9,心やすらぐひととき、ざわめく心
「お疲れさま。今日も一緒にご飯食べて帰る?」
21時。塾が終わり、アーケードに面した三階建ての雑居ビルを出て夜の黄色っぽい街灯りに少し目を細めたとき、背後から鶴嶺さんに声をかけられた。鶴嶺さんも僕も両親共働きで、一緒にご飯を食べると寂しさが紛れるのか、塾帰りは心なしか普段より表情が柔らかい。「うん、そうだね」と返事をして、二人並んで歩き出す。
数分後、僕と鶴嶺さんは駅ビルのそばにある和食チェーンに入った。鶴嶺さんとの食事は決まってここだ。今日は揃ってほかほかのお米と味噌汁、
待つこと15分、二人がけの席で向かい合う僕らのもとに料理が運ばれてきた。夕飯時のピークは越えたものの、まだ店内はがやがや賑わっていて、テーブルとカウンターそれぞれ六割程度の席が埋まっている。
手を合わせ、いただきますと言って、二人揃って味噌汁から手を付ける。この一口が一日の疲れを一時的に忘れさせてくれる。一日のなかで何も考えない、ほんの数秒間。暖色の照明が照らす店内で少し上を向き、意識が少し遠退いて、前に向き直って鼻から息を吐く。
左隣でそれを見ていた鶴嶺さんが右手を鼻に当てて「ふふふ」と微笑した。何か可笑しかっただろうか。
◇◇◇
「お疲れさま。あまり無理しちゃだめよ?」
「ありがとう。疲れてるように見えた?」
「えぇ。でも、いつもお味噌汁を一口呑むとホッとした顔をするから、このときだけは安心するの」
つい滝沢くんを覗き見てしまう私の表情は、きっと鏡では見られないほど安堵に緩んでいる。だから人見知りの望くんは視線を少し右下に逸らし、歯切れ悪く「ははは」と小さく笑んだのだろう。
まるで、私が私ではないみたい。
滝沢くんは勉強熱心で、私の良きライバル。将来の目標が決まらないといって憂いている彼を見ていると、鎮めようのないくらい物悲しくなり、目元に涙が溜まる。もっと心配すべきは医者を目指しながら高校受験に失敗し、滑り止めの高校に入学してでさえトップに立てない無能な私自身であるとは理解しているのに、いつの間にか自分のことより彼のことを大きく捉えるようになってしまった。滝沢くんがお味噌汁でホッとしている一方で、私は胸がざわついて食事がなかなか喉を通らない。滝沢くんと一緒に食事をするときは、彼が先にメニューを選択して、同じものを注文してしまう。
きっとこれは、既にスタートから出遅れている私が抱いてはいけない感情。余計なことに
わかっているのに。わかっているのに……。
どうして? いつからこんな感情を抱くようになってしまったの? きっと大切にしなければならない初めての感覚は、どうして目標を達成するまで待てなかったの?
きっとこれは、私の心に隙のある証拠。もっと勉強に集中して、最低でも成績は学年トップを常時キープできるくらいにならないと、生きる道を見失ってしまう。
滝沢くんは良きライバル。滝沢くんは良きライバル……。
そう心に言い聞かせながら、私は温かいほうじ茶を一口含んだ。
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