飲食店が感染の温床となっているとして、この業界に営業時間の短縮を求めてきた。店の売り上げが減った店主は「政府が休業に協力した店に対して補助金を出すなんていっているが、大勢を雇っているウチの店にとって、スズメの涙ほどにしかならんよ」と息巻いた。その逆に大した稼ぎのなかった店主が補助金でバイクを買ったという話も流れた。

 最近になって流行り病のワクチンが開発されつつあるらしい。ワクチンは試験的に患者へ試してみて、効果があれば国民にそれが行き届くよう、ワクチン接種を政府が主導するとのことだった。

 ジョアンは世界を影であやつる黒幕がこの流行り病をでっちあげているという。この流行り病がただの風邪でしかなく、ニュースで報じられる死者など本当は存在しないのだそうだ。影の黒幕がなぜそんなことをするのかというと、ちゃんと訳があって、国民にワクチンを投与するよう政府を操り、ワクチンによって人々を少しずつ殺して増えすぎた世界の人口をコントロールするのが目的だというのだ。また、報告されているこの病気で死んだ人数は実際よりも多いという意見もあれば、いや、実際より少ないという意見もある、といった話を誰かに聞かれてやしないかと声をひそめながらドーラに語った。

 そのようなうわさ話に異をとなえる政府は、陰謀論がSNSで拡がっているので、そのような言説を信じないようテレビやホームページで国民に呼びかけた。

 「陰謀が本当なのかよく分からないけど、どっちにしたって、無力な私がそれにあらがうことはできそうにないけどな」ドーラはジョアンに答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る