28,いのちの緑地

 屋外へ出た途端に全身を覆う真夏のムワッとした熱気にも慣れた頃、僕と水城先輩は裏道の住宅街を西陽へ向かって進んでいる。浴衣着用の割に水城先輩の歩調はいつもと同じで、無理をさせていないかと心配した僕が敢えて速度を緩め彼女の一歩後ろに付くとそのまま引き離されたので速歩きはせず通常の歩行速度で追いかけた。


 普段は自転車の多い裏道だが、今夜は花火大会とあって、歩いて海岸へ向かう親子連れとよく擦れ違う。市民が集う海岸は先ほどのカフェのすぐ東側にある十字路を南に進み、僕らが通う学校前の歩道橋を渡る。


 僕らは今回、大騎や鶴嶺さんとは市民と観光客が入り混じる西側の海水浴場にある『茅ヶ崎サザンC』というモニュメントの前で待ち合わせをする約束なので、現在進行中の方向は好都合だ。


 そうか、わかったぞ。水城先輩が向かっているのは図書館だ。図書館の二階には学習室があり、落ち着いた環境が整えられている。図書館を出て南へ進み、地元出身のバンド、サザンオールスターズがライブを行った野球場のある公園を抜け国道に出れば待ち合わせ場所へ辿り着く。なんと効率的な行路だろう。さすが水城先輩! 相変わらずふわふわしているようできっちり計算している!


 ところが……。


「あの、図書館は?」


 十数分後、駅前通りを横断し、そのまましばらく進んで狭い一方通行の交差点を左折し図書館前に到達するも華麗にスルーした水城先輩。


「図書館? 借りたい本でもあるの?」


 と問う水城先輩に、図書館で勉強する気はないのだろう。


「いえ、なんでもないです」


 と僕はそのまま彼女に付いてゆく。まさか花火大会前の騒がしい海岸で勉強を?


 そう思った正にその瞬間、水城先輩は海へ向かう人々の流れから抜け出し松林を貫く道へ左折。少し進んで塗装も加工もされていないナチュラルな木の柱で組まれた狭い門をくぐった。


 いやいやちょっと待って。ここって雰囲気からして和風の豪邸では? 邸宅まで50メートルくらいあるし、梅の木が数十本生えて無数の実が転がっていて、ハスを浮かべた池まである。もしかして水城先輩、僕に勉学の匠でも紹介してくれる気か?


 そう焦っていると、水城先輩は池の水際にあるいびつな石の長椅子へおもむろに腰を下ろした。これも上薬うわぐすりなどの加工はされておらず、自然な鼠色ねずみいろだ。


「あの、ここ他所の家じゃ……」


「ううん、市が管理してる緑地だよ。ここに来るとなんか落ち着くんだぁ」


 ずっとこの街に住んでいるのにこんな場所があるなんて知らなかった。たった今まで図書館を湾状に囲う雑木林と思っていた。図書館の裏手はガラス張りになっていて、その向こうには雑木林が広がっている。


 確かに、街の喧騒から外れ、学校付近の洋風な景観とも大きく異なる和の空間。イタリアンな飲食店やレンガ造りの古城のような住宅が建つ外国文化が盛んな茅ヶ崎の海側で、こういった場所は希少だ。しかし中学校での地理の授業によると、ほんの十数年前までは道路や空き地などあちこちに松が生い茂っていたという。元々は和の色の濃い地域なのだ。


 緑地内は街の中とは思えないくらい人気ひとけがなく、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシの不協和音だらけだけど心地良い合唱が響き渡り、池では水面近くまで上がって来た魚がチャポンって水音をたてて、5メートルほど上では木立に切り取られた霞みがかった空を背景に大きなトンボがルンルンゆっくり飛び回っている。少し遠くにカラスの声も聞こえて、のんびりした田舎の夕方のようだ。


「都市部の緑地って、新宿御苑しんじゅくぎょえんとか皇居とか、関東だと都内の中心部にしかないと思ってました」


「そうなんだ。でも案外色んな街にあるのかも。こういう場所、ずっと残っててほしいな」


 水城先輩はどこか寂しそうに、数メートル先、アメンボの平泳ぎで発生する水面の波紋の辺りに視線を向けている。頬杖をついて前屈みになっているため、浴衣がはだけて露出する谷間に気付いた僕は、不埒ふらちな気を悟られぬよう、自らの太ももの間に視線を落とす。


 お、数匹の黒アリがそそくさと無造作に歩いている。


 おもむろに立ち上がった水城先輩に続き、池の北側にある人工の小川に沿って十メートルほど歩くと、滝と呼ぶには違和感のある、水がちょろちょろ流れ落ちる岩場に着いた。図書館裏の雑木林と繋がっていて、鬱蒼としている。ひょっとしたらこの緑地は天然の沢を庭園にして保存しているのかもしれない。


「ほら、見て、あそこ」


 水城先輩が指差した一メートルほど先には、滝壺の上をホバリングする黒と黄色の縞模様の大きなトンボがホバリングしている。トンボは滝壺から僅かに逸れ、湿った土に着地するとすぐ小刻みに翅を震わせ、何かを探るようにモゾモゾと尻尾を押し当て始めた。その懸命なさまは、昆虫に詳しくない僕でも感じ取れた。


「何、してるんですかね」


 未知の光景に息を殺して見入っていた僕は、トンボから視線を逸らさず問う。


「あのトンボさん、ヤブヤンマっていって、土の中に卵を埋め込んでるんだよ。幼虫が孵化すると自力でぴょんぴょん跳ねて水たまりに飛び込むの」


 ぐぅ、ぐうぅと、一心不乱に次の世代のバトンを埋め込む手のひらほどの小さな命。黄緑色に艶めく複眼は、正に命の輝きを体現している。トンボだけではない。周囲に響くセミの合唱も、足元のアリも、すべてが命の営みだ。こんなこと、学校では教わらなかった水城先輩と交流しなければ、きっと僕はずっと知る機会などなかっただろう。


 水城先輩は暑苦しさが定評の元プロテニスプレイヤーのように両手を握りながら前後にからだを揺らしている。がんばれ、がんばれと、ヤブヤンマにエールを送っているのだろう。


 気まぐれに癒しスポットを歩いているように見えるけど、きっとこれが水城先輩の授業なのだ。


「さて、そろそろ勉強しようか!」


「え?」


 思わず聞き返す。勉強するの? 課外授業が今回の学習じゃなかったのかと、混乱が生じる脳内。ヤブヤンマが産卵を終えた数分後、石の長椅子へ戻って暫し勉強タイムとなった。

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