バターチキンカレー
中嶋怜未
バターチキンカレー
バターチキンカレー
十一月のはじめ。
土曜日の夕暮れ時、2LDKの部屋にトントントンッと、リズミカルな包丁の音が響く。
「ごめん、なんか事故みたいで電車が遅れてる! 三十分後には着くと思う」
ブーッと鳴ったスマホを横目で見ると、今日一緒に宅飲みをする友人、郁子からの連絡が来たようだった。
四年前、新型ウイルスが突如世界に猛威を振るいだした。それによって今までの生活は一変し、外出の際はマスクして、常にソーシャルディスタンスを意識し、手もアルコール消毒してお店に入ることが常識になった。
今でもウイルスが消え去る気配はなく、つい最近もこれで何度目か分からなくなったが、飲食店などの営業時間を、短縮する要請を政府が出したおかげで、ハードな仕事終わりにちょっとしたご褒美と称して、どこかへ食べに行くということもできなくなってしまった。
せっかく友人と飲めるなら、どこか行きたかったけれど、やっていないなら家で食べるしかない。
最近は私が飲み部屋とおつまみを提供し、お酒を郁子が持ってくるということが恒例になってしまった。
介護士をしている私は今日珍しく一日休みをとれたのだが、ケアマネージャーである彼女は半日仕事だったらしく、移動時間も含めて七時くらいに始めようかと言っていたが、遅れるらしいので八時近くになるだろう。
今はおつまみをあらかた作り終えてしまったので、締めに食べようと思っていたバターチキンカレーを作るため、ジャガイモを切っている。
郁子はお酒を飲むとカレーが食べたくなるらしく、外で飲むときは必ず最後にカレー屋さんに寄っていた。
だけど、バターチキンカレーは郁子の好物ではない。罪悪感を少しでも減らすために、野菜がゴロゴロと入ったカレーを彼女はよく注文していた。
じゃあ私の好物だから作ったのか、それも違う。
バターチキンカレーは、半年前に別れた元カレ、拓馬の好物だった。
ふつう、バターチキンカレーにはジャガイモを入れないのだが、私の好みでジャガイモを入れたバターチキンカレーを出したら、お店で出てくる本格的なものより気に入ったらしく、それ以来入れるのが定番になってしまった。
ジャガイモを切り終えると、IHの電源を入れ、中火に設定する。ニンニクのすりおろしとバターを鍋に入れ、溶け始めたら一口大に切った鶏肉と、みじん切りした玉ねぎ、乱切りしたジャガイモを入れる。
パチパチとニンニクが油にはねる音がして、同時に食欲をそそる良い匂いがしてきた。
こうして料理をしている最中に彼が帰ってくると、鼻をヒクヒクさせて献立を当てようとする、子供みたいな姿が見れて楽しかった。それと同時に、『私は仕事から帰ってきた旦那に、時間を計算して温かいご飯を食べさせてあげられる、良き妻』ができる自分に酔うことができ、この一瞬がとても愛おしいと思えていた。
だけど今は違う。幸せだったころの幻影を追っかけて、元彼の好物を作ってしまうような、ただの痛い女だ。
トマト缶を入れる。今日は間違ってホールトマトの方を買ってしまったので、炒めながらぶちぶちと潰さなければならない。
拓馬はトマトが苦手だったから、細かくしないと、と癖で考えてしまうが、これは拓馬に食べさせるわけじゃない。私と郁子が食べるのだ。
バターチキンカレーの作り方は、別に拓馬のために取得したわけではなかった。
まだ彼と付き合う前、一人暮らししたばかりだったころに、カレーは作り置きが出来るからと、毎週ポークカレーを作っていた。
だが、流石に同じ味では飽きてしまったために、他のカレーも作ってみようと試したのがバターチキンカレーだった。
拓馬と付き合って、カレーが食べたいというので作ってみたら、ものすごく気に入ってくれたようで、「自分と別れる時があったら、このレシピだけは渡してから出て行って欲しい」なんて図々しいお願いをしてくるほどだった。
実際に別れるときは、カレーのカの字も出ないほどレシピのことはすっかり忘れていたようだが。
ルーと生クリームを入れて煮込む。ジャガイモが柔らかくなったら完成だ。
ピンポンパーン。
うちのマンションのチャイム音は独特だと思う。どうやら郁子がエントランスに着いたようだ。
オートロックを外してやり、玄関の鍵も開けておく。
「やっほー、遅くなってごめんね!」
「いいよ、いいよ。無事にこれてよかった」
エレベーターの音がした後、ドアが開いて郁子が入ってきた。
そのまま洗面所に手を洗いに行ったらしく、壁の向こう側からガラガラガラと、うがい音が聞こえてくる。
「はぁ――、いい匂い! 何のカレーなの?」
「バターチキンカレー」
洗面所から出てきた彼女が壁にもたれながら、嬉しそうに鼻をヒクヒクさせていた。
「なに? 私の顔になんかついてる?」
「なんでもない。あ、冷蔵庫からおつまみ出してって。簡単なものしか作ってないんだけど」
「いやいや、ありがとうだよ。あ、そうだ。今日は色んなチューハイと、ちょっと高いシャンパン買ってきたからね!」
楽しみだな―、なんて言いながらジャガイモに竹串を指す。柔らかさを確かめてからIHの電源を切った。
テーブルの方へ行くと、郁子がもうすでにお皿やらなんやら全て並べてくれていた。
「ありがとねー。お皿とかの場所も把握済みなんだ」
「そりゃここに来るのも、もう三回目ですからね。ほら、飲もっ!」
長く付き合っていた拓馬と別れた私を、郁子はとても心配してくれて、引っ越した今の家によく遊びに来てくれるようになった。
三十路に差し掛かった独身女二人の飲み会なんて、大体は職場の愚痴か、郁子の『食事に行ったのにそれ以上の関係に発展しなかった男の愚痴』、そして、私の『結婚に中々踏み込んでくれない彼氏の愚痴』が入っていたのだが、最近その愚痴は無くなった。
お互い愚痴をある程度言いあって、散々笑いあった後数秒の沈黙ができてしまった。
切り出したいことがお互いにあるのに、言っていいのか、言うタイミングはここでいいのか、悩んでいるとこうした沈黙ができてしまう。
「あのさ、聞いてるかな。仕事辞めたって」
「誰が?」
先に切り出したのは郁子だった。機嫌を窺うように私の目を覗き込みながら、おずおずと続ける。
「拓馬君」
「は? ……てか、なんで郁子は知ってるの? 連絡先知ってたっけ?」
拓馬が仕事を辞めた? 工場の仕事あんなに気に入っていたのに。どんどん昇給していたのに、本当は私に言えない病気とか患っていたのかな……。
「いや、最近ね、悠たちが住んでいたマンションの近くに、新しいデイサービスができたの。訪問したついでにスーパーに寄って帰ろうと思ったら、たまたま拓馬君にばったり会ったのよ」
「あぁ、なるほどね。ってことは、まだあの家にいるか、もっと安いマンションを近場で探したか、よね」
「どうしてそう思うの?」
「前のマンションは、彼の仕事場から近いところで選んだの。あーー、でも、もう仕事辞めたってことは、引っ越す時にわざわざあそこ仕事場周辺で探す必要なくなったってわけだし、やっぱりあの家にいるのかな」
「……拓馬君、別に怪我とかしてなかったし、病気でやつれてるってわけでもなかったから、よっぽど悠と別れたのがショックだったのね」
私は拓馬が仕事を辞めてしまった、というショックで頭がいっぱいで、郁子との会話にあまり集中できなかった。
「私、後悔してるの。拓馬と別れたこと」
郁子は三角チーズのフィルムを開けようとしている手を止め、チラリと目だけをこちらに向けた。
「自分から切り出したから、復縁したいなんて言いづらくてずっと迷ったままだったの。でもあの日のことを思い出しては、私、一方的過ぎたなって反省ばかり出てきて」
あの日というのは……別れた日のことだ。あと一か月で交際五年目だというのにちっともプロポーズしてくれる気配がない彼に、私は愛想つかして別れを切り出した。
いや、愛想をつかしたなんて嘘だ。ただ一人で焦っていただけで、もっと話し合えば二人だけの答えが見つかっただろう。今までだって話し合うことで、どんなすれ違いも解決してきた。
付き合ってばかりの頃、話合うことで価値観の違いを知ってしまうのが怖くて、一方的に彼を部屋から追い出すような喧嘩ばかりしていた。
「一番大きな喧嘩をした時のこと、覚えてる?」
「覚えてるよ、半年記念のデートだったのに信じられないって、悠、めちゃくちゃおこってたもんね」
郁子は懐かしむように目を伏せて微笑んだ。
半年記念のデートを私は、二週間も前から指折り楽しみにしていた。
当日、卸したての水色のマーメイドスカートをはいて、黒髪ボブだった髪もふんわりするようにアイロンでセットし、ガラスの石がついているカチューシャまでつけた。
半年記念のデートに、一目ぼれしたスカートを身に着けて、今までで一番うまくいったメイクで彼に会う。
マンションの下に着くと、彼の車があった。
今日の私ほどかわいい女の子はいないし、今日の私ほど幸せな女の子はいない、完璧だ。ドアを開けて、「おはよっ」と笑いかければ、彼は可愛い私に、今日一日メロメロだろう。
けれど、その浮ついていた妄想は、彼の車に乗り込んだ瞬間、打ち砕かれることになる。
ドアを開けた瞬間、私の目はある一点にくぎ付けになった。
助手席に、私の特等席だと思っていた場所に、黒地に黒いリボン、どう見ても女性ものの、私には見覚えのないカチューシャが転がっていた。
全身の血液が、急降下してどこかへ抜け出て行ってしまったような気がした。
なにこれ、だれの? なんでこんなところにあるの? なんで気づかなかったの? 私以外の女を最近乗せたの?
浮気したの?
頭の中は聞きたいことでいっぱいだったのに、出てきたのは、蚊の鳴くような声で一言だけだった。
「これ……」
「あーー、いつかの人の物みたいだね。折ってもいいよ」
へらへらと笑う彼を見て、さらに血の気が引いた。
この人は、私に不愉快な思いをさせたなんて思ってない。
この人は、私もいつかの人も同じなんだ。
必死で弁明したり、自分の手でカチューシャを折ったり、私への情熱さが感じられない。
私もポロッと捨てられて、彼の車から何年後かに誇りにまみれて出てくる、誰のかもいつのかもわからない埋もれたゴミになるのだろう。
「私、帰る」
踵を返し、マンションへ駆け戻った。
鍵をかけてベットへ引きこもる。カチューシャが掛け布団に引っかかって、髪の毛が乱れていくのを感じたが、もうどうでもよかった。
全部、全部どうでもいい。
別れたい。
ごめんって言ってくれなかったんだもん。
他の女の影が見えたんだもん。
信じてたのに。
渡した合い鍵も返してって言おう。
ガチャリと、扉が開いて彼が慌てた足取りでベットまで走ってくる音が聞こえた。
「あの頃はさ、短いスパンで色んな喧嘩しちゃってて、お互いすごく疲弊していたんだよね。私の家にお泊りでも、喧嘩するたびに話し合い放棄して追い出しちゃってたし、だから拓馬も謝り疲れたって感じだったんだろうね」
「でも、あれは拓馬君が悪いよ。ちょっと天然な部分があるけど、助手席に他の女のカチューシャ、なんで置いとくのよ」
「なんか、前日まで車検だったみたいでね。担当の人が彼女の物だろうって、気を利かせて分かりやすいところに置いてくれてたみたいだけど、夜に取りに行ったから暗さに紛れて気づかなかったみたい。ほんとかよってその時は思ってめちゃくちゃ言ったし、彼も彼でまた喧嘩かよ、もう疲れたって言いだして。お互い別れようとははっきり言わなかったけど、危なかったなぁ」
今でこそ笑い話だが、あの時は怖くて仕方がなかった。今までどんなに喧嘩しても、追い出しても別れそうになることなんてなかった。
別れてやる! って気持ちでさえあったのに、いざ彼が離れそうになると怖くて、郁子に「どうしよう、どうしよう」と彼が見ていない隙を見計らって相談していた。
「悪いことは悪いから、拓馬は結局ちゃんと謝ってくれたし、私も今までのこと謝って、初めて喧嘩したその日のうちに話し合いして、仲直りしたんだよね。より絆も深まったし、それから大きな喧嘩もしなくなったしよかった」
でも、と私の顔が自然に下を向いていく。
嫌と言うほど思い知ったはずだったのに、私は同じことをまた繰り返した。
今度はもう取り返しのつかない言葉を使って。
「二人が別れてから今まで、拓馬君の愚痴だけは聞いてきたけど、そういえば別れた日にどんな話し合いがあったかとか、聞いてなかったなって思ってたの。二人が出した結論によっては、よりを戻さないほうがいいと思う」
結論なんて何も出ていない、と私は郁子を見ることなく言った。
出た結論は、『別れる』ということだけだ。
私の意見はすべて別れに向かって動いていた。気持ちが冷めて別れたいから彼を説得する、というわけでもなく、ただ私の思い通りの意見が聞けなかったから分かり合うことを諦めただけだった。
「焦ってたの。周りの同僚も友達も、後輩も結婚していっているのに私だけ、恋人がいてもずるずると付き合っているだけで、未来設計なんて全くできてないし、結婚について話し合いたくてもごまかされるし、もう疲れちゃったの」
入居当時から、私の結婚を楽しみにしてくれていた方が去年亡くなった。男の子ばかり育ててきたから、と私を娘のように可愛がってくれ、時には拓馬の愚痴を聞いてくれたり、決して偉そうではないアドバイスをしてくれた。
本当に、本当に大好きな方だった。
私にとっても、彼女に結婚報告をするのは一つの夢になっていたし、まさか彼女が亡くなるまでに、自分が結婚できていないとは思いもしなかった。
結婚が幸せのゴールではない。
女の幸せは結婚ではない。
それは重々承知だ。だけど、好きな人といずれかは結婚して、子供を産んでというのが私の夢だった。拓馬とはそれが実現できると思っていた。彼もそれを望んでくれているとも。そうでなければ五年も一緒にただの他人が一緒にいられるわけがない。
「拓馬君は、なんで結婚したくなかったんだろ? 聞いた?」
「んーー、紙一枚にこだわらなくてもよくない? とか言ってたような気がする」
そのペラペラ紙一枚に、どれだけ希望も安心も約束も詰まっていると思っているのだろう。
自分は浮気をしてしまうから、とかまだ遊んでいたい、という理由ならまだ納得がいった。けれど、ただふわふわ話から逃げているだけで、何も考えていなさそうなところに腹が立って仕方なかった。
私はこんなに真剣で、焦っているのに、どうして同じ気持ちで向き合ってくれないの?
「結婚する気、なかったのかな? だとしたら悠と五年も一緒にいないよね。遊んでくればいいもんね。結局浮気とかしてなかったもんね」
「うん、『今』は結婚したくないって。でも、じゃあいつならいいの? って感じだしさ。あと二年で三十になるっていうのに。男の三十と、女の三十って違うじゃん! 子供のできやすさとか、ウエディングドレスだってどんどん控えめなのしか似合わなくなりそうだし」
私は郁子が持ってきてくれた、シャンパンのグラスを一気にあおった。
しゅわしゅわッと爽やかな甘さが口の中に広がった。
おぉ、これは飲みやすい、なんてのんきなことを考えたが、あとから喉がじんわりと熱くなってくるのを感じ、少し驚いてしまった。
可愛らしい味をしているのに、しっかりきついお酒のようだ。考えて飲まないと、明日が辛いかもしれない。
『飲みすぎんなよ、また気持ち悪くなっても知らねぇぞ』
ふと、拓馬の声が聞こえた気がした。
反射的に右を向くが、当然誰もいない。
急に、酔いが回った頭を動かしたからか、はたまた拓馬がいない事実に打ちひしがれたのか、私の体はぐらッと傾き、危うくテーブルに頭をぶつけるところだった。
「ちょっと、急に頭動かさないの! 大丈夫?」
「あ、うん、平気平気……なんか、拓馬の声が聞こえた気がしたの」
郁子は半ば呆れたように私を見ていた。
「引きずってんね、思いっきり。ねぇ、自分がなんで焦ってるのかとか、話してみたの?」
私は目を閉じて、あの日自分が言ったことを思いだそうとした。
そうだ、私は拓馬に一緒に居ても未来が見えてこない、ままごとの延長戦を続けて一生が終わるなんて嫌だ、と言ってしまったのだ。
お互い仕事して、色んな困難を乗り越えながらやってきたのに、ままごとの延長戦と言われて、拓馬はどう思っただろう。
自分たちのお金で生活して、誰の真似事でもなく自分達のやり方でやっていこうとしていた私達の暮らしは、全くままごとでは無かったはずだ。
未来だって、きっと子供が好きな彼は良い父親になっただろう。遊び歩くわけでもなくちゃんと帰ってくる彼は、育児も一緒にやっていけただろう。家事だって、分担してやってきたのだから、結婚したって何か変わるわけではない。
自分にとって、恋人から家族へ変わる結婚はとても重要なことだった。
確かに周りと、年齢を気にして一人で焦っていた節はある。けれど、その気持ちもわかって欲しい! と口に出さないまま一人で怒って、話を解決ではなく別れに切り替えてしまった。
「自分がどう思っているのかも、焦っている気持も、拓馬に対する愛情も何もかも言わないままに、話し合いを放りだして、無理やり別れ話にもっていって一方的にシャットアウトしたの」
郁子がため息をついて、肩を落とした。
一番やってはいけないことを私はやった。それも全部分かっている。
だから中々言えなかったのだ。
でも、切り替えることも、諦めることもできなかったのだ。
自分は切り替えができる女だと思っていたのに。
いつもだったらすぐ消していた思い出の写真たちも、「若かりし頃の自分が懐かしいから」なんて誰に対してなのか分からない言い訳をして、ずっとスマホの中に残している。
「話合いをするのも嫌なくらい相手が嫌い、っていうならわかるけど、その終わり方は自分のためにも相手のためにもならないんだよ。……でもまぁ、きちんと終わっていないからこそいいのかな」
連絡すれば? と郁子が私のスマホを指さした。
私は少し考えて、スマホを手に取ると拓馬へメッセージを送った。
『ごめん。もう一度会って、話がしたい』
その日から、一週間経った今でも拓馬からの返事が返ってきていない。
彼はとっくに私をブロックしてしまったのだろうか。
この一週間、ずっとモヤモヤしたままだ。
こんな風に誰かの返事を今か今かと待つのは、なんだかとても久しぶりのような気がした。
まるで、付き合う前の頃のようだ。私のことを気にしているって分かっている。だけど、連絡をもらわないと、自身が持てないからそわそわしてしまう。
まだ拓馬に、こんな少女のような気持ちを持っていたとは自分でも驚きだ。
もしかしたら手紙で返事を送って来てくれているかもしれない。
なんて、恋に盲目の期間は、いつもだったら思いつかないようなことを閃いてしまう。
そうだ、ポストに行くついでに溜まっているであろうチラシ達を取りに行こう。
ポストから手紙やチラシを回収するのは、拓馬の役目だった。
回収してもらったラーメンや、お寿司のクーポン付チラシを一緒に眺めていると、
「今日はちょっと豪勢に、寿司でも行くか」
って、必ず拓馬は言ってくる。どっちかっていったら、ラーメンの方がいいんだけどな、と思いつつも、私は毎回この夜のデートを楽しみにしながら仕事に行っていた。
手紙とチラシが一緒に入っていたら、今度はラーメンに行こうよって誘ってみようかな。
ポストを開けるため、ロックのダイアルを回す。
最近になってやっと、間違えずにすんなり開けられるようになったのだが、未だに手紙たちを溜まらせてしまう。宅配物が無いと、ついポストの存在を忘れてしまうのだ。
案の定、雪崩が起きたので慌てて腰で落ちそうになったチラシを押さえる。
深いため息が出た。
分かっていた。拓馬が手紙なんて書くはずない。
五年間、何かしらの記念日のたびに手紙を渡していたけれど、返事が返ってきたことなんてなかった。
分かっている、分かっているけれど、チラシの束の中から手紙が出てくるんじゃないかと探してしまう。
ラブレターなんて、待ってもいいような年齢じゃないけれど、それでも、私はやっぱり拓馬に恋しているから、ロマンティックな演出があったら少女時代に戻って大声ではしゃぐだろう。
諦めと希望の半々を抱いたまま、最後のチラシを手に取った瞬間、白い封筒にハートのシールが貼られている、ザ・ラブレターというようなデザインの手紙が床に滑り落ちた。
――永野 拓馬より
心臓がドクンと脈を打った。
飛び上がりたいほど嬉しいのに、全身が鳥肌を立てるほどこの手紙を読むことを拒んでいる。
震える手で手紙を拾い、急いで家に戻った。
ドアを閉め、チラシの束を無造作に靴箱へ乗せた後、恐る恐るハートのシールをはがし、封を開けた。
何度よんでも内容に頭がついてこず、真っ白になる。
五回ほど読んだところで、膝から崩れ落ちた。
胸が苦しい、ちゃんと呼吸できているのだろうか。息ってどうやって吸って、どうやって吐いたっけ。
ねぇ、冗談でしょ? 本当は生きてるんだよね?
だって、手紙くれたじゃない。
ねぇ……私だって謝りたかったよ。あなたのお嫁さんになりたかった。
ねぇ、その話をするために連絡したのに。
ねぇ、こんなの……どうやってこれを受け止めたらいいの……。
『今日はバターチキンカレーがいいな』
頭上から拓馬の声が聞こえた。
仕事へ行く拓馬を玄関で見送るとき、夕飯のリクエストがあるときは、この場所、ドアの目の前で言ってから出て行くのが常だった。
「……好きだねぇ……」
冷蔵庫の中に生クリームはもう無かった。
玉ねぎとバター、トマト缶に鶏肉はまだあったはずだ。
ジャガイモは……やはり入れたほうがいいかな。拓馬はジャガイモが入っているバターチキンカレーが好きなのだから。
私はゆっくりと立ち上がって、靴箱の上に置いてあるガラスの皿から鍵を取った。
今はカレーを作ろう。彼が食べたいと言っているから。それに、私の体もトマト缶の酸味を恋しがっている。
バターも買い足そうかな。早く買いに行かなくちゃ、体中の塩分が無くなってしまう。
振るえる唇を噛んで、流れそうになるものをグッと堪えながらドアを開けて外へ出た。
マンションから出ると、まだ十一月が始まったばかりだというのに、雪が降りそうなくらい寒かった。体が凍える前に帰ってこなければ。拓馬の体も冷え切ってしまう。
一歩、踏み出した時だった。チラチラと白い粉が上から降ってくるのが見えた。粉が当たった場所は、熱を取られていくように冷えていく。
その瞬間、こらえていた温かい涙が頬を伝って落ちていった。
バターチキンカレー 中嶋怜未 @remi03_12
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます