揺れ

大垣

揺れ

 Nはデスクチェアに座り、マグカップに入ったコーヒーをくるくると揺らしながらパソコンの画面を見つめていた。

 Nの仕事はイラストレーターである。普段は都内の制作会社に勤めていて、テレビや雑誌などの広告からゲームのイラストまで様々なものを描いていた。

 Nは二十二歳の時に会社に入り、そこでもう十年余りになる。会社ではすでに頼れる中堅として期待や信頼を受けていた。Nはよく働き、仕事に関しては他の同期や社員よりも上手くやれているという自負と、揺るぎないプライドを持っていた。

 会社自体も制作会社としては大きく安定していた。職場の雰囲気も悪くなかったし、自分の才能を活かせる良い会社だと思っていた。

 実際、Nは昔から絵には自信があった。小学生の頃から絵はよく描いていたし、それを見せて両親や友達から褒められるのが好きだった。勉強よりも暇さえあれば絵を描き、授業中にもずっとペンを動かしていた。Nは高校生の頃には、自分は将来絵描きとして食っていくのだろうということを強く感じていた。

 何よりNは絵を描くことが好きだった。


 Nの自宅は東京の片隅にある。小さな家だったが、それでも東京に一戸建てを構えられただけ十分だった。それに、家には妻が一人いるだけである。余分な部屋は必要ない。

 Nは自宅の二階の一室を仕事部屋にしている。

 机には大きなデスクトップが二枚並び、仕事で使うペンタブやヘッドホンなど様々なものが雑多に置かれていた。隅には顔のない小さなモデル人形も置かれている。書棚にはイラストの資料や漫画、小説などがぎっちりと詰め込まれていた。

 「そろそろ区切るか。」

 Nは椅子にもたれ掛かり、伸びを大きくした。まだ昼間だというのに大きなあくびが一つでた。顔を両手で擦り、早くも目が疲れているのを感じた。

 マグカップに入ったぬるいコーヒーを飲み干すと、それを手に持って階下へ降りた。

 「パスタ食べる?」とNの妻が言った。

 妻はキッチンで鍋に湯を沸かしている。

 「うん貰うよ。」とNは言った。


 妻はNが大学にいた頃に知り合った女である。Nと妻は同じデザイン科だった。三年の春、研究室が一緒になりその歓迎の飲み会でたまたま隣同士になった。妻は春らしい白いブラウスに、ジーンズを履いていたのを覚えている。その時まで、Nと妻は全くお互いに興味を持っていなかった。教室によくいる男(女)程度で、名前もそこで初めて知った。

だが話始めると二人の趣味嗜好はピッタリと合っていた。Nの妻は九十年代くらいの古いアニメが好きで、それがNにとってはとても嬉しかった。Nの妻はそれに関しては博識とも言えるくらい詳しかった。作画や監督、影響関係に至るまで様々な知識と興味があった。結局二人は飲み会が終わるまでずっとアニメや漫画の話をしていた。それから二人は大学でよく一緒にいるようになった。付き合うわけではなく、趣味を語り合う友人のような関係だった。そんな関係が半年ほど続き、ようやくNが交際を申し込んだ。Nの妻はいいよと言っただけで、夕食後、アパートでテレビを観ながらその会話は済まされた。

 そして二人が卒業するまで交際は続き、NとNの妻が就職してから三年目に二人は結婚した。結婚式は挙げず、二人だけで静かに祝った。

 Nと妻は子供を作る気がなかった。二人だけで静かにゆっくりと暮らしていこうという孤独な幸せの共通認識が二人の間にはあった。Nと妻はお互いのことを良く愛していた。


 Nはリビングのソファに勢い良く腰を下した。Nは窓の外を見た。

 Nの家には小さな庭がある。庭には青々とした芝生が敷き詰められ、いくつかの鉢植えが置かれていた。それに加えオリーブとヒメシャラの木が一本ずつ植えられている。

 二本の木はそれぞれ空に向かって広がり、風に枝を揺らせていた。白と灰の雲が音もなく流れ、隣の家の屋根へと消えていくのが見える。

 Nはその風景のどこに焦点を合わせることもなく、ぼんやりと全体を眺めていた。

 パソコンの画面をずっと見ているとこうした外の自然な景色が目に染みた。

 実家にあった金柑の木でも植えたいな、とNはふと考えた。

 Nは自分の体が、段々と衰えているような気配を感じていた。自分はもう三十過ぎになる。いつまでデスクチェアに座り続け、目を酷使し続けなければならないのだろうか。

 Nはテレビをつけた。丁度十二時になる。

 NHKは正午のニュースをやっていた。どうやら今日の朝五時ごろ、震度二の地震があったようである。Nはキッチンにいる妻に尋ねた。

 「ねぇ、今日地震があったみたいだね。」

 「あらそう?気がつかなかったわ。」

 妻はぐらぐらとパスタを茹でながら答えた。

 「二人ともしっかり寝ていたみたいだ。この頃地震が多いね。」

 「そうかしら。それより、お湯を沸かしてスープ作ってくれる?」

 食卓にはきざみ海苔をかけたたらこのパスタと、インスタントのコーンポタージュが並んだ。Nはチャンネルを変え、昼のバラエティー番組にした。

 「仕事は忙しい?」と妻が聞いた。

 「うん、まあまあだよ。そっちは?」

 「私もまあまあね。」

 妻もデザイナーの仕事をしている。休日でも、何かとやっておくことは多い。

 昼食を食べ終え、片付けてしまうとNはまたソファでくつろいだ。テレビを眺めていると、陽光の暖かさで段々と眠気に襲われる。一睡してもいいかもしれない。午後も仕事をしなければならないのだ・・・。

 その日の深夜、Nはベッドでやや強い揺れを感じた。体感で震度三ぐらいありそうだった。妻の方を見てみると静かに寝息を立てていた。

 翌朝、Nはまた妻に尋ねた。

 「昨日の夜も地震があったね。今度は分かったよ。」

 「あら本当?また私分からなかったわ。眠りが深いのね。」と妻はとぼけた顔をして言った。

 「君はぐっすり眠ってたよ。鈍感だね。」

 「そうみたい。」

 Nは職場に行く途中、歩きながらまた揺れを感じた。今度も深夜に感じたのと同じくらいの揺れだった。

 「やれやれ、一体日本はどうなっているんだ。」とNは独り呟いた。どこかで大きな地震でも起きたのだろうか。電車が止まらなければ何でもいいが。

 その日の仕事で、Nは珍しくミスをした。些細なミスだったが、作業に中々の遅れを生んでしまった。Nは自分がいつもしないような失敗だったので、そのことの反省よりも不思議な気持ちが勝った。仕事仲間も気にしないでと言ってくれた。こんなミスをするとは、自分も年かとなんとなく思った。

 職場でもまた、Nは小さな揺れを感じていた。一日でこんなに地震が続くことはあるのだろうか。余震にしても多いような気がした。

 家に帰るとNの妻が電気も点けずに暗いリビングのソファでうなだれていた。綺麗なはずのブロンドの髪は乱れ、仕事着のままだった。

 「どうしたんだい。」とNは明かりを点け外套を脱ぎながら尋ねた。

 「仕事で大きなミスしちゃったの。それで結構怒られたわ。」と妻は珍しくうんざりしたような顔つきで言った。妻は普段からあまりストレスを溜め込むような人間ではないし、酷い落ち込み方をする方ではなかっのでNからすれば不思議な様子だった。

 「奇遇だね。僕も今日失敗したんだ。」とNは部屋着に着替えながら言った。

 「夕飯はどうする?」

 「作ってもらえるかしら。何使ってもいいわ。」

 「分かった。」

 Nは冷蔵庫にあるもので何ができるか考えた。玉ねぎに人参、キャベツ、それと豚肉も余っていた。野菜炒めなんかでいいだろう。

 「あなたは最近何にも作ってくれないしね。」と妻はまだソファに座ったまま溜息混じりに言った。

 Nはその言い方に少し固まった。妻の言葉には自分に対する非難のような含みを感じたのだった。

 「それは仕事上君の方が早く帰ってくるからだろう。君が先に作ってしまうんじゃないか。」とNはあくまで平静に反論した。

 「そうかもしれないわね。」と妻は横を向いたまま答えた。

 「仮にも今から作ろうとしてるんだぜ。仕事で疲れてイラついてるのも分かるけど、服ぐらい着替えたらどうだい。」

 「別に怒ってなんかいないわ。それに私はいつも文句の一つも言わず作ってるわよ。」

 そう言って妻は着替えにクローゼットの方へ行った。

 Nは心のざわつきを感じた。

 妻はこんなに意地の悪い女だっただろうか。確かにいつも結果的に食事を任せてしまっているのは悪いが、妻はそのことぐらい自分に気軽に相談するはずだ。夫婦間の問題なら、そうやっていつも冷静に対処してきたのだ。子供のような声を荒げる口論ではなく、裁判みたいな静かで公平な調停の仕方をとってきたはずだ。喧嘩らしい喧嘩などしたことすらない。こんな風に嫌味を言うのは滅多にない。

 まあ珍しく𠮟られて感情の整理がついていないのだろう、とNは考えることにした。それに普段から実は言いたいことは沢山あったのかもしれない。

 食事を並べても、妻はあまり喋らなかった。静かなのが気まずかったのでNはテレビをつけていた。女の気分は男と違い過ぎているとNは思った。こんなことではいつまでたっても男は女のことを理解しきれないだろう。

 Nはその夜仕事部屋にしばらく居て、妻よりも早く寝室に入った。昼間仕事に追われた忙しさによる疲れに加え、妻と二人でリビングにいることが何だか嫌だった。

 二人きりでいることに気まずさを感じるのはこの家を建てて以来初めてのことだった。心地いいはずの家全体に肌触りの悪い重苦しい雰囲気が漂っていた。

 とにかく、Nはベッドで時間が経つのを待つことにした。翌朝になれば、この小さな嵐は収まっていることだろうとNは思案した。少なくとも一晩寝れば心は静まるはずだった。

 深夜、Nはまたやや大きな地震で目が覚めた。Nはベッドの中で、地震に対する苛立ちのような感情を覚え始めた。一体この地震はいつになったら収まるのだろうか。なぜ俺の平和なはずの家をこうも揺らすだろうか。静かに寝させていてくれ。俺を起さないでいてくれ。疲れているんだ・・・。

 翌朝、Nは妻の機嫌を推し量ろうと昨夜の地震の話を振ってみた。

 「昨日、また地震があったろう。」

 「あなた、朝の話題がそれしかないの?昨日のことを私と話合おうとか思わないのかしら。私今日朝ごはん要らないから。あなたの分も作ってないわよ。何か自分で作ったら?」

 妻は畳み掛けるような口調でNに言い放った。Nはそれ以降黙り込んで朝の支度をする妻に対して小さくなるだけだった。一晩経っても冷めていないことにNはがっくりとした。

 妻はだらだらと問題を引きずるタイプではないはずだった。

 その日の仕事でNはまた同じようなミスを犯した。今度は上司から手痛く𠮟責を受けた。

 Nはその前にまたも職場で地震を感じていたのだった。Nはもはや地震に対して憤りすら覚えていた。なぜこうも地球が揺れるのだろう。俺を揺さぶろうとしているのか。俺が何をしたんだ。そう考えるとNは仕事に対して著しく集中を欠いた。荒れた海を船内で耐え続ける慣れない船乗りのように、Nにはその揺れが苦痛だった。吐き気すらした。

 「最近地震ばっかりで、仕事に集中できないんです。」とNは上司に言ってみた。そんな訳あるか、と上司は一蹴した。自分でも変な言い訳のように感じた。

 Nはその日の仕事を満身創痍で終えると、携帯に連絡が来ていた。妻は今夜は帰らないという。

 Nにはもう何が何だか分からなかった。どうして俺にばかりこんな仕打ちが起こるのだろう。つい最近までは平和な陽だまりの中にいたはずだった。この世に不幸なことなど何もないかのように感じさえしていた。母の背中におぶられているように安心していた。

 Nは家に向かわずあてもなく夜の東京をさまよい歩いていた。千鳥足のようにふらふらと、体の芯を抜かれたような歩き方だった。

 名も知らぬ川岸まで来た時に、Nはもう何回目かも分からない地震を感じた。地震は大きく、それに今度は一分近く揺れ続けているような気さえした。

 「なぜ地球は揺れてばかりいるんだ!」とNは堪らなく叫んだ。

 「どれもこれもこの揺れのせいだ。この揺れのおかげで、俺の心はぐらつかせられているのだ。畜生!この揺れさえなければ俺は平穏でいられたはずなんだ。俺だけじゃない、他の皆だってこれにやられてしまっているんだ!」

 Nは川岸の地面を蹴りつけた。Nの視界は狂ったデッサンのようにぐにゃぐにゃとしていた。

 「もう止めてくれ・・・もう揺れるのは勘弁だ!そっとしておいてくれ・・・!」

 その時、一際強い揺れがNを襲った。川の間際にいたNは大きくふらつき、ついに川へと落ちてしまった。ぼちゃん、と音がした。

 Nは水草に絡まりながら強い流れに引き込まれていった。川岸に再び上がることは不可能に近く、黒々とした川の流れは見た目以上に早かった。Nはバシャバシャと水を飲み込みながらもがいた。遠くに眩しく光るビル群が見える。既にかなり流されているようである。ビルの彼らにはここで男が一人流されていることなど知る由もない。

 Nは諦めた。このまま流れて沈んでいけば地表であの揺れをもう感じなくて済むのだ。それも悪くあるまい。Nは暗黒の流れの中でそう考えた。もう揺れ続けるのに耐えることはNには出来なかった。

 Nはいよいよ力尽きた。沈みゆくなかでNは不思議なほど落ち着いていた。暖かい、奇妙な安堵を覚えた。

 青白い月光がゆらゆらと差し込んでくるのが見える。Nは静かに目を閉じた。

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揺れ 大垣 @ogaki999

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