12月24日(金)12:30 〈朝飛と夕梨のクリスマスイブ〉
街の中心部からは、少し離れた小さな駅。そこから15分ほど歩いたところにある、1人暮らし用の3階建てマンション。205号室。
部屋番号を何度も確認してから朝飛がインターホンを押すと、少ししてから機械越しに「はい」という擦れた声が聞こえた。
こういう時はなんと返すのがいいんだろうと、今更になって慌ててしまう。初めて来たせいか、何故か気恥ずかしい。友達相手なら全く気にしないのに。
「あー、えっと…」
「朝飛くん?」
「…そうです」
何とも情けない感じになってしまった。ピッという音がして、インターホンの接続が切れたのが分かる。
そして玄関ドアの向こうが少し騒がしくなったと思ったら、すぐに“ガチャリ”と鍵が外れる音が聞こえた。
なんてことだ。ろくに確認もしてないんじゃないか。もし俺じゃなったら危なすぎるだろ、と朝飛は不安になる。今度ちゃんと夕梨に言わないと心配だ。
――けれど、今日はそれどころじゃない。
朝飛の心中がざわついているうちに、ゆっくりとドアが開いていく。頬が赤く目をとろんとさせた夕梨が、部屋着のまましんどそうにドアを押さえている。
「ごめんね、まさか来てもらえるなんて…」
「当然だろ。気にしなくていい」
ふらつく夕梨の代わりにドアをおさえ、朝飛は「おじゃまします」と玄関の中に入った。
「本当に、何もない部屋なんだけど…」と気まずそうに言いながら、部屋に戻る夕梨についていく。
間取りはごく一般的な1Kだ。部屋には統一感のある木のテーブルやベッド、本棚が綺麗に配置されている。まるでモデルルームのように物が少ないが、部屋の中心に置かれた緑のビーズクッションとベッドの上のぬいぐるみからは生活感を感じられて、なんだかほっとする。
これが別の時だったら、初めて彼女の家に来た緊張感を味わっていたかもしれないと…朝飛は思った。しかし、今日はとてもじゃないがそんな気にはなれない。
「とりあえず、薬とかいろいろ買ってきたから。熱は?」
「わかんない。体温計なくて」
ぼんやりした顔で立ったままの夕梨に手を貸して、ゆっくりベッドに座らせる。朝飛も目線を合わるようにベッドの横に跪き、彼女の額に手を当てた。予想以上に熱い。
「…それも買ってくる。夕梨はこのまま少し寝てろ。枕元にスポーツドリンク置いておくから」
「ありがとう。ごめんね」
「食欲は?」
「あまり…」
「そうか。そしたらゼリーは冷蔵庫に入れておく。食べられそうだったら、レトルトで悪いけどお粥もあるから。他に欲しい物とかあるか?」
夕梨が下を向いて、数度首を振った。
…弱った夕梨を見ていると辛くなる。
「じゃあ体温計だけ買ってくるから、待ってろ」
すぐに戻ってくるから。
そう言って朝飛が立ち上がろうとすると、服が引っ張られた。
夕梨が朝飛の服の裾を、弱弱しく掴んでいる。
「夕梨……どうした」
「…………ね」
小さく擦れた声。夕梨が下を向いているせいで、余計に聞き取れない。
朝飛はもう一度跪いて、夕梨の顔を覗き込んだ。
夕梨は目にたっぷりの涙を溜めていた。
「な、夕梨…」
「ごめんね」
絞り出すようにそう言った夕梨。潤んでいた目からは、留めておけなかった涙がボロボロと零れ落ちていく。
「こんなつもりじゃ、なかったんだよ」
「…今日のことか?そんなの、全く気にしなくていい。スケートはまたいつでも行ける」
「そうだけど…そうじゃないの」
夕梨の目から涙が止まらない。
流れ落ちていくままにしたくなくて、朝飛は咄嗟に近くのティッシュを取り、夕梨の目の下に当てた。
大粒の涙が、どんどん染み込んでいく。
「なんで。私はこんな、なのに。どうしてそんなに、朝飛くんは、優しいの?」
「どうしてって、」
「今日のこと、いろいろ考えて。朝飛くんにいつも、たくさんしてもらってる分、ちゃんと返さなきゃって。なのにこんなことになって」
「だから、そんなこと」
「もうき、嫌われても仕方ないって、思ったの。でも朝飛くんが、優しいから、もう、どうしよう」
…高熱のせいだろうか、夕梨の呼吸は荒い。そのうえ震えていて、言葉もまるで普段閉じ込めているものが全部零れ出てしまっているようだ。
外ではいつも澄ました顔をしている彼女が、こんな風になるなんて。
泣いてる彼女なんて見たくない。でも、どうすればいいのかが分からない。
嫌いになんてなるわけない。どうしてそんなことを思ったのか聞かせて欲しい。どうか泣かないで欲しい。辛い理由を教えて欲しい。助けになりたい。
言いたいことは山ほどある。それなのに、上手く言葉が出てこない。躊躇してしまう。なんで俺はいつもこうなんだ。
俺は、ただ――
――大切な人を、大切にしたいだけなのに。
気づけば、朝飛は夕梨を抱きしめていた。
驚いた彼女の涙が、肩に染みこんでいくのが分かる。
(…そうだ。夕梨を不安にさせるものなんて、全部俺に流れてなくなってしまえばいい)
「なんで俺が夕梨を嫌うんだよ…ありえないだろ」
だが、一番に出てきた言葉はそれだった。朝飛の声が夕梨の耳元で低く響く。
すると少しぎこちなく、夕梨の手が朝飛の背中にまわされた。その感覚と温度に、朝飛は少しほっとする。
夕梨は、しばらく静かに泣き続けていた。
そのまま、どれくらい時間が経っただろう。
数分かもしれないし、数十分かもしれない。夕梨が落ち着くまで、朝飛は無言で抱きしめていた。
そうして徐々に、夕梨の呼吸が落ち着いてきた頃。彼女は震えた声で、少しずつ話し出した。
「でも、朝飛くん…うんざりしてたんじゃ、ないの?私がいつも、何もしないから」
「なんだよそれ。そんなことあるわけないだろ」
「…嘘。だって本当は、聞いちゃってたの、先週。あ、朝飛くんが水野くんに、『自分ばっかり頑張らされてる』って話してるの」
「ちょっと待って。俺はそんなこと言った覚えはないし、なんのことだか…」
「先週の、木曜日だよ。カフェのきゅ、休憩室で、水野くんと…覚えてない?他にも…主体性がない、とかいろいろ…」
意を決するように、夕梨はか細く息を吐いた。そして、
「だから、私…反省して。このままじゃいけないって、思って。頑張らなきゃって。それなのに…」
再び朝飛の肩に顔をうずめてしまった。
よくわからないが、自分はどうやら夕梨を傷つけてしまったらしい。朝飛は必死に頭を働かせる。先週の木曜日は確かに水野と話していたけれど、だからと言って思い当たる節は……
いや、あった。
「…ごめん。確かに俺は、あの日水野に不満を言ってたと思う。でもそれは、夕梨のことじゃない」
「どういうこと…?」
夕梨がビクッと震えて、朝飛にしがみつく。
言葉で説明するよりも見せた方が早いと、朝飛はポケットからスマートフォンを取り出した。
今も1日に数回は開いているアプリを起動して、夕梨を自分の体からゆっくり引き離す。
画面を見せると、夕梨は混乱した顔で、数秒フリーズしてしまった。
「えっと…“わく島”?」
「そう」
「これがなんで…」
「こいつら自分の島のことなのに、道とか橋とか作る資金、全然協力してくれないんだよ。だからこいつらの島の設備は、全部俺が1人でつくった」
「それはそういうゲームだからだと思うけど…嘘、待って。もしかして、主体性がとかって、言ってたのは」
「こいつらのこと。とくにこのキツネがひどい。隙あらば、面倒事をさりげなく俺に押し付けてくる。次々ローンも組ませてくるしな」
「ごめん、ちょっと混乱してきた…でもなんで朝飛くんが“わく島”を?」
「それは…夕梨が前に『面白そうだな』って言ってたから、その…予習というか、試しにというか」
今日はまだ言うつもりの無かったことを言う羽目になり、朝飛は急に照れがきて、つい口ごもってしまう。
一方の夕梨はまた数秒フリーズしていた…かと思えば、真っ赤な顔でベッドに倒れ込んだ。
そしてすぐ、布団を顔にかけて隠れてしまった。
「…だめ、もう死んじゃう」
「それはだめだ、絶対」
布団の中から聞こえた微かに声に、朝飛も小声で返事をする。
そして、布団をかぶってしまった夕梨の頭を撫でた。するとさらに深く布団に潜ってしまう。その様子がなんだか面白くて可愛くて、くすっと笑いがこぼれる。
だが同時に、状況が呑み込めたことで、朝飛の頭にもある疑問が浮かんだ。
「なあ。俺と水野との話で夕梨が聞いてたのって、そのゲームの件だけか?」
「え…たぶんそうだと思うけど……もうわかんない」
「24日は夕梨とどこに行く、っていう話もしてたんだけど」
「そうなの?」
…なんてことだ。お互い見事に勘違いして、こんなにも頭を悩ませていたのか。特に夕梨には辛い思いをさせた。「ちゃんと話せてよかった」とか思っていた、先週の俺をぶん殴ってやりたい。そう思うと、深いため息が出てしまった。
すると夕梨が、不安そうに少しずつ布団から顔を覗かせた。
「…ごめんね」
「なんでこの流れで夕梨が謝るんだよ」
「だって私がバカな勘違いしたせいで、朝飛くんのこと振り回しちゃったから」
「それは俺の方だよ。いつも何も言わなくて…言葉が足りなくてごめん。ちゃんと話せてれば、夕梨をこんなに不安にさせることもなかった。でも、」
ここでまた「ごめんね」と言いかけた夕梨を手で制して、朝飛は話し続けた。
これ以上彼女に謝らせたくないし、自分も「ごめん」だけで終わりにしたくない。
今日からちゃんと変わりたい。だから、
「ありがとう。この1週間、俺のために頑張ってくれて。たくさん傷つけたのに、それでも俺を必要としてくれて。気持ちもちゃんと伝えてくれて…ありがとう。だから俺も、もう二度と夕梨を不安にさせないように…これからは全部、ちゃんと伝えるようする」
そして朝飛は夕梨の髪をなでて前髪を少し払うと、額の中心にキスをした。
夕梨の震えと熱が全部、唇を通して伝わる。
「夕梨が思ってるよりもずっと…俺は夕梨のことが大好きだよ。クールに見えて実は繊細で可愛らしいところとか、いつも一生懸命なところとか、他にもたくさん。全部…愛してる」
普段の自分なら、絶対に言えなかったと思う。でも今なら何でも言える。恥ずかしさや照れなんてものは全部吹っ飛んでいた。
…いや、もしかしたら後から恥ずかしくなるかもしれないが。けれど今は、後のことなんてどうでもいい。
「熱が下がって夕梨が元気になったら、クリスマスは仕切り直そう。スケートも行きたいし、あと実はプラネタリウムも一緒に行きたいって思ってる。夕梨は確か、星座とか好きだよな?」
「うん…大好き」
「良かった、じゃあ治ったら行こう。あと夕梨が好きなものも、これからはたくさん教えて欲しい。というか…夕梨のことなら俺は、何でも知りたい」
「えっと…ちょっと待って」
「どうした?」
「なんか朝飛くん急に…すごく、その…」
それから先は言いよどんで、きょろきょろと恥ずかしそうに視線を動かす夕梨。キスをしてからずっと顔を赤くしている。
その様子も可愛くて、朝飛はまた髪をなでた。
「すごく…余裕がなくてダサい?」
「そうじゃなくて。ただ、その…甘すぎて……」
「嫌なら控える」
「嫌、じゃない…です」
「なら、早めに慣れてくれ」
それはどういう…と照れながら戸惑う夕梨。また愛おしさがこみ上げる。
しかし、夕梨の体調を考えるとこれ以上喋っているわけにはいかない。早く治してもらわないと。
「続きはまた話そう。夕梨はそろそろ寝た方がいい。電気少し暗くするから」
「え、朝飛くんは?」
「俺はこれから体温計買いに行って、またすぐ戻ってくる。その後は…夕梨が嫌じゃなければ、ずっと傍にいる」
――少しの沈黙の後、夕梨が小さい声で「嫌じゃない」と言ったのを、朝飛は聞き逃さなかった。
大切にしたい。だから、ずっと伝えていこう。彼女への想いは全部。
愛してる。だから、ちゃんと受け止めよう。彼女からの気持ちも、全部。
これから先も、ずっと。
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