第二章 田舎娘とお猫様の初めての都会
田舎娘は、初めて宿に泊まる
隣町の宿に到着して一息ついた私は、ガルさん監視の下マロンを袋から出してあげた。彼女は見知らぬ部屋を警戒してか、そろそろと辺りを見回している。
「ニャ」
か細い鳴き声を上げたマロンは、私の足にすりすりと擦り寄ってきた。ずっと不安だったろうから、今日はうんと甘やかしてあげないと。
「うんうん、恐かったねぇ。今日はもうずっと傍にいるから、安心していいよ」
「やはり、マロンちゃんはお嬢さんが大好きなんですね」
ガルさんが微笑ましいものを見たとでもいうように笑顔を浮かべる。彼は片膝を付いて体を低くすると、私にぴったりくっ付いて離れないマロンの頭を優しく撫でてくれた。
もう、私からしてみれば『でっかいのとちっさいの』の交流を見ている方が微笑ましいよ。ガルさん、これ絶対小動物好きだよ。もしかしたらペットを飼っていてもおかしくないくらいに、うちのマロンを可愛がってくれているよ。
私がそんなことを考えているなど知らないガルさんは、マロンを一頻り撫でてからゆっくりと立ち上がった。
「さて、私は何か部屋で食べられるものを買ってきます。その間、マロンちゃんをよろしくお願いします」
「はい、分かりました」
この宿の一階には食堂もあるんだけど、さすがに猫を連れては行けない。だから、今日は部屋食なのだ。
ちなみに、ガルさんと私の部屋は別々だ。ガルさんは今までの態度からも分かっていたけれど紳士なので、そういうところはキッチリしている。お金を出すのは全部彼だから、費用が嵩むのはちょっと申し訳ないと思っているんだけどね。
「あ、そういえばお嬢さんは食べられないものなどはありますか? あと、マロンちゃんは何を食べるのか教えていただけませんか?」
気遣いのできる男性は素晴らしいね。私の好き嫌いだけじゃなくて、マロンのご飯までちゃんと気に掛けてくれる。たぶんだけど、ガルさんも猫好きに片足を突っ込み始めてるんだろう。ようこそ、沼へ。さあ、あなたも一緒にお猫様の下僕になろうじゃないか。
……なんて、そんなふざけたことをガルさんに言えるわけがないので、私は先ほどの質問に当たり障りのない返事をすることにした。
「私は好き嫌いはありません。マロンには味の付いていないお肉をお願いします」
「分かりました。それでは行ってきますね」
ガルさんはニコリと微笑んで、部屋を出て行った。
室内に沈黙が満ちる。私は何度か深呼吸をしてから、我が家のものよりも質のいいベッドにダイブした。
「うう、ガルさん、人当たりがいいし背の高さのインパクトの方が強いから一瞬忘れそうになるんだけど、かなりカッコイイんだよね」
顔のいい人の笑顔はなかなの破壊力があるんだけど、あの人はそれを分かっているんだろうか。
妙な疲労感を誤魔化すようにベッド上でもだもだしていると、マロンがぴょいと飛び乗ってきた。
「ニャア」
少しはこの状況に慣れた様子のマロンは、私の顔に鼻を寄せてふんふんと匂いを嗅ぐ。ちょっと湿った鼻先が頬に当たってくすぐったい。
「ふふ、マロン、おいで」
いつものように腕を広げて「ここにおいで」と促すと、マロンもにゃん、と嬉しそうに鳴く。そして彼女はおもむろに私の股の間に収まると、そのまま落ち着いて目を閉じてしまった。
「……なんでそこで寝るかなぁ?」
下僕の思ったところで寝てくれない。お猫様あるあるとはいえ、私は少し悲しいぞ。
こうして身動きが取れなくなった私は、マロンにつられるようにして眠りに落ちてしまった。
その結果。
「あの、お嬢さん、ご飯を買ってきましたよ」
食事を買ってきたガルさんから、申し訳なさそうに起こされることになったのは言うまでもない。
マロンのためとはいえ、股をおっぴろげて眠っていたところを紳士であるガルさんに見られたことは、私の心に多大なダメージを与えた。恥ずかしいなんてもんじゃない。人としての尊厳が脅かされていると言っても過言ではないだろう。
ちなみに、当のマロンは私が動いたら不満げな声を出した。やはりお猫様である。
どうにかマロンを股から退かしてすぐさまベッドから降りると、わざとらしく身形を整えてからガルさんの元へと向かった。彼は先ほどの私の醜態を見ていないふりをしてくれているようで、ほんの少しだけ顔を逸らして苦笑していた。
「ちょうど美味しそうなミートパイが売っていました」
ガルさんは言いながら、まだほかほかと湯気を立てるミートパイを手渡してくれた。いい香りがする。これは確かに美味しそうだ。
「マロンちゃんには、味付け前の挽き肉を焼いたものをもらってきましたよ」
真新しい木の器に挽き肉を盛っているガルさんの足下には、愛嬌を振りまくマロンの姿が。相変わらず現金な子だ。普段よりも美味しそうなご飯に気分が高揚しているみたいで、いつも以上に甘えた声を出している。
「さあ、マロンちゃん、ご飯ですよ」
「ニャアン!」
マロンは嬉しそうに尻尾をゆらゆらと揺らして、ガルさんが差し出したご飯にかぶりついた。
「ふふ、美味しいのねぇ」
愛猫の想像以上の食べっぷりに、私は思わず声を漏らした。ガルさんもガルさんで、驚いたように目を丸くしている。
「マロンちゃん、お腹が空いていたのかい?」
「いいえ。たぶん、ご飯が美味しいんですよ。うちではあまり贅沢させてあげられないから」
このがっつき具合は、前世で言うところのおやつの食べ方にそっくりだ。日本企業の努力の結晶である、猫まっしぐらなあのおやつ。今世でも似たようなものがあればいいのになぁ、なんて何度も思っていたけれど、このミートパイを参考にしたら作ることができるかもしれない。
「なんの挽き肉使ってるのかなぁ、これ」
そう呟きながら部屋に据え付けられている椅子に腰掛けて、私もミートパイに齧り付いた。
ふむふむ、中のお肉の野性味溢れるこの香りと旨味は……ベルギアルの肉だね。だけどもう一つ、私は食べたことのない肉が使われている。こっちは臭みがあんまりなくて癖が少ないけれど、脂分はしっかりとある。
二つの肉の合い挽きは、とても良い塩梅で混ざり合っていた。ここに野菜と香辛料が加わって、更に旨味が引き立っている。あと、パイがサクサクで美味しい。バターは高級品だけど、このパイ生地にはしっかりばっちりふんだんに使われていることが手に取るように分かるサクサク具合だ。
美味しいミートパイを半分くらい食べたところで、私は気が付いた。たぶんこれ、この町の売り物の中でも高級品だ。
「あの、ガルさん。このミートパイって一つおいくらでした?」
「これですか? ええと、確か二キットですね」
「二キット」
この世界に流通している貨幣は、金貨・銀貨・銅貨の三つ。貨幣価値も金貨が一番高く、銅貨が一番低い。そしてキットというのは、この中でいう銀貨である。そう、銀貨なのである。
私は頭を抱えそうになった。だって、この宿の宿泊代が五キットなんだもの。宿泊代の半分近くするミートパイなんて、完全に高級品じゃない!
「ガルさん……いえ、なんでもありません」
どうしてこんな高級品を買ってきたのかと尋ねたかったけれど、私は必死に口を噤んだ。たぶんガルさんに理由を聞いたところで「美味しそうだったから」としか返ってこないだろう。そんな気がする。
それに彼は、ゲパルドの騎士様なのだ。つまり、私たち庶民では考えられないほどのお金持ちであるのが普通だろう。何せ、私の分の旅費やら何やらを全部出してくれるくらいだし。
素直に「ありがとうございます」とお礼を言って甘えられれば、こんなに気疲れすることもないんだろうな。だけどそんな素直さを、私は持っていなかった。
うん、今度からは私もお買い物について行こう。
そう決心した私は、残りのミートパイを少しずつ食べ進めた。
食事を終えて一息ついたところで、そういえば、と私は気になっていたことをガルさんに聞いてみた。
「ガルさん、どうして私のことをずっと『お嬢さん』って呼んでるんですか?」
確かに彼の目から見れば私は『お嬢さん』と言える年齢で、そう呼ばれても不思議じゃない。だけどそんな風に呼ばれ慣れていないから、実はずっと恥ずかしく思っていたのだ。それに、前世からの累計年齢で考えるといわゆるアラフォーなわけで。
私のこの質問にガルさんは一瞬だけ固まると、それなんですけれど、と口を開いた。
「私のようなおじさんに名前を呼ばれることを若い女性は嫌うと、以前部下が話していたことを聞いたことがありまして……それで、どうしても気後れしてしまい、お嬢さんと呼んでいました」
ポリポリと頬を掻きながら、ガルさんは困ったように眉を下げて笑った。
なるほど、そんなことがあったのね。でも、ガルさんがおじさんだなんて、そんなことあるの?
確かに彼は若者って感じじゃないけど、同時に世間一般のおじさんという感じでもない。紳士的な大人の男性というのが正しい言い方だろう。
「私はガルさんのことをおじさんだなんて思っていませんよ。それよりも、お嬢さんって呼ばれる方がなんだかよそよそしく感じて……その、慣れません」
私の言葉にガルさんは目を見開いたけれど、すぐに相好を崩した。ふにゃ、という言葉が似合う崩れ方だ。
「実は私も『お嬢さん』という言葉を言い慣れていなかったんです。私たち、似たもの同士だったんですね」
ふふ、と品良く笑ったガルさんは、それでは、と続きの言葉を口にした。
「これからはお名前で呼ばせていただきます。アイラさん、よろしくお願いしますね」
……なるほど、名前呼びは名前呼びでとても恥ずかしい。なんだかむずむずする。
だけど、そんなことをガルさんに言えるはずもない私は、必死に笑顔を作って彼に頭を下げた。
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
愛想笑いで誤魔化すことは、元日本人である私の得意技なのだよ。
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