咎満ちる迄

十森克彦

第1話 追ってくる者

 終電にはまだ随分と猶予があるが、それでもこの時間になると、多少なりともアルコールが入った乗客の割合が高い。閉ざされた車内空間には様々な臭いが充満していて、それでなくとも不安定な哲夫の精神状態はむやみにかき回され、全身にべったりと不快感がまとわりつくようだった。特に、途中で乗り込んできた中年男が哲夫の隣に強引に割り込み、自分の空間を確保してしまったために、余計に狭苦しさを覚えさせられていた。

 駅を二つほど越えた時、哲夫がふと目の前の窓ガラスを見ると、いつの間に近づいたのか自身の隣に女の立っている姿が映っていた。顔までははっきりしないが、肩までまっすぐに伸びた髪が、ダークスーツに白のカッターシャツという地味な服装に不釣り合いに感じられる。あの女だ。哲夫はその姿に、つい十数分まで一緒にいた土谷奈津子の、否、正確にはその奈津子の顔に現れた別の女の面影を重ねた。慌てて目を伏せ、そのままこっそりと、隣に立っているはずの女をのぞき見た。しかし、そこにいたのは先刻の不愉快な中年男だった。思わず目を上げ、その男の顔をまともに見てしまったが、間違いはない。実際に隣に立っているのは男なのに、窓に映っているのはあの女なのだ。追われている。哲夫は、本能的にそう感じた。混みあった車内で逃げるわけにもいかず、そのまま電車の揺れるに任せてただ立ち尽くした。

 しばらくして、自宅の最寄り駅に到着すると、哲夫は慌てて降りようとした。隣に立っていた例のダークスーツも哲夫に先んじて歩き、一緒に降りるようだった。しかし、髪の長い女の姿はホームのどこにもなく、中年男のだらしない顔が歩いているだけだった。助かったのか、いやそもそも錯覚だったのか。とにかく急ぎ足で駅を出て、自宅に向かう。途中にある古い神社の灯明が、道路をぼんやり照らしていた。明るいとまでは言えないが、日頃ならこの時間でもそれなりに家路を急ぐ人の流れがある。事実、たった今、一緒にそれなりの人数が同じ駅で下車したはずなのだが、今日に限っては何故か、人通りがない。不意に、自分だけが異世界にでも迷い込んでしまったかのような感覚に襲われた。

 どうかしている。疲れているに違いない。自分に言い聞かせるように歩いていると、鳥居の奥から人がひとり、出てきた。今頃から駅に向かうことも珍しいが、桜もとっくに散ったというのにコートを羽織っている姿が殊更に目に付いた。哲夫は努めてその人影を見ないようにしながら進んだが、思いの他素早く近づいてきたそれは、哲夫の視界の端で黒く長い髪をコートの肩に垂らしていた。悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえてそのまま歩き去ろうとした。しかし、確かに行き過ぎたはずのその気配は、周り右をして哲夫の後ろをついてきた。男が夜に背後の足音を恐れるというのもどこか滑稽だったが、それを自嘲するゆとりもなく、哲夫は駆け出した。街灯がぶら下がっている電柱の、角。曲がれば自宅はすぐそこだ。必死で走り、自宅の数歩手前まで来て漸く息が上がった。足音は、ない。念のために後ろを見るが、誰かがついてきている様子もない。帰ってきた。何も考えられず、そのまま小さな門扉をくぐる。玄関脇の駐車場に停めてある自動車のボンネットの上に、何かがうずくまっているのが見えた。哲夫が近づく気配に身じろぎし、いきなり飛び去る。瞬間、息を呑んだ。路上で振り返っている姿がある。猫か。驚かせやがって。

 緊張が解けると、疲労感が一気に襲ってきた。シャワーもそこそこに自室に入って、ベッドにもぐりこむ。ここのところ、夢見が悪くて睡眠不足が続いている。きっとそのせいで疲れているのだ。考える間も無く、すぐに睡魔が襲ってきた。今夜こそ、ぐっすり眠れそうだ。ぼんやりとそう考えて、目を閉じた。ところが、いつまで経っても眠りは訪れてこない。それどころか、眠ろうとすればするほどむしろ頭の中ははっきりしてきて、目がさえてくる。襲ってきたはずの睡魔もいつの間にか消え去ってしまっていた。

 どれくらい、そうしていただろうか。廊下を歩く足音が聞こえてきた。今、何時頃なのだろう。両親の部屋は一階にあるし、掃除や洗濯の際以外には、母が上がってくることは滅多にない。何か用でもあるのだろうか。薄気味の悪さを感じながら、暗闇の中で待った。

 足音は部屋の前で一旦止まったが、戸が開いた気配はない。それなのに、再び動き出すと、確かに室内に入ってきた。どんどん、近寄ってくる。哲夫は恐ろしくなり、起きあがろうとした。しかしその時にはじめて、体が全く動かないことに気がついた。目を開けることさえ、できない。金縛りという状態らしい。足音はさらに近づいてきて、哲夫の枕元に立った。誰だ。勝手に入ってくるな。

 本当は、それが何者なのか分かっていた。しかしそれを認められず、哲夫は声に出せないままで枕元に立つ何者かに怒鳴り続けた。しかし、いつまで経っても出て行ってくれる気配はない。ばかりか、不意にその何者かが体の上にのしかかってきた。やめろ、やめてくれ。心の中では絶叫しているが、体の方はやはりぴくりとも動かない。締め付けるような圧力が全身にかかって、息ができない。脂汗が噴き出す。このまま死ぬのだろうか。そう思い始めた頃、ふと締め付けていた力が緩まった。暗闇の中で、自分の激しい息遣いだけが聞こえている。指先を動かしてみた。動く。解放されたようだ。恐る恐る、目を開いてみた。すると、目の前に顔。のぞきこんでいる。あの女だ。恐怖のあまり、そのまま意識が遠のいた。

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