三神見聞録

1²(一之二乗)

貴女へ

 ここは、どこだろうか。

 何やらふわふわした感覚が身体中を包んでいる。

 ゆっくりと目を開けてみると、植物園のように草花や木々が生えている空間が見えた。

 雲が揺れる緑色の空の下で、見下ろす形である。

 どうやら、空中に浮かんでいるらしい。

 未知の世界に踏み込んだという恐怖も感じず、なぜ浮いているのかという疑問も、あまり気にはならない。

 ここは、何だか嫌に落ち着く。おかしいくらいに。

 程よい太陽の光がそうするのか、心地よい風がそうするのか。

 日向ぼっこでもしたら、とても気持ちがいいだろう。

 そんなことを考えながら、不思議な空間を見渡していると、原っぱに人影を二つ見つけた。

 親子だろうか、小さい影と大きい影が一つずつ見えた。

 誰だろう。

 なぜか正体が気になり、移動していく人影を追いかけるように下降する。

 近づく途中で、小さい子は女の子で、大人の方は男性である事が分かった。父と娘の関係だろうか。

 そして、だいぶ近くまで行くと、二人の話し声が聞こえてきた。


「ついて来んな! あたしは出ていくからな!」


 どうやら、女の子の方はご立腹の様子である。親子喧嘩だろうか?


「まぁまぁ、これも何かの縁だよ。一先ず休んでいきなさいな」


 頭の中で情報の錯誤が起きた。

 明らかに親子ではない。まるで不審者と逃げ惑う子供だ。

 確かに、男性の方は綺麗な身なり、それも何だか昔の東アジアの宮廷に住む人のような格好をしているのに対し、女の子の方はボロ雑巾ではないかと見間違うくらい汚い一枚の布を首から下げ、腰にもそれと同じものを巻いていた。

 明らかに身分が違う。

 これだけ見ると、奴隷と貴族に見えるが、先ほどの言動から察するに、そんな単純な関係ではないのだろう。


「嫌だね! そう言ってきた奴ら全員あたしをいじめてきたんだ!」

 

 とても強気な女の子だが、その目には涙が浮かんでいた。とてつもなく嫌な経験をしてきたのだろう。


「大人なんて大嫌いだ! あたしは一人で生きるんだ!」


 女の子は、大粒の涙を流しながら、ずんずんと歩いていく。その一歩一歩から彼女の決意の固さが見て取れる。


「まぁまぁ」


 いつの間にか女の子の目の前に立っていた男性が彼女の頭をぽんと優しく叩いた。これには、こちらだけでなく、女の子の方も目を丸くしていた。

 何が起きたのだろうか? 今、瞬間移動したような。そんなわけあるだろうか。ただ姿を見失っていただけなのではないか?


「……ひっ!!」


 そんな事を考えていると、女の子は状況を理解したのだろう。腰を抜かしたのか、尻餅をついてしまった。

 そりゃ、逃げている相手が目の前にいきなり現れたら、腰も抜かすだろう。


「ご、ご、ごめ、ごめ……ごめんなさ、い、い」


 女の子は涙と汗、鼻水をだらだら流して、許しを乞うていた。

 

「あぁ、ごめんごめん。怖がらせてしまったかな。大丈夫大丈夫」


 男性がゆっくりと屈む。


「や、やめて……もう痛いの、やだ……!」


 余程のトラウマがあるのか、得体の知れない男性に恐怖を感じているのか、はたまたその両方か。女の子は失禁して震えていた。

 

「ちょ、ちょっと待ったぁ!」


 流石に見ていられなくなり、止めに入った。

 こちらとて、得体の知れないこの男性に恐怖を抱かない訳ではないが、ここで見てばかりなのは後味が悪い。というか正義感が許さない。


「大丈夫、痛くしないから」


 しかし、こちらの声など耳にも入っていない様子で男性は話し続ける。そこで

気づいた。

 自分の姿が、彼らには見えていないことに。

 思えば、とても近くにいたのに、二人ともこちらの方など見向きもしなかった。

 これでは、声が聞こえていないのも納得できる。

 という事は、これから女の子が乱暴されるところを傍観しなければならないのか。

 そんなこと出来ない。


「お、おい! おいって! おーいっ!!」


 必死に訴えかけるが状況は変わらない。

 最終手段で女の子と男性の間に割り込もうとするも、やはりというか、体が透けて通り抜けてしまった。


「……おや? 漏らしてしまったのか」


 男性が女の子の失禁に気づいた。


「うーん……仕方がない。失礼するよ」


 男性はそう言うと、あろうことか女の子の服を脱がし始めた。


「や、やめ……」


 女の子は恐怖で力が入らないのか、抵抗しない。


「大丈夫だよ」


 何が大丈夫なのだろうか。

 男性の肩を引っ張ってやりたいが、どうにも手がすり抜ける。

 あられもない姿になった女の子は恐怖で頭がおかしくなったのか、泣きながら笑い始めた。

 そしてついに。


「は、ははは……は…………」


 失神してしまった。


「おっと! 危ない危ない」

 

 気を失った女の子の頭が勢いよく地面に叩きつけられる前に、男性は優しく彼女の頭を支えた。

 

「あらら。気絶しちゃった。私ってそんなに怖いのか?」

 

 男性はそう言うと、女の子の尿が服につく事など気にもしない様子で、裸の彼女を抱っこして歩き始めた。

 何をする気か。

 ついて行こうにも、なぜだか体が動かない。

 そして、意識が遠のいていく。


「あ、れ?」






 目が覚めると、いきなり目の前に例の女の子と男性がいた。


「おわっ!?」


 思わず叫んでしまったが、彼らに気にした素振りはない。やはり、こちらの声は聞こえず、姿も見えていないようである。


「おい、髭! 見ろ、アケビだ!」


 女の子は木の枝にぶら下がる実を指差す。

 さっきの様子とは打って変わって元気そうである。

 服装も、清潔感のある動きやすそうな服を着ている。


「花は、アケビが好きだねぇ」


 男性は優しく微笑む。


「なんていったって、初めて食った美味いもんだからな!」


 果たして何があったら先ほどの状況からここまで仲良くなれるのか。

 あと、なぜ男性は髭が生えていないのに、「髭」と呼ばれているのか。

 考えれば考えるだけ疑問は浮かぶが、何故かそんな疑問も霧のように頭から消えていった。


「髭、届かない。肩かせ」


 「花」と呼ばれた女の子は背伸びしたりジャンプしたり頑張ったらしいが、背の高い木の枝に絡まっているアケビは女の子には少し高かったらしい。


「はいはい。……よし、どうぞ」


 男性、もとい「髭」は屈んで頭を下げた。その「髭」の首に女の子が跨ると、彼は女の子を支えながらゆっくりと立ち上がった。


「よし、届いた」


 女の子はアケビを一つずつ両手に取る。そして、右手に持ったそれの香りを嗅ぎ、とても幸せそうな顔をした。本当にこの実が好きらしい。


「いいぞ、おろせ」

「はいはい」


 「髭」が立ち上がったまま女の子を降ろすと、女の子が左手に持ったアケビをずいっと「髭」に差し出した。


「やる」


 「髭」は目を丸くした。


「……嬉しいねぇ。花も分け与える事を知ったんだ。偉い偉い」


 そう言いながら、「髭」は女の子の頭を撫でた。


「う、うるせぇ」


 女の子は、照れているのかそっぽを向いた。


「……いつまで撫でててんだ! 早く食え!」

「はいはい」

「けっ!」


 「髭」が女の子を撫でるのをやめると、彼女は乱暴にアケビを剥き、中身をガツガツと食べ出した。

 黒い種をぺっぺと口から飛ばしながら、とても美味しそうに食べている。

 ……なんだろうかこの微笑ましい状況は。

 恐怖で失禁していた女の子はどこいった?

 まぁ、でも、とりあえず幸せそうならよかった。


「ん? なんだ食べないのか?」


 アケビを食べ終わって、そこらへんに捨てた女の子は、「髭」が一向にアケビを口にしないことに気づいたらしい。


「ん? あぁ、記念にとっておこうかと思ってね」


 何を言っているのだろうか。

 こちらと同じ気持ちなのか、女の子もぽかんと口を開けて眉間に皺を寄せていた。


「食べなきゃ腐るだろ」


 当たりまえの事を、男性より明らかに知能が低そうな女の子が言った。


「大丈夫。私にかかればこれくらい、ずっと鮮度を保っていられるよ」

「でも」


 女の子はどこか悲しい表情をする。それは、頑張った事を褒めてもらえなかった子供の表情に似ていた。

 なんとなく気持ちは察する事ができる。

 女の子は、「髭」にアケビを食べて欲しかったんだろう。

 喜びを共有したかったんだろう。


「……いい」

「ん? どうしたんだい? 暗い顔をして」

「いいっ!」


 女の子はそう言い残して、どこかへ走り去ってしまった。

 

「んん? あーなるほど。やってしまったねぇ」


 「髭」は何か腑に落ちた様子で女の子の走っていった方を見る。


「これは、ご機嫌取りに骨が折れそうだ」


 「髭」がそう言うと、また目の前が真っ暗になった。






 

 今度の場所はどこだろうか。家の中のように見えるが。それもとても広い家だ。

 家? これは、屋敷と言うべきだろうか。


「待てー!」


 子供の声が聞こえた。左の方からだ。

 声の方向を向くと、開いていた障子から縁側を通して広い庭が見えた。

 縁側には女性と男性が座っている。


「捕まえた!」


 庭で、子供が別の子供の事を後ろから抱きしめた。


「捕まったぁ……」


 抱きしめられた子供はしょんぼりと呟いた。


「お兄ちゃんが熊さんね!」


 すると、また別の子供が元気に言った。

 そして、きゃっきゃ言いながら、走り始めた。

 鬼ごっこでもしているのだろうか。

 熊さんと言っていたから違うかも知れないが、追いかけっこなのは間違い無さそうである。


「元気ねぇ」


 縁側の女性が喋った。

 お淑やかな雰囲気を漂わせる女性は、喋り方からも優しさを感じる。


「花も小さい頃はこれくらい元気だったなぁ」


 ……聞き間違いだろうか。先ほどの女の子が呼ばれていた名前を言ったような。


「そうだったっけ? 生きるのに必死だっただけだと思うけど」

「はは、そうかもしれないねぇ」


 男性の声は、先ほどの「髭」と同じである。喋り方も似ている、というか同じだ。


「涅は、変わらないわね。……見た目も」


 涅? この男性は「髭」ではなかっただろうか。

 まぁ、それは置いておくにしても、女性はどうしてこんなに悲しそうに喋るのだろうか。


「褒め言葉かい?」

「分かってるでしょ」


 花という、あの女の子かもしれない女性は、ジト目で男性を見つめた。その横顔はとびきりに美人であったがどこか憂いを帯びている。


「……私は、消え時を見失っているだけさ」


 男性は、少し顔を上げて、ため息を吐くかのように言葉を紡いだ。


「だったら、私がいなくなっても後を追っちゃダメよ?」


 いなくなる。それは、恐らくこの世からと言う事だろう。


「悲しいなぁ。本気でそう思ってるのかい?」

「分からないわ」


 女性も男性と同じように少しだけ上を向いた。


「でもね。あなたの、生き続けるあなたの長い長い時間の中の、ほんの一瞬でも、あなたの記憶に残れるのなら、私はいつしん」

「その話は、子供たちが大きくなってからでも遅くはないよ」


 男性は女性の話を遮った。


「それに今この時は私にとって一瞬じゃない。いや、一瞬のように過ぎ去っていく楽しい毎日だが、永遠と続いて欲しい毎日さ。長い時間には慣れてる」

「……私は、永遠に一緒にいるのはちょっときついかな?」

「あらら」

「ふふ、うそうそ。ただ想像が出来ないだけ」


 女性は悪戯っぽく笑った。

 

「……永遠ねー。普通の人の私には、理解が及ばないわ」

「分かる日が来るさ」

「分かるかしらねぇ。だって私は一生普通の人だもの」

「……そうだったねぇ」

 

 男性は寂しそうに言葉を漏らす。

 なんだかしんみりとした空気になってしまった。

 聞いているこちらまで考えさせられる内容であった。

 永遠を生きる男性。一瞬を生きる女性。

 ……男性の方は人間ではないのだろうか。確かに人間離れした言動であるが。そういえば瞬間移動もしていた気が。

 そんな疑問もいつの間にか霧散していった。


母様ははさま! 父様ちちさま! 来て来て! アケビがなってたの!」


 しんみりムードをいい意味でぶち壊してくれたのは、遊んでいた子供だった。


「あら、そうなの! 分かった、すぐ行くから先に行っててちょうだい?」

「うん! すぐ来てね!」


 子供は元気に走って行った。


「……なんだか子供の顔見たら、馬鹿らしくなっちゃった」

「はは、それはよかった、かな?」


 女性も元気を取り戻したのか、いきなり立ち上がった。


「そういえば覚えてる? 涅に初めてアケビを渡した時の事」


 女性は振り向いて男性に向かって話しだした。


「あなたったら、せっかくあげたアケビを食べなかったのよ? あたし……私がどれだけ悲しかったか分かる?」

「そのアケビなら、まだしまってあるよ」

「ばか! そんなの早くすてなさい! いや、食べなさい!」

「まぁまぁ」

「子供たちからもらったら、その場でいっしょに食べるのよ! わかった!?」

「はいはい」

「はい、は一回!」


 女性はそう言って、とてつもないスピードで子供たちの方へ走って行った。

 

「……はは、君も変わらないじゃないか、花」


 男性は、子供たちと混ざり木登りする女性を見て、しみじみと言った。

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