田舎娘は、愛猫と再会する

 ニャア、なんて。


 この甘えるようなほんの少し高い鳴き声を、私は知っている。

 私の予想が正しければ、この鳴き声の持ち主は。


 ゆっくりと目を開けた私は、呼気を感じられるほど近くにいるその生き物を見た。


 暗がりからも見えた黄色の丸いお目々。茶色の短い体毛に黒の縞と、目の上の麻呂眉のような模様が特徴的な毛色。ゆらゆらと揺れる長い尻尾。頭の上からピンと立っている三角のお耳。むにゅっとした可愛いお口。ピンピン伸びる白いおひげ。そして……魔獣なんかとは全然違う、小さい体躯。


 間違いない、この子は。


「マロン……!」


 勢い良く上体を起こした私は、目と鼻の先にいる小さい生き物の名前を呼んだ。


「ニャア!」


 小さい生き物……マロンは嬉しそうな鳴き声を上げると、ように私のお腹に飛び込んできた。


 ドスゥッ。


「ヴッ」


 マロンの両前足が私のみぞおちに突き刺さる。あれ、おかしいな。息ができないぞ?


 なぜか目の前が真っ暗になった私は、そのまま意識が遠のいていく。「ゥナオーン」というマロンの悲痛な鳴き声が、遠くの方で聞こえたような気がした。




 私は、ずっとずっと昔の夢を見ていた。それこその、まだ日本という国で生きていた頃の夢を。




「ニャー……」

「そうだねぇ、窮屈だねぇ。でももう少し我慢してね。今日はマロンも頑張ったから、おうちに帰ったらおやつ食べようねぇ」


 動物病院で予防接種をしてもらった帰り道。猫用のキャリーケースで不満げな声を漏らすマロンのご機嫌を取るように、彼女の大好きなおやつの名前を口にする。すると、ニャッ! という元気な鳴き声を上げた。まったく、現金な奴だ。


「ごめんね、ちょっと揺れるよ」


 よいしょ、とキャリーケースを抱え直す。マロンの体重は変わらず四・八キログラムだったけれど、抱え続けるには私の腕では少し辛い。いくら自宅から近いからって、やっぱり歩きで動物病院に行くのはやめた方が良かっただろうか。

 少しでも疲れが取れるようにと長めに息を吐いて前を向くと、ちょうど信号が赤に変わった。この交差点は待ち時間が長いので、ちょっとげんなりしてしまう。


 はぁ、と溜め息をつくと、これに反応したのかマロンがうにゃうにゃとなんとも言えない鳴き声で話し掛けてくる。しかも狭いキャリーケースの中でごそごそと動き出したので、私はうっかりバランスを崩してしまった。

 ぐっと足に力を入れどうにか踏みとどまった私は、マロンを落ち着かせるために口を開こうとした。


 その時だった。


「キャー!」


 やかましいエンジン音に紛れて誰かの悲鳴が聞こえてきたので咄嗟に顔を上げるとそこには、猛スピードで蛇行運転しているトラックがいた。

 人々が逃げ惑う中、そのトラックは私を目掛けて突っ込んでくる。


 逃げられないとか、死んでしまうとか、その時は何も考えられなかった。


 ただただ私は、大切な家族であるこの子……マロンを守るように、キャリーケースを抱き締めた。

 もちろん、そんなことをしたところで助かるはずもなく。強すぎる衝撃が全身を襲ったと思ったその時には、ある意味、それこそ予定調和のように、私は無事に死んでしまったのだ。


 だが、私の記憶はそこで終わらない。死んだ、と認識した瞬間、私はマロンと共に白い世界とも言うべき不思議な空間に佇んでいた。


 死ぬ直前までキャリーケースに入っていたはずのマロンは、なぜか私の腕の中で丸くなっている。この子は抱っこ好きで甘えん坊の可愛い子なのだが、死んでから気が付くまでの間に腕に抱くタイミングなんてなかったはずだ。……いや、だから、そもそも私たちは死んでるんだよ。


 マロンも何が起こったのかよく分からないのだろう。だけど、私に抱きかかえられているからか、ゴロゴロと嬉しそうに喉を鳴らす。そしてすりすりと私の胸に頭を擦り寄せて「ゥニャァーン」とあざとい甘え声を出した。


「うんうん、これはおやつを所望している声だね。欲しいよね。でもごめんね、ないよ」


 それよりも、ここはいったいどこなのだろう。天国や極楽というにはいささか味気ない空間だ。私たちの話し声と息遣い以外には音もないし、そのせいか気が滅入る。

 マロンが傍にいてくれることだけがせめてもの癒やしだと彼女の頭を撫でてやっていた時、なんの前触れもなく私たちの目の前に金色の扉が現れた。


 いったいどうすればいいのか分からずに右往左往していると、その金の扉が音も立てずに勢い良く開く。扉の向こうには、この世のものとは思えないくらいに美しい男が立っていた。


「ハッハー! いやー、メンゴメンゴ」


 そしてめちゃくちゃ軽いノリで私に謝罪してきた。


 美しい男、という比較的良かったはずの第一印象が崩れ去る。それもあってか、男の外見をまじまじと観察する余裕が生まれた。


 すらりと均整の取れた肉体に百八十以上はあるだろう長身。顔も小さくて確実に十頭身はある。手足も長く、羨ましいことこの上ない。彫りが深く整った顔立ちを彩る金色の目はまるで宝石のよう。豊かな長い金の髪を高い位置でくくり、シルバーのバックル状のヘアカフスを身に着けていた。


 神々しいとすら思える外見の男性だが、先の軽すぎる謝罪の言葉に加え、明らかに焼いているこんがり小麦色の肌で、少々ラフすぎるタイトな黒Tシャツと黒パンツ、更にチープなアクセサリーをジャラジャラと身に着けているとなれば、正直言って彼に対する認識は変わってくる。


 というか、アレだ。ギャル男じゃん。


 私の目の前に立つ推定ギャル男はケラケラと笑いながら、実はさぁ、と聞いてもいないのに勝手に話し始めた。


「あのトラックってやつ? こっちの世界に旅行に来て、一目見た時から動かしてみたかったんだよねー。そしたらちょうど誰も乗ってないヤツが置いてあったからさ、ちょっと拝借したんだよ。あれマジでヤバイな! 動かすのめっちゃ難しい!」


 このギャル男、もしかしてとんでもないことを口走ってない?


「んで、上手く動かせなくてさぁ、アンタに突っ込んじゃったんだよね」


 なんの悪びれもなく言い放たれた言葉に、我が耳を疑った。ちょっと待って、もしかしなくても私とマロンが死んでしまった原因って……?


 ……いやいや、もしかしたら私の勘違いかもしれないから、一旦話を整理してみよう。


 このギャル男は、トラックを運転してみたかった。そして、誰も乗っていないトラックがあったから、拝借して運転した。その結果、運転を失敗して私に突っ込んだ。


 ……やっぱり何度考えても、私たちが死んだ原因コイツだ!


「ちょ、ま、アンタのせいで私たち死んだの!?」

「うん? あー、ま、そういうことだな!」

「少しくらい悪びれろ!」


 コイツ、全然罪悪感抱いてない! ある意味で清々しさすら感じるよ! あまりの衝撃に恨み言よりも先にツッコミが出ちゃったじゃん!


 大きな声を出したからか、マロンがびっくりして私の腕から飛び降りる。しかしこうなった原因が目の前の男にあるということは分かったらしく、フシャー! と勇ましく威嚇をした。ああもう、マロンったらなんていい子なんだろう。


「おおっと、そんなに怒らなくてもいいじゃん」

「どの口がそれ言う?」

「えー、アンタも怒らなくていいじゃんかぁ」

「私たちのことうっかり殺しておきながらなんでそんなにお気楽なの?」


 ギャル男の態度が腹に据えかねて、思わず早口でまくし立てる。しかしやはりというか、この男にはまったく響いていないようだ。明らかに自分に非があるなんて思っていない様子のギャル男は、先ほどから変わらずヘラヘラ笑っている。


 なんだろう、これってもしかして、怒っているこちらだけが疲れるとかいうやつでは?


「……はぁ」

「どうしたどうした。えーと、この世界? 国? ではこう言うんだっけ? 溜め息をついたら幸せが逃げるぞ!」

「私たちを不幸のどん底に陥れたのアンタなんですけど?」


 ここまで話が通じない相手は、私の短い人生で初めて出会った。出会いたくなかった。


 死んでいるはずなのに頭痛がしたような気がして、私は思わず頭を押さえる。この動作の意味が男には分からなかったのか、彼はこてんと首を傾げた。ちくしょう、見た目はいいから妙に様になっているのが悔しい。


 私が心の中で歯ぎしりしているなんて知らないであろうギャル男は、そうそう! と言いながら、今までで一番キラキラしている笑顔を浮かべた。


「さっき話した通り、アンタが死んだのは完全にオレのせいだから、詫びも兼ねてなんでも願いを一つ叶えてやるよ。ただし来世で!」


 上から目線でものを言われるのが若干腹が立つが、それよりも願いを叶えるって、いったいどういうことなのだろう。


「あの、言っている意味がよく分からないんですが」

「だーかーらー、願いを叶えてやるって言ってるんだよ。オレ神様だからな」

「はぁ?」


 寝言は寝て言えとはよく言ったものだ。目の前のこのギャル男が神様? そんなもの、信じられるわけがない。そう、信じ……いや、確かに容姿は人間離れしてるけど、だからと言って神様なんて。


「こんなのが神様だなんて絶対イヤ」

「うわー、ヒデー言われよう」


 ギャル男はまたもケタケタ笑った。どうやら私の正直すぎる発言で気分を害したりはしていないようだ。この自称神様、悪意も悪気もないし適当だしかなり調子がいいけれど、少なくとも度量はそれなりに広いらしい。


 いろいろと馬鹿らしくなった私は、また溜め息をついた。これは自称神様に絡まれることに対しての諦めの溜め息だ。もういい、ギャル男の言うことを話半分に聞いてやろう。


「ええと、アンタ……じゃなかった、あなたは神様なんですよね」

「そうだぜー。オレに叶えられない願いはそんなにないから、なんでも言ってくれよ!」


 ただし来世でしか叶えてくれないんですよね、なんて言えれば良かったけれど、そんな元気もないので私は押し黙った。


 願い、か。改めて聞かれると、意外なことにすぐには思い付かない。美人になりたい? もしくはお金持ちの家に生まれたい? それともすごい能力が欲しい? そんなありきたりなことが思い浮かんだけれど、どれもしっくりこない。


 しばらくうんうんと悩んでいた私の耳に、ふすふすというマロンの荒い鼻息の音が届く。どうやら彼女はまだギャル男を威嚇していたようだ。尻尾が膨らんでいる。

 私はその場にしゃがんでマロンの頭を撫で、彼女を抱き上げた。ふかふかで柔らかいマロンの体は温かく、とくとくと人間よりも早い鼓動が私の両腕に伝わってくる。愛おしい私の大切な家族。


 やっぱり、私に必要なのはこの子だ。


「私の願いは、来世でもこの子……マロンと一緒に暮らすことです」

「え、そんなのでいいの?」

「はい」


 私の願いが意外だったのだろう、自称神様は目を丸くしている。ぱちぱちと何度か瞬きをした彼は、ふうむ、と何やら考えるような素振りを見せた。


「うーん、どうすっかな」

「ニャー、ニャァ」


 私の願いを後押ししてくれているのか、マロンもニャーニャー鳴いている。相変わらずうちの子可愛い。そしてこの鳴き声に男も絆されたのか、彼は私とマロンを交互に見つめてから、へら、と締まりのない笑みを浮かべた。


「分かった。願いは聞き入れよう」


 その声には、今までの男の態度からしたら考えられないくらいに厳かな響きがある。自称神様かと思っていたけれど、もしかして本当に神様だったのだろうか。

 そんなことを疑問に思う間もなく、男は続けざまに口を開いた。


「それでは良い来世を!」


 辺りに金色の粒子がふわりと舞い上がる。神秘的なその光景に思わず見入ったのとほぼ同時。


 私の意識は、ふつりと途切れた。

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