Invanity Ring

いずみ

第1話

 俺は起き上ると、ベッドサイドの冷蔵庫からペットボトルを取り出した。一気に半分まであけて、大きく息をつく。


「どうしたの」


 まだ荒い息を吐く美也子が、ベッドの中から顔をあげた。



「なにが」


「今日は荒れているのね」


「……そう?」


「そう。でも、強引なのも時には悪くないわ」


 けだるげに言って美也子は手を伸ばすと、俺の持っているペットボトルを取り上げた。白い喉がこくんと動くのを、俺は感情のこもらない目でながめる。


 荒れている……か。そうかもしれない。



「今日、友達の結婚式だったんでしょ? 羨ましくなったんじゃない?」


 上目遣いになった美也子は、意味ありげに含み笑いをする。俺は、気付かれないようにため息をついた。


 そろそろこいつとも、潮時かな。女がこういうことを言うようになったら、あとはめんどくさくなるだけだ。少し、長くつきあいすぎた。


 今夜限りなら、最後にもう一度。



「強引なのがよかった?」


「泣かせてみせて。……めちゃくちゃにして」


 何か確信を得た笑顔で、美也子が背を伸ばして口づけてくる。厚ぼったい唇を合わせながら、俺は、別の女のことを考えていた。


 今日、親友の花嫁となった、あいつのことを。


 きっと、今頃……


「……くそっ……!」


  ☆


 意識を失った美也子をそのままにして、シャワーを浴びた俺はさっさと部屋を出る。


 適当な女でも抱けばすっきりするかと思ったけど、そうでもなかったな。どこかで飲み直すか。


 近くにあるバーをいくつか頭の中で見繕いながら、ホテルを出た時だった。


「……離してください!」


「んだよ、今さらだろ」


 どうやら、ホテルに入る入らないで揉めているらしいカップルが、道路の脇で騒いでいた。


「ここまできてぐだぐだ言うなよ」


「でも……あの……」


 見るともなしに見て、俺は眉をひそめる。


 暗がりで腕を掴まれているのは、いかにも世間知らずといった感じの清楚なお嬢様風の女の子。チャラい男に言葉巧みに誘われて、まんまとホテルに誘い込まれるってあたりか。お気の毒に。


「ごめんなさい、やっぱり……無理、です」


「ふざけんなっ」


 いきなりすごんだ男に、びく、とそのお嬢様は肩を震わせた。


 あーあ、だめだありゃ。完全にのまれてる。


「いいから来いっ」


「……痛っ!」


 普段ならそんな厄介ごとに首を突っ込むのは極力避けてる。けれど今の俺は、なんでもいいから暴れたい気分だった。


 てこてこと二人に近づくと、折れそうな細い腕を掴んでいた男の手を、俺は、ひょい、とねじり上げる。


「い、いててて!」


「嫌だって言ってるだろ。離してやれよ」


「なんだよ、てめえには関係ないだろ」


「関係はないな。けどよ」


 俺は、にやりと笑った。


「嫌がる女性を無理やりホテルに連れ込もうとしてんのはあんただ。ここで俺があんたに何かしても、正当防衛ですまされるよなあ、おい」


 しょせんハッタリだけど、こういうのは強気になった方の勝ち。冷静にそんなことを考えている頭の反対側で、ぎらりと自分の目が熱を持つのがわかった。


 久しぶりだ、この感覚。もう何年も本気だしちゃいないけど、身体が覚えている。


 社会人となってそれなりの身分を確立した今では、ずっと封じ込めていて出したことのない、あの頃の俺。


 そんな俺の雰囲気を、賢くも感じ取ったらしいチャラ男は、ひ、と血の気の引いた顔であわてて逃げ出した。覚えていろ、なんて決まりきった捨て台詞を吐きながら。


 なんだ、つまんねえ。ひと暴れしたかったのに。


 そういや、覚えてろ、ってよく聞くけど、俺はともかくあっちは覚えてんのかね。そう言われてその後会ったことは一度もないけど。と思うけど。


 興ざめした俺は、さっさと駅に向かって歩き出した。


「あの……」


 声をかけられて、お嬢様がいたことを思い出して振り向く。


 改めて見ても、その子はもう見事に絵にかいたようなお嬢様だった。


 黒目がちの大きな目。高校生……まさか中学生じゃないよな。白いコートの下から、上品そうなブルーのフレアスカートがひらひらと覗いている。パンプスとバッグをマットなイエロー系でそろえているあたり、なかなかいいセンスだ。が、いかがわしいホテル街には、はなはだ不釣り合いな様相だった。


 さらりとしたロングのストレートヘアが……少しだけ、あいつを思い出させた。


 今日、同じように真っ白なドレスを着て微笑んでいた、あいつ。


 ……未練がましいな、俺。


「ここらは治安が良くないから、早く帰りな。またあんなのにつかまんないようにね」


 それだけ言うと、俺は踵を返して歩き出そうとした。その俺の腕を、彼女はいきなりがしりと掴む。


 え?


「あのっ!!」


 必死な形相で、彼女は叫んだ。


「私と、お酒を飲みませんか!」


「…………は?」


  ☆


「だめ、ですか?」


 そのままフリーズした俺を、彼女は不安そうな顔で見つめている。


「つか、あんたさ」


「華月、と申します」


 律儀に、そのお嬢様は名乗った。


 かづき、ね。いかにも、お嬢様じみた名前だけど、偽名を使えるほど要領がよさそうには見えない。


「……華月ちゃん、今度は、俺をナンパ?」


 は、と華月ちゃんは我に返ったようにあわてて手を離した。


「いえ、その……私、とにかく、男のかたとお話がしたくて……」


 しどろもどろで顔を真っ赤にしている。


「そうやって、さっきの男も捕まえたの?」


「あの方は、駅前で私に声をかけて下さったのです。一緒にお食事をしていたのですけれど、二人だけでお話をしようとおっしゃられてここまで……」


 世間知らずっぽいけど、さすがにここがどういうところくらいはわかったのか。


「そんで、今度は俺がここへ連れ込んだらどうする気?」


 華月ちゃんは、困ったようにうなだれた。


「でも……わたくし……」


 思いつめた顔で、ぎゅ、と持っていたバッグを両手で抱きしめる。


 俺は、思い切り大きなため息をついた。


 こりゃ、ほっといたらまた変な男にひっかかるな。仕方ない。乗り掛かった舟だ。


 うっかり、あいつの面影なんか重ねるんじゃなかった。


「わかった。お酒、飲めるの?」


「はい。あ、でも、口をつけたことはありますが、あまり得意ではないと思います」


 ぱ、と嬉しそうに顔を上げる。おやおや、ずいぶんと表情は豊かなようだ。そんな仕草は、いかにも子供っぽい。


「いや、そうじゃなくて、華月ちゃん、未成年?」


「……えと……ち、違います」


 あからさまに視線をそらしたその顔を見て、つい吹き出してしまった。


 嘘のつけない子だな。なんでこんな時間に逆ナンしてるか知らないけど、根はいい子、なんだろう。


 別に俺は補導員じゃないし、たとえ中学生がこんなとこで酒飲んでたからって、説教できるほどごりっぱな人生を歩んできたわけでもない。


 暇つぶしくらいにはなりそうだ。


「俺もちょうど、憂さ晴らししたかったところだし」


「あの、何か?」


 俺の独り言は聞こえなかったんだろう。華月ちゃんは、首をかしげる。


「なんでも。じゃ、行こうか」


「はい」


 俺が言うと、薄暗い繁華街にふさわしくないような晴れやかな笑顔で彼女は笑った。


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