12月23日(木)

12月23日(木)。

 

 死ぬ前にもう一度会っておきたい人がいる。斎藤先輩だ。大学時代の研究室の先輩だ。最初は先輩だったのだが、先輩が留年しまくったせいで、オレと同期になり、しまいにはオレのほうが先に卒業することになった。正真正銘、残念な先輩なのだが、オレは先輩を尊敬していた。何かにつけて独自の考え、価値観を持っていた。

 

ある夏の日のことである。オレは先輩に就活の愚痴を言っていた。オレは就職活動をしていたのだが、全然ダメだった。オレの所属する大学は国公立の有名大学だった。そのため就活でも通用する自信があったのだが、結果は苦しかった。大学は素晴らしいが、オレ個人は能無しだったからだ。分かってはいたのだが、事実を突きつけられるのは苦しかった。当然のことだ。大学に入ってから5年間、オレは社会的に有用な人材になる努力を何一つしてこなかった。大学に入ってからコツコツ努力してきた人間との差は大きかった。オレに誇れるものは大学名だけだった。

先輩は自前のコーヒーサイフォンでコーヒーをいれていた。オレは先輩に話しかけて近況を報告した。

「他の奴ら、みんなすごいんですよ。留学したとか、学会で賞をもらったとか、部活で成績残したとか・・・オレはダメですわ。何もしてこなかったし、何もできないっすからね」

「そうか」

先輩はコーヒーを味わっている。

「つらいってのは聞いてましたけど、本当につらいっすね。自分の価値を突きつけられるんすよね。オレはダメですわ。虫けらっすよ。もはやね」

 オレはため息をつく。

「虫けらか」

 先輩はいすに座って話始めた。

「この前な、台所にうじ虫がわいたんや。三角コーナーっていうのあるやろ?あそこに生ごみを捨てて、ほったらかしてたんや。そしたらウジ虫が大量にわいてたんや」

 先輩はコーヒーを一口飲んでから、話を続けた。

「気持ち悪いから、すぐに全部洗い流したんや。生ごみも全部捨てた。それでホッとしてから、何気なく目の前の壁を見たらさ、うじが壁を這い上がっとるんや。5匹ぐらいやったけどな、一番高いところにいた奴はオレが手を伸ばしても届かん高さまで登ってたな」

 オレは黙って聞いていた。

「その時に思ったんや。ウジ虫でも上り詰めるやつは上り詰める」

 先輩は少し間をおいてから言った。

「そんでもってハエになる」

 オレは笑った。

「何すかそれ?」

「オレもお前も虫けらかもしれへんけど、虫けらでも登っていけば、ある程度高いところまでいけるんだよ。だからさ、今からでもぼちぼち頑張ればそれなりになれるかもって話や」

「そうですかね」

「まあ、壁に登ってたやつらも一匹残らず始末したけどな」

 先輩は笑いながら言った。

「結局ですか。見逃しましょうよ、そこは」

「あほか。ハエになったらうっとおしいやろ」

「そりゃそうですけどね」

「まあ、がんばれや」

 そう言うと、先輩は研究室のパソコンで映画を見始めた。



 研究室に入る前から先輩とは知り合いだった。ある場所で出会った。キックボクシングジムである。オレはスポーツは苦手なのだが、小学校の時に空手をやっていたので格闘技には親しみがあった。もろもろのストレスを解消するために運動することにしたオレは、大学近くのキックボクシングジムの体験練習に行くことにした。

特に変わったことのない体験練習だったのだが、一人だけ気になる人物がいた。その人は短髪、180cmぐらいの長身で、外からでも十分にわかるほどガタイの良い男だった。彼はひたすらにサンドバッグを打っていた。サンドバッグが爆音を奏でている。オレだけではなく、周りの人も彼の練習風景に注目していた。ピピッとタイマーの音が鳴り、爆音が止む。彼は荷物棚に行き、ドリンクを飲んだ。その後、座ってストレッチを始めた。オレの視線に気づいたのか、一瞬こちらをみた。色白の端正な顔立ちだった。これが先輩とのファーストコンタクトとなった。オレとは相容れない人だと思った。住む世界が違うだろうと思っていた。しかしながら、不可解なことに先輩はこちら側の住人だった。それも、オレ以上にこちら側の住人だった。

オレと先輩との間に交流ができるようになるのはもうしばらく後のことだった。

ジムでのトレーニングには2種類ある。決まった時間に開催されるトレーナーによる講習と、個々人の自主トレーニングである。講習の時には会員が二人一組になって、一人がミットを持ち、もう一人が練習する。それを交代しながら行う。

ある日、オレは先輩と組になった。ハイキックの練習でオレがミットを持っていたのだが、事件が起きた。情けない話だ。先輩の蹴りが強すぎて、オレはミットを持っていた自分の腕で顔面を強打し、鼻血をだした。後できいた話では、あるある事例とのことだが、鼻血までだしたのはオレが初めてだったそうだ。

この件がきっかけでオレは先輩と話すようになった。オレのダメダメさを知った先輩がオレに色々と指導してくれるようになったのだ。最初のころはしっかりした先輩という感じを出していたのだが、オレに気を許してきたのか、だんだんと残念な部分をのぞかせるようになってきた。具体的に言うと下ネタが多くなってきた。ジムには女性会員も思いの外多い。日によって変わるが、平均で3割程度は女性だった。20代、30代の若い人も多かった。公表はしないが、先輩はこれらの女性会員をネタにどぎつい下ネタを連発していた。もちろんオレと二人の時だけだが。

オレは半分呆れながら先輩の下ネタを聞いていたのだが、不思議に思うこともあった。先輩はモテるのだ。ジム内での女性人気は明らかに高く、先輩がその気にさえなれば先輩がオレに語る妄想話も実現可能に思えた。そしてとうとうそれが現実に起こった。

オレと同じ大学の女の子がいた。佐藤さんといった。オレより後に入会した女子である。文句なしに可愛い子だった。先輩の妄想話でも頻繫に登場するようになった。いつもであれば馬鹿話で済むのだが、佐藤さんの場合、それで済まなかった。佐藤さんから先輩に猛烈なアプローチがかかったのである。誰の目にも明らかなほど佐藤さんは積極的に先輩に近づいた。

オレはその様子を間近でみていたので、ある日先輩に言った。

「冗談が冗談じゃなくなるパターンのやつですね」

 ここは更衣室で先輩とオレの二人だけだ。

「何がだよ?」

「佐藤さんですよ。さすがにわかるでしょ?佐藤さん、あんなに頑張って先輩と話そうとしてるじゃないですか」

 先輩は黙って聞いている。

「はっきり言いますけど、佐藤さんは先輩のこと好きなんだと思いますよ。先輩もさすがに気づいてるでしょ?」

 先輩は勢いよくロッカーの扉を閉めた。

「しょうもないこと言うな」

 それだけ言って、先輩は更衣室を出ていった。


 それから間もなくのことだ。佐藤さんがジムを退会した。誰も理由は知らないそうだ。ただ、オレにはなんとなく理由がわかった。

 ジムの帰り道、先輩と並んで帰っているときに聞いてみた。

「先輩、佐藤さんのこと・・・フッたんですか?」

 先輩は黙ったまま歩き続ける。オレは先輩からの返事を待っていたが先輩は何も言わない。

「言いたくなかったらいいですよ。他人に言いたいような話じゃないっすもんね」

 オレはそう言って口をとめた。

「何でそう思う?」

 先輩が口を開いた。

「辞める理由なんていくらでもあるやろ?」

「そうですね。でも分かりますよ。先輩、佐藤さんの話になるとあからさまに話を逸らすじゃないですか?悪いですけど、何かあったのバレバレですよ」

「探偵かよ」

 オレは笑った。

「探偵じゃなくても分かりますよ。オレ以外でも、薄々気付いてる人はいるんじゃないですかね?」

 先輩は黙った。

「言いたくないなら、本当にいいっすよ。すいません・・・でも気になって。あんなにいい子なのになって思って」

「たしかにな」

「先輩、彼女いないって言ってましたよね?あれ、ウソだとか?」

「いや、ホンマやで。彼女はおらん」

 じゃあなんで?と聞きたかったが、我慢した。

 またしばらく、先輩は黙った。オレも黙っていた。そして先輩がオレに言った。

「松谷、お前・・・大事なもんってあるか?」

 急な質問にオレは戸惑った。

「大事なものですか?」

 先輩は答えない。

「そうですね。急に聞かれると難しいっすね」

「オレには大事なもんがないんや」

 オレは先輩の方を向く。先輩はうつむいていた。

「大事なもんがなくて、捨てられへんもんもない。いや・・・大事なもんがないからこそ、捨てられへんもんもないんやな」

 ウソだと思った。そんな人はいない。オレは言った。

「さすがに何かあるでしょ?家族とか趣味の何かとか、思い出とか。誰でも何か絶対に持ってるはずでしょ?」

オレは続けて言った。

「じゃないと人は生きられないでしょ?」

オレの言葉を聞いた先輩は驚いたという表情でこちらを向いて、オレの目を見た。しばし目が合う。ふっと笑ってからまた前を向き、先輩は言った。

「その通りやな。なんもないっていうのはウソやな」

 一瞬、間があってから先輩は続けた。

「ウソっていうか・・・理想やな。オレの理想。大事なもんなんか何も持っていたくないっていうオレの理想」

 オレは先輩の言葉の意味が分からなった。先輩は続ける。

「もし、佐藤さんと付き合い始めたとしたら、彼女はオレにとって大事なもんになる・・・それが嫌やったんや。オレは大事なもんをつくりたくないんや」

 オレは黙って聞いていた。先輩が続ける。

「オレはいつでも逃げ出せるようにしたい。つらくなったり、苦しくなったら、いつでもすぐに何もかもほったらかして逃げ出したい。でも大事なもんがあったら、それができん・・・守らなあかんやろ?逃げられへん。大事なもんをほって逃げたら余計つらくなるやろ?それが嫌やねん」

「大事なもんを失いたくないってことですか?みんな同じですよ。みんなそう思ってます。でも大事なものを持たずに生きるのもつらいでしょう?みんな何かしら持ってるのに、自分にだけないなんて悲しいでしょう?」

 オレの言葉に先輩がすぐに答える。

「人にとって一番つらいことってさ、自分じゃどうしたって捨てられないものを、他の何かしらのせいで捨てられてまうことなん違うか?嫁さんや子供を事故でなくしたり、洪水で家を流されたり。人にとってつらいことが起こる理由は、大事なもんがあるせいやろ?最初から持ってなかったらええんや。人は絶対にいつか死ぬんやで?どんだけ大事なもんいっぱい持っとっても、いつか必ず失うんやで?」

 一呼吸おいて先輩は続ける。

「嫌なんや。オレは嫌なんや。何でみんな平気なんか分からへん。オレは作らへん・・・大事なもんを持たへん・・・そう決めとるんや」

 オレは黙って聞いていた。先輩もオレもその後ずっと黙ったまま歩き続けた。

 この日、初めてオレは先輩を知った。


 大学院を出て以来、先輩とは会っていない。今どうしているのだろうか?大学院は卒業したのだろうか?

 オレは先輩と会うことに決めた。LINEのアドレスは知っているのだが、ずっと前に送ったメッセージにも既読がついていない。SNSから連絡をとるのは早々にあきらめた。次に大学の研究室に行ってみることにした。秘書さんがいるので話を聞けば就職先ぐらいは分かると思った。

 卒業してから5年経つが大学内はほとんど変わっていなかった。研究室も相変わらず雑然としていた。部屋にいたのは秘書さんと学生だけだった。斎藤先輩の使っていた机には別の学生が座っていた。どうやら先輩は研究室を出たらしいことは分かった。オレはあいさつもそこそこに先輩のことを秘書さんに尋ねた。

「斎藤さんですか・・・」

 秘書さんは困ったような表情を浮かべている。言葉に悩んでいるようだ。

「大した用事じゃないんですけど、久しぶりに先輩に会いたくて。でもLINEの返事もないし、困ってて、それでここに来たんですよ。引っ越し先とかまでは分からなくても就職先ぐらいだったら分かりますよね?」

 オレは正直に訪問理由を述べた。

「あの・・・」

 秘書さんはゆっくりと言った。

「斎藤さんは亡くなりましたよ。2年前に」


 オレは今、斎藤先輩の実家に来ている。時刻は夕方18時。住所は秘書さんから教えてもらった。大学からそう遠くなかったので、そのままこちらに来た。なぜここまで来たのかは分からない。仏壇に線香の一本でもあげたいからと、秘書さんには説明した。しかしそんな理由ではない。衝動があった。ここへ来ることに迷いはなかった。オレはインターホンを押した。数秒の後に女性の声が聞こえた。

「はい。斎藤ですが」

 先輩のお母さんだろうか?

「夜分に失礼します。あの、私、松谷と申しまして、斎藤勉さんの大学の後輩です」

 オレはなるべく丁寧にはっきりと話した。

「勉さんには大学時代にとてもお世話になりました」

 言葉を続ける。

「あの、あの、すいません。あの、勉さんが・・・その・・・亡くなったと聞いて、オレ、勉さんに・・・その・・・」

 そこまでが限界だった。これ以上話続けられそうもなかった。

その事実を自分の言葉にした、その時に、オレは本当の意味でそれを理解した。

目に必死で力を入れたが次から次に涙がこぼれてきた。

オレが何も話せないまま玄関前に立ち伏していると、ドアがガラガラと開き、中から50代ぐらいの女性が優しい表情をして現れた。

「松谷優作さんですよね?」

 オレは眼鏡をはずし、服の袖で涙をぬぐった。そして彼女の目を見て話す。

「僕の名前をご存じなんですか?」

 先輩のお母さんの目も涙でうるんでいた。

「ええ。さあ上がって。勉も喜ぶから」

 オレは彼女に案内され、家の中に入った。家の中の座敷に先輩の仏壇があった。オレは線香とろうそくに火をつけ供えた。そして先輩の遺影を見つめていた。しばらくして、先輩のお母さんがお茶を持ってきてくれた。オレはお礼を言う。彼女はオレの隣に座った。そして一枚の封筒を取り出し、オレに渡した。

「これね、勉からあなたに」

 オレは封筒を受け取った。

「急にね、届いたの。勉がいなくなった次の日にね。私たちへの手紙と一緒に入ってたの。会いに来ないかもしれないけど、もしオレに会いにきたら渡してくれって書いてあってね」

 オレは黙って聞いていた。

「でもよかった。来てくれて、本当に、ありがとう。あんな子のために来てくれて、本当にありがとう」

 彼女はオレの手をとって泣いた。堰が切れたように泣き続けた。オレのせいで思い出してしまったのかもしれない。先輩のことを。オレは泣き続ける彼女をただ見つめるだけだった。

 彼女が少し落ち着いたのを見て、オレは聞いた。

「先輩、ハガキを使ったんですね?」

 彼女は仏壇の方を向いて先輩の遺影を眺めた。そしてゆっくりうなずく。

「そうみたい」

しばしの沈黙の後、彼女は話始めた。

「昔から変わった子だったの。あんまり友達もいなくてね。一人でいるのが好きみたいで。田んぼで大の字になって寝てたり、一人で山の中に入って、蜂に刺されて帰ってきたりね」

 彼女はため息をついた。

「何を考えているのかよく分からない子だった。でもね、優しい子だったのよ。捨て犬を拾ってきてね、その子がすごく吠えたり噛んだりするの。お父さんも私も捨ててきなさいって言ったんだけど、勉はね、一生懸命に世話するの。そうしたら、だんだんと落ち着いてきてね、吠えなくなって、人を噛まなくなった。それで近所の人みんなに可愛がられるようになってね、勉も喜んでた」

 昔を懐かしんでいるようだった。ずっと遺影を見つめている。

「何でかねえ」

 誰に向けた言葉でもなかった。

「何でなんだろうねえ」

 彼女は続ける。

「生きてりゃ、そりゃ、嫌なことの一つや二つあるだろうけど、あの子に限ってそんなに悩むようなことなんてないと思ってた。ずっといつも通りだったのに。最後に見たときだって、いつもと変わんないと思ってたのに。何でなんだろうねえ」

 彼女の言葉はそこで止まった。オレは思い切って、話してみることにした。

「前に先輩に言われたことがあるんです。『オレは大切なものを持ちたくない、捨てられるものだけでいい』って。先輩は普通の人と違ってたけど、でも自分の考えにはいつも真っ直ぐでした。もしかしたら先輩は、自分のことも大切じゃなくしたいと思ってたのかもしれないです」

 彼女はオレを見ていた。オレは続けた。

「言われた時はよく分からなかったんですけど、でも今は分かるんです。自分が大切にするものがあると辛いっていうのが・・・。守らないといけないじゃないですか、大切なものを、その価値を、その意味を守らないといけない。でもそれってすごく難しいんです。社会の中じゃ、価値や意味を守るのがすごく難しいんです。すぐに空しくなってくる。すぐに自分が間違ってる気がしてくる。自分を信じられなくなる。もし、自分が今、大切にしているものが、本当はゴミ同然だったら?とか考えるんです。考えれば考えるほど不安になるんです。それならいっそのこと、全部捨ててしまいたくなる」

 オレはうつむいたまま続ける。

「先輩もそうだったのかなって、今は思うんです」

 沈黙。彼女から返事はない。オレはずっとうつむいていた。しばらくしてから彼女がぽつりと言った。

「そっか」


 それっきり、言葉が途絶えた。オレは何も話せなかったし、彼女も黙って、何かを考えているようだった。

 しばらくしてから、オレはお暇することにした。彼女は玄関まで見送ってくれた。

「すいませんでした。こんな時間にお邪魔して・・・」

 オレは言った。

「いいんですよ。こちらこそ、わざわざこんな所まで来てくれて、本当にありがとうございました」

 彼女は言った。またしばらく沈黙。そしてオレが別れの言葉を言おうとした時に彼女が話始めた。

「さっきの話、大切なものなんてない方がいいって話ね」

 彼女はオレの胸のあたりを見て話す。

「私も何となく分かるの。そうかもしれないなって・・・でもね・・・でも・・・」

 彼女は目線を上げて、オレの目をみた。

「区別なんてしなくてもいいんじゃないかな?これが大切で、あれは大切じゃないみたいに、そんな区別をしなくていいんじゃないかな?」

 オレは黙って彼女の言葉を聞く。

「私にとってはね、みんな大切だったのよ・・・たぶん。何気ないことも、何気ない時間も、みんな大切だった。家族でTVをみたり、一緒にご飯食べたり、犬の散歩したり、たまに電話で話したり、たまには口喧嘩もしたり・・・なんてことない何気ないことがみんな大切だった気がするの」

 優しい表情だった。昔を思い出しているようだった。

「だからね、私は区別しなくてもいいと思うの。大切なもの、大切でないものの区別。そんなことできないと思う。きっとね・・・きっと・・・全然記憶に残ってないような、全然思い出せないような・・・なんてことないことだって、すごく大切なんだよ。私たちが気付いてることだけじゃなくてね、全然気づいてないことの中にだって大切なものがたくさんあるのよ、きっと。だからね・・・だから」

 彼女はオレの目を見て言った。


「あなたはちゃんと気づいてね」



 駅のホームに着いた。ほどほどに田舎の駅で、夜になるとホームに人の気配はない。電車は一時間に一本で、先ほどオレの目の前を通過したばかりだ。オレはホームにあるベンチに腰掛けた。空を見上げる。月がきれいだった。空に浮かぶ雲がはっきり見えた。

 オレは先輩からの封筒を開けた。中にはA4の紙が二枚、折りたたまれて入っていた。オレはゆっくりそれを開く。



松谷へ


 この手紙を受け取ってくれてありがとう。わざわざ会いにきてくれたんだな。お前がオレと何を話そうとしたのかは知らないが、悪いけどオレはもういないと思う。この世界にいないと思う。「何で?」って思ってるか?「何で生きるのをやめたのか?」実はオレにもよく分からない。明確な理由があって死ぬわけじゃないんだ。

 お前には色々なことを話したよな?大事なものの話、人が生きることの意味、オレが生きていることの意味、社会の中で生きていくということ、人間世界の在り方、人と動物の違い、愛とは何か・・・色々なことを話したよな?くだらない話ばっかだったけど、お前は真剣に聞いてくれた。たぶんな、お前に話したことの一つ一つが積み重なって、今、オレが死ぬ理由になったんだと思う。だからな、本当にさ、明確な理由なんてないんだよ。

 それにさ、人が死ぬのに理由なんていらない気がするんだ。老衰ってあるだろ?あれと同じだよ。心の老衰みたいなのもあると思うんだ。体よりも先に、心にガタがきちまうんだよ。オレはそんな感じだ。後悔とかはないんやぞ。色々なことを考えれたし、オレの心は色々なことを感じてくれた。お前が話を聞いてくれた。自分でも不思議なんだ。死ぬ前にはもっと色々なことを後悔すると思ってた。もっと違う人生があったかもとか、あの時あれしとけばとか、オレに生まれてこなかったらとか、そんな後悔をすると思ってた。けど全然ないんだ。すごく落ち着いてる。心がな、もう十分だって言ってる気がする。親父とお袋には悪いけど、もういいって思えるんだ。オレの体はまだ動き足りないっていうかもしれんけど、オレはもういい。もう十分だって思える。

 松谷、お前はどうだ?お前も、もう十分だって思うか?後悔しないか?

 お前はオレに似てたよな?オレの考えがお前にはいつもなんとなく分かっただろ?お前に色々なことを話せたのは、お前がオレに似てたからだと思う。お前なら分かってくれる気がしてた。お前になら伝わる気がした。オレはお前に救われてたのかもな。オレが今、後悔していないのもお前のおかげかもしれない。

オレはお前がいてくれたから死ねるのかもな。


でもな 松谷


お前は死ぬな


オレは死ぬけど、お前は死ぬな


オレとお前は似てる けど 違う


お前は死ぬな


この手紙を書いた理由はな 本当言うとこれだけなんだ


これを言いたかっただけなんだ


分かるか?


オレが何でこんなことを言うのか


お前に分かるか?

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