第16話 チェンジリング
そう決意を胸に長谷川を追い、舞台の幕を潜り抜けた先は衣装の森だった。
不思議と静寂に包まれている。
「待て!」
フレアの柔らかなドレス、バラの香水の香り、繊細な装飾のレース、その隙間をひらひらメイド服を翻らせた彼女が駆け抜けていく。
アクセサリースタンドに掛かったネックレスが揺れる。ディスプレイされたハイヒールが棚から転げ落ちた。
背後で鳴り響く破壊音と衝撃音を他所に、高萩が薔薇の匂いの充満したドレスの花畑を抜ける。ひどく、広い。全てのサイズが同じであることがひどく頭にこびりついた。
長谷川を追って衣装を掻き分けた先、次の部屋は風呂場だった。
タイル張りの床、壁、天井。猫脚のバスタブ、金色のシャワーヘッド、網目状の椅子。シャンプー、リンス、トリートメント、ボディーソープ、スクラブ、フェイスウォッシャー、ボディタオル、入浴剤。
全ての揃った、一部屋分はゆうにある広い風呂場。
女性向け商品の花の甘い香りの隙間から水の匂いと気配に溢れていた。
これまでと違ってたった1人のためだけに用意されたとわかる、全て同じサイズの洋服も靴も、香りも。クローゼットとしては普通のことであるはずなのに、どこか現実離れしていて。
ただ一つ、先を走る長谷川百合子がこの室内で浮いていることがひどく引っかかった。この家で唯一の女性は彼女のはずで。先に誰か女性がいるのか。
……まだ、ほかに“人形”が。
そう頭の片隅で浮かんだ思考を否定も肯定もする時間すらなくたどり着いた、風呂場の次の部屋は誰かの寝室だった。長谷川百合子を追いかけた先、その寝室で最も目立つ、静謐なベットに“彼女”は横たわっていた。
唖然と目を見開いた高萩がそれを凝視する。その寝室にある全てものがどうでも良くなる程視線が吸い寄せられた。
それは咲き誇る直前の大輪
完成を目前に控えた彫刻、サインを入れるだけの絵画、海の底で眠る沈没船、甘く熟れはじめた香り立つ桃、まち針が刺さったままのドレス、風のない水面、台座にはめる前の宝石、オーケストラのチューニング、夕焼けの一番星。
朝焼け、日の登る直前、マジカルブルーに染められた世界。
降り頻る雪、誰も足を踏み入れることのない森の中、純白の雪。
日がさした瞬間、花畑、滴り落ちる朝露。
そして、針と薬品に浸された蝶々の標本。
高萩の言葉では言い表すことの到底できないナニカがベッドに横たわっていた。必死に言い表そうと焼けるほど激しく廻りだした脳がありとあらゆる情景を思い浮かべては打ち消す。非現実的なソレの胴と脚は掛け布団に覆われているが、少なくともそれぞれ一つはある。正常に人の形をした膨らみが変に現実的でどうにかなりそうだった。
そのナニカは少なくとも枝葉末節だけに注目すれば人間のように見えた。
布団に覆われた胴と脚があって、鎖骨があって、そこから伸びる二本の腕があってその先には五本指の手がついていた。白い首が支える頭部は一つだけであるし、前方の中央に一つの鼻と閉じてはいるが二つの目、その上に二本の眉があって、鼻の下には口がついていた。唇の隙間からは白い歯が覗いていたし、後頭部は豊かな長髪で覆われていた。
金色の緩くウェーブのかかった髪がシーツに一度きりの模様を作る。どんなシルクよりも柔らかくどれほど手間暇かかった刺繍よりも鮮烈なそれ。その髪に指を埋めたならどれほど柔らかいのか。血液に混ざるような欲望が全身を巡り、流れに合わせて産毛が総毛立つ。
髪の中央に埋もれた頭部にはツンと高い鼻が少し緩慢でかわいらしかった。その鼻の先にいつまでも立ち続ける栄誉を欲して全神経が泡立つのを感じたい。脳の隅がジクジク溶けてどうにかなる。自分が崩れていく。
その上の閉じられた瞼から金細工のような繊細で長いまつ毛がその顔に影を落とす。その目からこぼれ落ちる涙の全てが真珠となって転がり落ちても何も疑問はなかった。その眠りを妨げないように高鳴る心臓を押さえつけた。喉を締められたように呼吸がうまくできない。
更にその上で眉が計算し尽くされた綺麗で完璧な弧を描いている。その眉が潜められる前にその障害の全てを破壊し尽くしたいと願った。もし彼女が微笑んだならどの様に垂れるのか。あるいは跳ねるのか。何を失ってもその一欠片の情けで全てが報われる気がした。
そして極め付けは艶めくふっくらした唇。色付いたそこが何か言いた気にほんの少しだけ開いていて、思わず彼女の持ちうる全ての意思を願いを望みを叶える為に耳をそば立てた。
白く滑らかな肌が柔らかな曲線を描く頬を、シャープな顎を、折れそうな首を、嫋やかな指先を覆う。触れるなど烏滸がましい。許されるわけがない。それでもなお触れることが許されるのなら――。
脳髄の底へ至るまでの全て、指先の裏側から心臓まで全てをかきむしり皮を剥ぎ骨の髄まで確認したいと思うほどに全てがそこに横たわる彼女に支配されていることを感じた。骨の上を直接無数のシビれが這いまわる。
自らの指先の細い細い血管が疼く。心臓が勤勉さを見せつけるように血管を破るほどの強さで働いている。神経すらそのナニカを読み取ろうと皮膚の下でじわじわその手を伸ばす。混乱でまとまらない思考以外の全てが今この目の前で横たわるナニカの全てを読み取ろうと必死になって暴れる。
自らの細胞一欠片に至るまでそちらを意識しているのがわかった。それ以外の全てが些事だった。
理解できないそれを構成する全てが蕩ける幸福で満ちていた。
ふっと、そのベッドの上で横たわるそれが白と黒で隠された瞬間、体の制御が彼の元へと戻る。何秒か何分か何時間か。どれほど経ったのかわからない。背を滑り落ちかけていた多比良を腕に力を込めて支え直す。肺から入った息が身体と脳を冷やしていく。何をいうべきかわからない。無意味に何かを言おうとしただけの唇が震えた。
視線が長い黒のワンピースと真っ白なエプロンを視線がなぞってのろのろ上へと上がる。
長谷川がその緑がかった瞳をまっすぐ高萩へと向け、そのいつもの困ったような眉を懸命に吊り上げようとして失敗したような顔で、それでも眉間に皺を寄せ、後ろを守るように両手を広げて立っていた。
きゅっと結んだ唇の端、白い肌の上で居直った黒子がひどく印象的だった。
「それ、は……、誰だ。」
高萩の締まりきった喉からひどく情けない掠れた声が空気と共に漏れた。囁きよりも小さく、悲鳴よりも切実な響き。
魅了と抗い難い被支配欲から逃れた解放感に思わず安堵する。
「長谷川 薔薇。私の、妹です。彼女は私が守ります。」
――出て行け。
そう聞こえる声で彼女の明確な拒絶が両者の間に見えない渓谷を作り上げた。
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