ジャシン

三浦周

ジャシン

 邪心。


 よこしまな心と書いて、邪心。そのような感情を僕は嫌っていた。


 何故なら、それは書いて字が如しというわけで、辞典を引けばわかるのだけど、悪い心、不正であるとされた概念だからだ。


 もしも、それが僕の中に存在するとしたのなら、それがたまらなく怖いってだけ──




「A先生は、すごいの。とってもとってもすごいのよ」


 目の前の女が力説する。この女は中学の時のクラスメイトで、それから10年間連絡もしていない。そんな関係だった。


 辛うじて、交換していたメールアドレスから、


『元気にしてる?』


 なんて届いたものだから、僕は暇潰しになるだろうなんて言い訳をしながら、多分な高揚を胸に秘めてここに来たということだ。


 居酒屋に入って30分くらいは、僕も彼女も思い出話や近況報告に花を咲かせていた。成長して、ちょっと幼めな化粧をした彼女を少しだけ可愛いと思ったり、それなりに楽しかった。


 だから、彼女が最近話題の新興宗教の宗主、Aの話を始めた時、僕は10年の月日にがっかりした。


「A先生は人智を超えた功徳を積まれたお方でね、2100年の世界滅亡の後に世界を救うのよ」


「へぇ、ずいぶん先だ。その頃には僕も君もきっと死んでいるだろうさ」


「私たちは死なないの、新生後の世界を平等に管理する側に行くのよ。その為に今から修行をして功徳を積んでいるのだから」


 私たち。多分それに僕は含まれていない。


 返す言葉が見つからなかった。それは別に荒唐無稽な話を聞いて呆れたからではない。僕の知る彼女が馬鹿になってしまったことへの失望故だ。


 中学の時、彼女はクラスで一番賢い女の子だった。それは学業の成績もさることながら、洞察力の高さと機転の速さこそが彼女の賢さであったように思う。


 昔、僕が学校で家の鍵を無くしたときがあった。


 それは雪が降り頻る日で、学校内はもう探し尽くしたと思い込んだ僕はあてもなく通った道やグラウンドを無闇に探していた。


 寒かった、不安だった、震えが止まらなかった。


 そんな時だ、放課後だと言うのに彼女は先生や他のクラスメイトにそれを話してまわったり、生徒が勝手に入れない体育の更衣室の鍵をわざわざ借りに行ってくれたのだ。


 結局、僕の鍵は更衣室で見つかった。当時の彼女曰く、着替える時というのが一番物を無くしやすいらしい。見つかったことへの喜びと親に叱られなくて済む安心感から、彼女に何度もお礼をした。


 その時、僕に対して彼女が言ったことは今でも覚えている。


『困っている人がいたら助けなきゃ、だから君はお礼なんていいのよ』


 だから、たしかに僕は彼女を尊敬していたのだ。


 それが今はどうだ?


 彼女は邪心に囚われている。彼女自身はそれを持ち合わせていなくても、それを持ったA先生とやらに賢い彼女が拐かされているのである。


「それで、なんで世界が滅亡するの」


「邪神アークマが世界中の全ての原発を爆破させるの、その為に各国首脳を洗脳して核実験を進めさせている。だから、A先生はそれを止めようとして──」


「へぇ、面白い話だね」


 彼女の言葉を遮って、心にもないことを口にした。彼女の中のは三文小説以下で小学生以下の妄想に過ぎない。


 なんだ、アークマって。人を小馬鹿にしたようなネーミングじゃあないか。


「わかってくれる? ああ、やっぱり君ならわかってくれると思っていたわ」


「仮に、世界が滅亡するとして、今からそのアークマとやらを倒しには行かないのかい?」


 質問を投げかけた瞬間に、彼女は嬉しそうな顔した。頼られることへの快感か、無知な僕に知識を授けることへの優越か、それとも期末テストであらかじめヤマをはった問題が出た時のような、そんな感覚か。


「よく聞いてくれたわ! アークマには実体が存在していないのよ、アークマは弱い人の心に乗り移って日々力を貯めているの。だから私たちは一段上のステージに精神を昇華させて、その──」


 彼女は、長々と懇切丁寧にアークマという邪神の生態を説明した。そこまでわかっているのなら、対処も簡単だろうに。


 不思議なもので、どの宗教にも深く練られた設定というものが存在する。


 過去から始まり現在に至る過程をまるで見てきたかのような綿密な記録、その先どうするべきかという未来視のような宗主の教え。


 それは、あまりにも都合が良すぎるとは思わないのだろうか?


 ヒーローを存在させるためだけに作られた紛い物ハリボテのヴィラン、僕が邪神アークマとやらに抱いた感想はその程度のものだった。


「──だから、君にもA先生の教えを伝えたくってね!」


「A先生、のところでは具体的にどんな修行をしているんだい?」


「瞑想が基本だよ、あと免罪符も買わせてもらってるの。少し高くて大変だけど、これで私の今世での罪も全て浄化されるから、苦しくっても全然平気なの」


 苦痛を積むこと、それが彼女なりの"善き人の在り方"なのだろう。


 きっと、A先生とやらも言うことだろうさ。


 教えを敬虔に守りたまえ、なんてね。


 それは無秩序かつ無根拠な脅しであり、人を蝕むだ。


 何より、このが厄介な点は"苦味"がするということだろう。


 苦いだけのものを食べるやつなんていない?


 いや、違う。


 甘い話には罠があるなんてことは当然、合理的な人間は理解している。快楽というのは、そこにぽつんと用意されていること自体があまりにご都合的で違和感があるからだ。


 けれども、苦痛であるならどうだろう。苦労とでも、苦悩とでも言い換えてもらって構わない。


『無意味な苦痛があったとしたら』


 イエス、と言うことが出来るのなら、免罪符を買うなんて馬鹿馬鹿しいことはしないだろう。


 けれども、その命題を肯定するのであれば、疑念は過去からやってくるのだ。


 勉強や部活の練習、受験に就活、働き始めてからの叱責や失敗。これまでの全ての苦痛に意味がないとしたら……?

 

 だからきっと、彼女はイエスと言い切れなかった。


 真面目に人生を生きたものにこそ、苦痛の苦みはあまりに耽美で、報われることに勝る快楽は存在しない。


「君は、アークマが怖い? それともA先生の教えを守ってるから大丈夫なのかな?」


 僕はふと気づけば、戯れとも言える質問を彼女に投げつけていた。


「……本当はね、まだ怖いの。不安で夜眠れない日もあるくらいに」


「そっか、僕も怖いよ」


 彼女は潤んだ目をこちらに向けて、本当に辛そうな顔をした。


 アークマは弱い人の心に乗り移るという。


 ならば、彼女も心の中でアークマを育てているのだろう。


 その邪神が、どんなに大金を積もうとも、誰を宗教に引き込もうとも、消えて無くならないということを彼女はこの先理解できないのかもしれない。


「良かったら、君もA先生のところに来ない? みんな優しい人ばかりだから……」


「ああ、僕は……うん、少し考えてみるよ。仕事があるから、すぐにとはいかないけれど」


 彼女の顔が、ぱぁっと華やぐ。それは僕が知っている彼女の笑顔だった。


(そうすれば、君は褒めてもらえるのかな?)


 そんな言葉は胸の奥にしまった。


「君以外誰も信じてくれなかったの、私はみんなを助けたいのに」


 僕は懐のタバコを取り出して、マッチを使って火をつけた。最近は本数を減らしていたけれど、こればっかりは仕方ない。


 何より悲しかったのは、彼女が行き着いた先の最後が僕だったと言うことである。


 それは優先順位の話ではなくて、僕以外の全てに拒絶されたということが悲しいのだ。


「タバコ、体に良くないよ?」


 彼女はそう言って、僕を心配した。


 まるで、それは遠い昔に通り過ぎた思い出の琴線に触れるように優しい声色で僕は思わず、つけたばかりのタバコを消した。


「やっぱり、優しいね」


「どうかな、僕はひどい人間かもしれないよ」


「それはないと思う、だってこんなに親身に聞いてくれる人いないもの」


 違う、違う、違う。


 君を否定した人たちこそが、親身に聞いてくれた人なんだ。適当にはぐらかすような僕がむしろひどい人なんだよ。


「うーん、酔っちゃったみたい──よかったら、次のお店行かない?」


 安心したのか、彼女はグラスの安いカクテルを飲み干した。


 おそらく、この誘いは僕を引き込むためのダメ押しだ。


「ああ、それなら行きつけのバーがあるんだよ。奢るからさ、そこはどうかな」


「えっ、悪いよ。──でも今の君、なんか大人みたい。お言葉に甘えちゃおうかな」


 大人、なんだよ。


(ハマったのは大学のサークルあたり、いや就活とかかな)


 最初から本当は気づいていた、彼女の身なりはあまりにも幼い。そう、世間を中途半端に知った大学生みたいに。


 だから、きっと君に任せたら、今いる店みたいな安酒しか飲めないだろう。


 本当は、こんな大学生が来るような居酒屋は嫌なんだよ。25歳はまだ社会人としては駆け出しだけど、久しぶりに同級生と会うんならもっとムードがあるようなところがいいし、ここよりも適当な場所を僕たちは知っているはずのだから。


 そんな言葉を飲み込んで、僕たちは店を後にした。


 外には雪が降っていた。


 あの日のような温度の中を僕らは歩く、お互いに探すものなんてもうないはずなのに。


(いや、本当はもう少しだけ暖かった気がするよ)


 彼女の指が寒そうにバーバリーのマフラーを掴む。


 その仕草すら、あの日のままで。


『寒いね』


 僕は、居ても立っても居られなくなって彼女の方に手を伸ばした。


「ねぇ、手を繋ごうって言ったら怒るかな」


「ええっ、困るよー……でもいいよ、寒いし。君って意外とガツガツしてるタイプなんだ」


「うん、実はそうなんだ」


 彼女の白い指を強引に手繰って、自分のコートのポケットに突っ込んだ。


 冷えた温度がポケットの中で混ざり合って、仄かに熱を帯びていく。


 これはどうしたって、表面上の反抗だ。変わってしまった彼女に、あの日に取り残された僕が着いていく為に必要なことであるだけなのだ。


 バーには、程なく着いてしまった。


 会社の先輩に連れてこられて知ったジャズバーだ。不埒な口調の先輩は「女落とすならこういうところがいいんだよ」なんて言っていたけれど、別に僕はそんなことはどうでもよかった。


 説得もするつもりはないし、勿論、勧誘を受けるつもりでもない。

 

 僕が彼女をここに連れてきたのは、変わった僕を見せつけたかったという、只それだけのことだ。


「アレキサンダーをお願いします」


「えーっと、私は……そう、カシスオレンジで」


 彼女はきっと、それともう一つくらいしかカクテルを知らないのだろう。見るからに緊張している彼女が頼んだのは先程の店で飲んでいたものと同じカクテルだった。


 バーテンの、シャカシャカとシェイカーを振る音だけが聞こえる。


 普段なら、ピアノの生演奏があるこのバーだが、運が悪かったのか今日はピアニストは休みのようだ。


「……ねぇ、さっきのアレキサンダーってヨーロッパの大王?」


 彼女はシェイカーの音を遮らないほどの小声で僕に聞いた。


「うん、そうだと思う。詳しくないけどさ、甘いカクテルだから、次頼んでみなよ」


「そうなんだ……私、実は甘いのしか飲めないの」


 アレキサンダーは女殺しのカクテルレディ・キラーと言われている。カルーアミルクよりも高い濃度のアルコールのショートカクテル。


 それはある意味、ストレートの甲類焼酎を飲むようなもので、僕が就職してから初めて覚えたカクテルだった。


「こちら、カシスオレンジでございます。こちら、アレキサンダーでございます」


 目の前で注がれるカクテルたちに、彼女は目を輝かせていた。


(A先生は、こんなところにも連れてきてくれないんだね)


「乾杯しようよ、乾杯」


「うん、乾杯」


 一口、その瞬間に彼女は声を上げて喜んだ。


「さっきのよりもずっと美味しい」


「それはよかったよ」


 本当に美味しかったのだろう、ペースなんてお構いなしに彼女はグラスを空にした。


「アレキサンダー、頼んでみるね」


「一口飲んでからにしなよ。ほら、僕のをあげるから」


 間接キス。アレキサンダーが30度傾いて、色付きリップが塗られた唇に触れた。


 甘みの中に巧妙に隠された毒に彼女は気づきもしないのだろう。


「美味しい、コーヒー牛乳みたいだね」


 僕はそのままバーテンを呼びつけて、彼女がするであろう注文を伝えた。


「スマートだね、モテるでしょ。あーあ、本当に変わっちゃったなぁ」


「どう、だろうね。人間、自分が変わったのかなんて案外わからないものだよ」


 僕は多少得意になっていたのかもしれない。


 それから、グラスが空になるたびに新しいカクテルを注文した。


 コークスクリュー、ルシアン、キッス・イン・ザ・ダーク。


 A先生の話なんて出来ないくらいに、彼女へアルコールを飲ませ続けた。


 口をつけるごとに赤くなる彼女の頬が、大人の階段を登るかのように喜ぶ彼女の瞳が、ふやけていく唇の端が、僕にとってはあまりにも可憐で、幼稚で、ままならなかった。


「ああ、今何時だっけ」と、彼女か尋ねる。


「11時50分、そろそろ帰ろうか」


「え──終電過ぎちゃったみたい」


 彼女は蕩けた目尻を眠そうに擦りながら、何の気無しにそう言った。


「A先生の話、全然出来てないや……せっかく、仲間が出来たのに。それに朝帰りなんてA先生に叱られちゃう」


 怯えたような彼女の口調に


 僕の邪心が、沸騰するような気がした。


 A先生? 仲間? 朝帰り? 叱られる?


 発した言葉の一言一句、その細首から垂れ流されるその全てが、僕は気に食わなかった。

 

「──本当だね。でもさ、僕もこの後もその話聞きたいなぁ、この後静かな場所でじっくり話さない? A先生には僕からも謝るからさ」


「うーん、連絡してみ──」


 彼女が携帯電話を鞄から取り出そうとした──瞬間、僕の手は彼女の手の甲を潰してしまうほどに握り締めていた。


「いいから、ちゃんと僕の方で連絡するから」


「っい、ぃ痛い、痛いよ」

 

「ごめん、でもこれも世界平和の為なんだ。だから、ね?」


 少し緩めた手を、僕はそれでも離さない。


 離せば最後、彼女は永遠に手の届かないところへ帰ってしまうのだから。


「ぁ……ぇ……うん、わかった。わかったよ、その代わり朝になったら一緒に本部に来てね」


「ああ、


 バーを出て、向かった先はホテル街。彼女の知らない闇のある場所だった。


 ふらふらとおぼつかない足取りの彼女の手を、今度は無許可で繋いで、僕は一番高いホテルの一番高いスイートルームに入った。



「ふらふら、する。お水、飲みたい」


「うん、それより前にあの話をしようよ。君の大好きなA先生の話を」


「でも、喉渇いて……」


 彼女の目には、若干の恐怖が写っていた。それでも逃げ出さないのは、彼女にはもう僕しか味方がいないということだ。


(そうだよね、A先生には怒られちゃうものね)

 

「きみ、ねぇ、すこしこわいよ」


「僕が? まさか」


 彼女は、高級ブランドであろうソファにしなだれかかる。


 その横に足を広げて座り、僕は続けた。


「だって、これからは邪神アークマと戦う仲間なのだから」


──女の目に、光が戻るような気がした。


「そうなの、みんな、みんなわかってないから修行しないって、A先生に助けてもらえないのに、だから、だから」


「うん、うん、そうだよね、そうだよね」


 目から、涙をぽろぽろと溢して、女は泣いた。僕がまるで、生涯の理解者であるかのように泣いているのだ。


「私、大学の時に、受験失敗して、みんなの期待を裏切ったから、今度こそ役に立ちたい、だけなのに」


 僕の知ったこっちゃないことを女が話す。


「うん、うん、辛かったね、辛かったね」


「A先生にも、お布施が足りないって、怒られて、身体で、稼ぐなんて出来なくて、それで、あなたが来るまで、一人でっ……」


 女が、訳のわからない話を語る。


「うん、うん、大丈夫だよ、大丈夫だよ」


 僕は女の重心を持ち上げて、ベッドの方へといざなった。


 力なく、されるがままのその身体は妙に軽く感じる。本当ならば、こういう人間は重く感じるはずなのに。


「ねぇ、ジャシンからさ。A先生がたすけてくれるといいね」


「うん、だから、がんばるんだ。きみもいっしょに……」


「ゆっくり、眠るといいよ。ほら十秒数えたら君はもうぐっすりだ」


──なぁ、十秒待ってやるからさ。


 だから、A先生に祈って見せろよ。ジャシンが世界を滅亡させないように、ジャシンが君の心を殺さないように──


「あなたはしんじてくれた、だから仲間なの。ほんとうにほんとうに」


 十、九、八、七、六。


「そういえばね、むかしのことだけど、あなたのことちょっとすき、だったんだ」


 早くしろ、早く逃げろ、早くどこか遠くの場所へ──


 五、四、三、二、一。




 零。




 この先のことは、語るまでもない。


 只、世界が壊れる音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジャシン 三浦周 @mittu-77

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る