三十路の家出

乾縫

第1話 三十路男、本をゴミに出す。

 秘密で急ぎの引っ越し準備を進めていると、やっぱり最後には、大量の本が残った。

 どんな履歴書にも趣味は読書と書く私の持っている本の総数は中々で、ちまちま古本として売りに出して数を減らしてはいたのだけれど。

 やっぱり、最後には一山ほど本が残った。

 新しい住処に持っていくことはできない。売るにももう、時間が足りない。

 だから、捨てることにした。

 十字に縛って、ゴミ捨て場に出せば、無料で資源ゴミとして回収して貰える。

 再生紙に生まれ変わってくれでもしたら、いくらか救われる気がした。

 だから、絶対に崩れないようサイズを揃えて、まだ余裕のある高さに本を積んで、買ってきた安いナイロンの紐で、十字に縛る。

 それを、気が進まないのを押し殺して、ありったけの丁寧さで、何度も何度も何度も、繰り返した。

 紐かけの手際ばかりが上手になるけれど、気分は一向に乗ってこない。

 埃を被っていた一切の本を十字に縛り上げるのに、午前中一杯かかった。

 無数の塊に縛り上げられた本たちは、ちょっとした山になっていた。

 本を十字にかけるなんて、なんて可哀想なことを私はしてしまったのだろう。

 果ては槍で突かれるか、火にかけられるのではないか。

 なんて、欠片も面白くない冗談を思いついて、一気に気分が沈んだ。

 大切な本を残酷に縛り上げたのは私自身であるし、これからの住処に山ほどの本を持ち込むこともできないのだから、実際他に方法が無いのは、十二分に考え尽くした事だ。

 だから、ゴミを捨てに行く。

 けれど、週に一度しか回収されない資源ゴミの回収日は、今日ではなかった。

 冬前の天気は気まぐれで、天気予報も大してあてにならない。

 十字に縛られて、何日も外に放置されて、あげくもしかしたら雨に晒されるなんて、こんなに哀れなことはない。

 だから私は、今まで一度も行ったことのない、地域のゴミ処理場に直接ゴミを持っていくことにした。

 道も知らない。だから今まで使ったことのないナビアプリをスマホにダウンロードして、車のトランクに、一つ一つ丁寧に、ゴミを積んだ。

 トランクは一杯になって。

 けれど、それきりだった。

 思っていたよりも少ない。

 もっともっとたくさんあったような気がしていたけれど、ぎちぎちに縛り上げられてしまえば、意外と小さく収まってしまうらしかった。

「写真でも撮るか」

 捨ててしまえば、もう二度と目にする事は無いから、普段は思いもしないことをやってみたかった。

 ぱしゃりと、スマホからシャッター音がすると、もっと小さな写真が出来上がった。

 まあ、これでよかろう。

 と、気持ちの整理もついた。

 ばたん。と乱暴に車のトランクを閉め、初めて使うナビアプリを使って目的地に向かって車を走らせる。

 天気は曇り。太陽を背にして走るから、眩しいということもない。

 遠い山の天辺には、嫌な濃さの雲がかかっている。どうやら山の方では雨が降っているらしかった。

「やっぱり、持っていくので正解だ」

 意外とゴミ処理場は遠くて、知らない道を三十分くらい走る。

 すると森に紛れるようなゴミ処理場に到着した。

 受付のお姉さんにゴミの捨て方を聞いて、その通りに捨てる。

 たったそれだけで私は、ゴミを捨てることができた。

 帰り道は同じ道。もう知っている道だった。

 雲の切れ間から覗く太陽の日差しで鼻がむずむずして、車を路肩に停めた。

 目の奥がじんじんして、我慢がならない。

「ああ、だめだ」

 ろくに前が見えない。

 鼻はずるずる言い出して、息が詰まった。

 車を運転するなんてことは、できなかった。

 悲しくて、申し訳なくて、寂しくて堪らなかった。

 だって、そうだろう。

 私がこうして『今の私』になったのはきっと、本のお陰だった。

 分からない事があれば、本で学んだ。

 辛い事があれば、楽しい物語を読んだ。

 自分では思いつきもしないことの大抵は、本が教えてくれた。

 今の私を形作ったのは、ついさっきゴミとして捨てた、本たちだった。

 いつだって本は私の傍らにあって、いつでも私を拒まなかった。

 私はゴミを捨てたんじゃない。

 自分を形作ったものを、自分の半身に等しいモノを捨ててしまったんだと、随分久々に泣いた。

 けれどそれも、自分で決めてやったこと。

 泣いて許される話でもなければ、許しを乞うような話でもない。

 泣いている場合ではない。

 鼻をかむ。目元を拭う。

 勢いあまって鼻頭についた鼻水が酷く不快だったけれど、ゴミ処理場に捨てられた本たちほどでは無いだろうと思い直して、鼻を拭って前を見た。

 道が続いていた。

 今までは知りもしなかったけれど、ナビアプリが示すには、どんな道にも山にも名前があって。

 そのことがなんとなく、心強かった。

 路肩に止まっている場合ではない。

 たくさんの考え方。

 知らない知識や物語。

 そして辛い別れすらも教えてくれた本たちを無意味なものにしないためには、私自身が進まなければ。

 鼻をすすってウインカーを出す。

 知った道を行くだけだ。

 何も難しい事はない。

 道のずっと先、遠くにある初めて名前を知った山には、虹がかかっていた。

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