第3話
「リシュカ・ルビナス!」
びくっと背中を震わせて振り返ると、寮母のベアリー婦人が大股で近づいてくるところだった。リシュカは慌てて傘をマントの下に隠す。
ベアリー婦人は銀と琥珀色の混じった髪をタイツリソウのようなハート型に結った髪型をしている。昔、魔女の間で流行った髪型だと婦人は言っていたが、他の人がしてるのを一度も見たことがない。
婦人は大きな体を揺らしながらリシュカの前に立つと顔を思いきりしかめた。リシュカがゴーストではないことを確かめるかのようにじろじろとながめた後で、
「リシュカ・ルビナス、こんなところで何をしているのです?」
と怒ったように聞いた。
「あの……、私、トイレに……」
リシュカはもじもじとしながら言う。冷や汗が背中を伝った。
ベアリー婦人はさらに顔をしかめた。
「ここは、男子トイレですよ!」
ぎょっとして振り返るとたしかにここは男子トイレの前だった。ということは、ここは男子寮ということだ。
リシュカは額にも冷や汗をかく。妙な誤解をされなければいいけれど……。
「私、寝ぼけて……」
ごまかすようにおどけた笑みを浮かべた。
「寝ぼけて男子寮まで来てしまった、と? しかも箒を持って?」
「そうみたいです。本当に、本当に、そうなんです。私、トイレを掃除しようとしたんです。その……夢の中で、そこはすごく汚いところだったから。綺麗にしなくちゃと思って……」
「掃除をするのはいいことですよ!」
ベアリー婦人は綺麗好きなのだ。掃除当番をサボる学生には鉄槌を下すことで有名で、掃除の時間になると恐れられるほどだった。
苦しい言い訳にもかかわらず婦人はにっこりとほほ笑んだ。
しかし、その笑顔も長くは続かない。なにせ、リシュカは土まみれだからだ。再び、ベアリー婦人の顔が曇る。
「そのマントずいぶん汚れているようですが?」
「さっき、埃まみれのクローゼットを掃除していたんです。その途中で寝てしまって。でも、夢の中でも掃除は続けていました」
自分でも無茶苦茶な言い訳だと思ったけれど、ベアリー婦人は感心したようにうなずいた。
「クローゼットの中は見落としがちな場所なのです。パーティの前日にドレスにカビが生えていた、と言って泣いていた子を何人も見ました。掃除をサボることは人生を犠牲にすることと同じなのです」
ベアリー婦人はそっと涙をぬぐった。
なのでリシュカもうなずきながら真似をした。
「しかし、だからと言ってこんな夜中に掃除をするのは感心しませんね。学生はよく勉強をして、よく食べて、そしてよく眠らなければいけません。そして、掃除は朝、太陽の光をたっぷり入れながらするのです。そうすれば、埃と一緒に悪い霊も綺麗になるのですから。分かりましたか、リシュカ・ルビナス?」
「はい。これからはそうします」
ベアリー婦人はまだ疑うようにリシュカを見ていたが、やがてあきらめて大きなため息をついた。あやうく吹き飛ばされそうなほど大きなため息だった。
「まあいいでしょう。はやく戻って、さっさと寝なさい!」
と言ってベアリー婦人は大股で去っていった。
リシュカはほっと胸をなで下ろす。
ノックの仕方が良くなかったのだろうか?
本当なら自室の前に出るはずだったのに、よりにもよって男子トイレとは。気分が落ちこんでいると魔法は失敗しやすくなるというけれど、なんて運が悪いのだろう。
リシュカはベアリー婦人に負けないくらい大きなため息をついた。
そして、変な噂が立つ前に帰ろうと歩き出したとき、窓ガラスに映った自分の姿を見てひやっとした。頭から葉っぱ付きの小枝が触覚のように飛び出している。気づかれなかったのか、指摘されなかっただけなのかは分からないが、お咎めを受けなかったことは幸運だった。さすがにこれを指摘されたら言い訳のしようがない。
寮を抜け出してまでアルバイトをしているのは、祖母のような立派な魔法使いになるためなのに、退学にでもなったら本末転倒だ。
もちろん、禁止されているアルバイトをすることがいけないことだとは分かっている。けれど、こんなにも割の良いバイトは他にないので仕方がない。
リシュカは重い足取りで寝室に戻った。
同室のネラはお気に入りの黒猫のぬいぐるみを抱えながらぐっすりと眠っている。
ベッドの下に星屑を入れた革袋を隠すと、パジャマに着替えて髪の毛を念入りにとかした後で綿毛布の中にもぐりこんだ。
しかし、今夜はなかなか眠ることができなかった。
――あの紫色の流れ星は一体なんだったのだろう?
部屋から見える夜空はすっかり静かだ。
紫色をした星なんてはじめて見るものだった。教科書でも見たことがない。
それに不思議なことは、紫色の星屑が取れなかったことだ。
もしかすると、星ではなかったのかもしれない。それなら、妖精かゴーストか。しかし、あんなに空高く飛ぶ妖精やゴーストなんて聞いたこともないけれど……。
それになにより最悪なのは、あの流れ星に気を取られていたせいで星屑も満足に集めることができなかったことだ。魔法も失敗をするし、ベアリー婦人にも見つかるし、何か不吉なものなのかもしれない……。
リシュカは長い間ぐるぐると色んなことを考えていたが、考えれば考えるほど気分が落ちこんでしまうばかりだった。
まぶたを閉じると紫色の流れ星が浮かびあがってくる。それは雷みたいにどこかに落ちて燃え上がる。はっと目を開けると、夜空は静かに眠っている。
ようやく眠りにつくことができたのは空が白んできた頃だった。
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