ルール

 水屋とは、お道具を清めたり、お炭の準備をしたりする場所。

 中井さんの指示で、綺羅さんはお茶碗をすすいでいる。わたしはそのうしろに座った。

「さっちゃん、年の近い子が増えてよかったじゃない。ずっと年上に囲まれてきたから、年下の子は新鮮でしょう」

「聞いたぜ。来年は一華庵でお点前をしたいって言ったんだって? ライバルができてよかったな」

「冗談じゃないですよ」

 わたしは声をひそめる。

「あんなド素人の子に、つとまるはずがありません」

「さあ、それはどうかしらね。タエ子先生、かなり本気で考えているかもよ」

「来年の茶会は、中井さんとやっちゃんかもだな」

 冗談でも、そんなこと言わないでほしい。真顔になったわたしに、中井さんと綺羅さんはキャッキャと笑う。ひとごとだから面白がれるのだ。わたしはちっとも面白くない。ベテランの中井さんはともかく、茶道に熱心じゃない綺羅さんに言われるのは腹が立つ。

「ジョーダン、ジョーダン。一年で、そこまでうまくなりっこないさ。アタシだって、全然だもん。くやしいけど、さっちゃんに追いつけないってわかってるし」

 綺羅さんは手をヒラヒラさせて、準備にもどる。

 茶巾(ちゃきん)たらいの水で、茶筅(ちゃせん)をバシャバシャすすぐ。寒いこの時期、水はかなり冷たい。水屋にお湯は存在しない。準備で使うのはすべて水だけ。最後の片づけのみ、お釜のお湯を使う。

「じゃ、最後に茶巾をたたんでね」

「……どうやって、たたむんでしたっけ?」

 ペロッと舌を出して、綺羅さんは中井さんに教えてもらう。もう二年もやっているのに、そんなことも覚えてないのか。わたしは心の中で、ため息をついた。

 わたしに追いつけないのも当然。くやしいだなんておこがましい。本気でくやしいと思っているのなら、もっと努力してほしい。

 水屋に逃げたことがばかばかしくなって、自分の席にもどる。

「さっちゃん先輩! みててください! いち、に、さん。いち、に、さん。カンペキです!」

 自慢げに言わないでほしい。

「上手よやっちゃん。その調子よ。足さばきは基本中の基本だからね」

 そう、おそろしい。足の運び方ひとつで、上手い下手が丸わかり。茶道は、そんなこわい世界。なめてかかるものではない。

「家でも練習します!」

「やる気十分ね。ちょっと休憩して、綺羅さんのお点前を見ましょうか。大まかな流れと、お道具の名前を教えるから、今日は聞きながせばいいわ」

 先生は、いつもより生き生きとしている。やっちゃんの反応が新鮮で、楽しいのだろう。

「さっちゃん」

 ようやく、名前を呼ばれた。言われなくても、何をすればいいのか分かっている。立ち上がって、奥へ下がる。お菓子が盛られた食籠(じきろう)に、水にぬらした黒文字(くろもじ)を置く。茶道口に向かった。黒文字とは、木のクロモジからつくった、お菓子を取る専用のおはしだ。

「私のところに」

「はい」

 さっさと歩いて、先生の前へ座る。

「ほんとうに、三歩で歩いている」

 やっちゃんのつぶやきは無視だ。キラキラしている目も、無視だ。

 食籠をおいて、礼。ひざをくって、帰る。

 お点前の準備ができた綺羅さんは、茶道口の近くに座って待っていた。そわそわしている。

「見慣れない人がいると思うと、なんか緊張するぜ」

「そうですか」

 それは、ふだんからきちんと稽古しないからでしょう。そんなひどい言葉を飲みこんだ。綺羅さんとは、なるべく話したくない。

「なにかアドバイスくれよ」

「やっちゃんのことなんて、気にする必要ないわ。はなからいないと思えばいいのよ」

「うわ、ひでえ」

 いつもの調子がでてきたのか、ケタケタと笑う綺羅さん。わたしは、席にもどる。中井さんも席についていた。

 萩焼(はぎやき)の水指を前に置いて、礼。


 総礼


「やっちゃん、頭が低すぎよ。土下座しているわけじゃなんだから、もう少し上にあげて」

 やっちゃんは、あわててうでをのばした。

「もうちょっと、曲げてもいいかもね」

 先生は、やっちゃんのうでを持って、少しだけ曲げてあげる。手とり足とり。お点前までの道は、まだまだ長そうだ。

 綺羅さんは、よっこいしょと声をだしながら、水指を持って立ち上がる。かなり重そうだ。

「こら、じじくさいこと言わない。だまって立ち上がる」

「はあい」

「一足立ちと言ってね、足の指に力をいれて、その場ですっと立ち上がるのよ。これも練習あるのみね」

 先生の解説がはいる。綺羅んは、ぎこちなくに前へ進む。やっちゃんは、食いいるように綺羅さんを見つめている。確かにこれはやりにくい。茶会のときも、やっちゃんの目線がかなり気になった。

 本日の棚は二重棚である。前に座って、地板のない棚の下に、水指を置く。

「ふう」

 ため息をつく綺羅さん。気持ちは分からなくないが、さっき声を出すな、と注意されたばかり。タエ子先生のふくむような笑みに、綺羅さんの口が引きしまった。中井さんも口を開きかけて、閉じた。

 立ち上がって、茶道口へもどる。次は、道具がセットされた茶碗を持ってくる。

「先生、質問です」

 手をあげたやっちゃん。

「この前のお茶会で、さっちゃん先輩はお茶碗とお茶の入れ物を持って、ごあいさつしていました。でも、きら先輩は別のものであいさつしています。なにがちがうんですか?」

「お茶が入っているものは、お棗(なつめ)と呼ぶの」

 綺羅さんはお茶碗を仮置きして、棚に置いてあったお棗に手をのばす。下におろして、お茶碗と置きあわせをする。

「それでさっき持ってきたものは、水指といってお水がはいっているの。

 ご挨拶をするときに、前に置く道具は変わるのは、棚やお点前によってちがうからなの。ルールがあるのよ」

「ルール」

「うちの流派で決まっているのは、ただ一つ。畳を踏み入れる足は左から。これだけよ」

「それだけなんですか」

「そう。ぶっちゃけね、美味しいお茶を出せるなら、なにをやってもいいのよ。

ただ、いま私たちがやっているお点前が、もっとも美味しいお抹茶が出せるただしい手順だと考えられているの。だからそうしているだけよ。もっといい作法が考えられたら、時代とともにそう変化していくでしょうね」

「ふうん」

 やっちゃんは、興味なさそうに返事をした。

「やっちゃんは、まずルールを学ぶことね。茶道にはいっぱいルールがあるのよ。原則と、例外がね」

 茶道は、その例外が山のようにあってむずかしい。わたしもまだまだ学ばなければ。綺羅さんのお点前に集中することにした。背筋をのばしなおす。

 綺羅さんは建水を持って、再び棚へ。

「あの入れ物は建水と呼ぶの。お茶碗をすすいで汚れたお湯や水を入れるものよ」

 いま持ってきた建水のなかには、蓋置が入っており、上には柄杓が置かれている。

 蓋置を手に取って、ななめを向く。柄杓も手に取って、蓋置の上に流す。


 総礼


 みんなにならって、やっちゃんも礼をする。今度は、きっちりとした礼をした。

「いいわね」

 タエ子先生はうれしそうだ。

 綺羅さんは居ずまいを直して、一息ついた。そのまま、お茶碗に右手をのばそうとする。

 ちがう。そうじゃない。

 タエ子先生のほうを見れば、にこにこしたまま、なにも言わない。指導は中井さんにおまかせみたいだ。

「建水を上にあげて」

「おっと」

 綺羅さんは右手をひっこめて、左手で建水をあげた。その手でお茶碗を持つ。右手に持ち直して、ひざの前に置く。お棗も取って、茶碗の前へ。

 朱色の帛紗(ふくさ)を取って、パチン、と音をだす。するすると折り紙のようにたたんでいく。

「オレンジ色のやつ、ハンカチみたいですね」

「あれは、帛紗というの。道具を清めるために使うのよ」

「ふくさ」

 やっちゃんは、何度かつぶやき、覚えるように言葉を飲みこんだ。

「帛紗さばきも、茶道の基本よ。複雑そうに見えるけど、体がすぐにおぼえるわ」

 お棗の蓋をふいて、決められた場所に置く。帛紗をたたみ直して、次は茶杓をふく。

「スプーンみたいですね」

「茶杓ね。あれで抹茶をすくうのよ」

 やっちゃんは、なんでもかんでも身近なものに例えている。

 綺羅さんは、茶杓をお棗の上において、茶筅をそのとなりに立てる。

「あれは、茶筅よ」

「泡だて器」

「泡だて器」

 言うと思った。ぐうぜん、やっちゃんと声を合わせてしまった。顔を見合わせる。

「仲良しね」

 先生はやっちゃんにほほえみ、わたしに冷たい目を向けた。わたしは黙ってうつむいた。

「抹茶を点てるために必要不可欠なものよ。これがないと、茶道はできないわ」

「ちゃせん」

「今、お茶碗からだしたのは茶巾。茶道用のふきんね。これも決められたたたみ方があるから、覚えてね」

「覚えること、多いですね……」

「あら、いやになった? そんなのじゃ、お茶会でお点前なんてできないわよ」

 挑発的にいうタエ子先生。やっちゃんは、ぐっと、あごを上げた。

「とんでもない。やります! 覚えます!」

 どうしてそんなにやる気があるのだろう。そのままあきらめてくれればいいのに。

やっちゃんを見れば、にかっとまぶしい顔を向けられた。そこに悪意はない。

 やっちゃんは、じいと綺羅さんの手元を見つめなおす。綺羅んは電池の切れかけたスマホのように、ぎこちない動きで茶筅すすぎをはじめた。

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