葉っぱの本
いつからここにいたのかはわからない。
いつからこの男が傍にいてくれたのかはわからない。
いつから京一と名乗り始めたのかはわからない。
記憶は途切れ途切れになっていた。
いつから暗闇が好きになったのかはわからない。
いつから話し声が嫌いになったのかはわからない。
いつからこの男の声だけが嫌いではなくなったのかはわからない。
いつから男が本を創りたいと言い出したのかはわからない。
いつから千枚通しを持ち始めたのかはわからない。
細切れにしか眠れなくなっていた。
静寂な夜は起きていたくて。
騒音の朝昼は眠っていたくて。
いつからだろうか。
一日ぜんぶが煩くなって。
細切れの眠りの時間がどんどん短く少なくなっていって。
いつからだろうか。
この男の低くて抑揚のない声が聞こえる時だけ。
この男が考えたのだろう面白くもない文章を聴いている時だけ。
安心して眠れるようになったのは。
いつからだろうか。
男が謝り始めたのは。
男が傷だらけで帰ってくるようになったのは。
男が痩せこけた身体になっていったのは。
男が葉っぱを持って帰ってくるようになったのは。
男が葉っぱを木の棒で削って絵を書くようになったのは。
男が俺に千枚通しで穴を開けて蔦を通してくれと頼むようになったのは。
いつだったか。
或る組織の頭である男に手伝いを申し出たのは。
男は言った。
本当は本が創りたい。
みんなで紡いでいく本を。
だけどまずは生きて行く為に。
生きて、叶えたいから。
犯罪に手を染めるのだと。
男は言った。
組織はもうだめだ。
せめてここだけでも助け合う家族だったはずなのに、疑心暗鬼に陥って傷つけあってばかり。
捕まったらまっとうな世界に行けるのかと。
捕まったってまっとうな世界には行けないと知っているはずなのに。
ここでは。
無理だ。
だからせめてここだけでも。
この男と、この男の家族だけでも。
護ってやりたいと思ったのだ。
絵を描けない俺には、そっちが似合いだ。
『あんたはもうずっと絵を描いてろ。文字を覚えろ。俺が護るから』
護ると。
言ったのに。
「俺は、もう。あいつの家族を奪ったやつらを殺すことしか。やつらの家族を殺すことしか」
わからない。
わからない。
わからない。
多くを考えられないんだ。
これしかやることが考えられないんだ。
だって俺にはあいつの絵の続きを描けないから。
夜が好きだった。
音も形も色もなにもかもを吸収する暗闇。
ずっとずっとここにいられればよかったのに。
「ごめんな」
京一は確かに謝った。
理由はわからない。
ただ謝るべきだと思った。
これから殺す相手に。
凛香に。
(2022.2.24)
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