月旅行

大和田光也

第1話

   

「お父さん、本当に飛べるの?」     

「ああ飛べるとも。今までにお父さんが嘘を言ったことはなかっただろう」

「そうだけれど・・・これだけは難しいのじゃないかなあ」

小学生の美香が不思議そうな顔をして修治の顔を見上げた。

「お父さんはねぇ、美香ちゃんが知らない間に、夜になったらよく自由に空を飛んでいるんだよ。月まで行ったこともあるよ」

「へえ、すごいなぁ。でも本当かなぁ。月までいけるのかなぁ」

「いつもお父さんが飛ぶ時には、美香ちゃんはぐっすりと寝ている時なんだよ」

「残念だなぁ。今度、飛ぶ時には絶対に起こしてよ・・・でも本当かなぁ」

美香は半分不審そうに、半分期待したいような、そんな目で見ていた。

「でも、いつでも飛べるのなら、今でも飛べるでしょう。そうだ、お父さん、これから飛んでよ」

美香の顔が輝いた。

「ああ、困ったなあ。お父さんが飛べるのはよく晴れた夜に、満月がこうこうと照っている時だけなんだ。その時に、じっと、お月さまの方を見ていると、お父さんの体に、大きな強い羽が生えてくるんだ」

大阪の空は昼も夜もくすんでいる。晴れてているのか曇っているのか分からない。 修治が七年前に買った、このマンションは十五階建で、彼の部屋は十三階にあった。最近、彼は会社から帰ると、してもしなくてもいいような事をした後で、よく屋上へ上がるようになっていた。一年生の美香もその後について、一緒に屋上へ上って行った。美香は父親と一緒に過ごすのが楽しいので足取りは軽かった。修治は娘に比べると重かった。屋上では手すりにすがり、ただ街の灯や夜の空を眺めていた。

修治は両手を空の方へ大きく伸ばした。「背中に乗って一緒に飛ぶと、落っこちてしまいそうだね」

「大丈夫だよ、しっかりと背中に乗って首に手を回しておけば、落ちることはないよ。さあ、それじゃ練習をしてみよう」

修治は、しゃがんで背中を低くした。美香はうれしそうに背中に乗ると首に両手を回した。

「さあいいかい、立つぞ」

「わあ、なんか、本当に飛べそうだね」

「うん、満月が澄んだ空に見えさえすれば飛べるよ」

二人とも何も見えない空を仰いだ。

「お父さん、月には石ころしかないよね」

「いいや、月には大きなウサギさんがいるよ。三階建の家ほどもあるウサギさんだ。お父さんは友達になって、月に行った時にはよくその背中に乗せてもらうんだ。月は地球上の引力の五分の一だから、ウサギさんが一飛びすると百メートルは進むんだよ」

「へえ、本当かなあ・・・でもいいなぁ、絶対に一緒に連れて行ってね」

「いいよ。だけど、ウサギさんが機嫌の悪い時もあって、その時には一向に動かないんだよ」

「まあ、機嫌の悪いときはどんな時なの?」

「それは、乗る人が嘘を言ったり、人の嫌がることをした時だよ。機嫌を悪くすると恐いよ。動かないだけじゃなくて、その大きな体で無茶苦茶にたたかれるよ」

「それじゃ、お父さんが嘘を言ったら、ウサギさんにいいつけてやる」

「わあ、それだけは止めてよ。ウサギさんは怒ると地球までもやってくるからね」

二人はしばらくの間いろいろな話をしていた。しかし、そのうち美香の返事が返ってこなくなった。

修治の背中にずっしりとした重みが増していた。

* * *

「私の職場の方へ美香の担任の先生から電話があったのよ。熱を出して保健室にいるから連れに来てくださいと」

かなり遅くなってから修治が会社から帰宅すると、妻の和美が普段の落ち着いた表情で迎えた。

「なんだ、風邪でもひいていたのか。ちよっとこのごろ体調を崩していたようだったからなあ」

彼はカバンを玄関に置くと、急いでリビングの方へ行って見た。美香は小さい布団に寝たままで熱のせいか顔を赤くしている。そばでは、息子の宣弘がファミコンをしていた。「大丈夫だって。小さい頃はよく熱を出すから。俺なんか四十三度も熱が出たもんね」

宣弘は中学生だった。最近、髪を染めたり、靴のかかとを無理に踏みつけたりして歩くようになっていた。顔の幼さと行動とが不釣り合いで滑稽だった。長男の宣弘も結婚してからずいぶん経ってから生まれたが、その後は又なかなか生まれなかった。やっと、七年ほどしてから美香が生まれたのだった。

「どのくらい熱があるのだ?」

「ええ、三十九度前後です」

彼は心配そうに美香の枕元に座った。そして、額に手を当ててみると確かにかなり熱い。美香はそれまで眠っていたが、父親の手のひらの感触で、目を開いた。「お父さん・・・今夜は満月じゃないの?」

荒い息をしながら、目を必死な様子にして、美香は修治の方を見つめた。

「空は曇っているよ、月も星も何も見えなやしないよ。安心して寝なさい。なによりもこんなに熱があったのではお父さんの背中に乗って行けないじゃないか」

「そうねえ、早く、お月様のところへ行きたいなぁ。早く、大きなウサギさんに会いたいなあ。満月になれば飛べるんだよね、お父さん」

美香は苦しそうに笑った。

「ワァハッハッ、飛ぶんだってえぇ、そんなことできる訳ないじゃないか」

テレビ画面を見たままで宣弘は笑った。和美は微笑むだけで何も言わない。

「ああ、飛べるとも。美香ちゃんの風邪が治れば飛べるよ」

修治は少し小さい声になって言った。それから美香の顔をじっと見つめて、二人で約束したものを確認するようにうなずいた。 主人だけの遅い夕食が始まった。和美は食事の準備をしながら、今日、先生から言われたことを彼に話し始めた。「美香ちゃんはね、周囲の子供に気を使うんですって。だからストレスもたまるらしいの。今度の熱もストレスから少しは来ているら

しいわ」「へえ、周囲に気をつかうなんて、いったい誰に似たんだろうかなあ」「少なくとも私ではないわ。だって私はそんなに気が細かい方ではないもの。きっと、あなたの性格に似たんじゃないかしら」

「そうかなあ」

彼は気のない顔をして箸を動かしていた。 翌日、修治は会社の帰りにペットショップに寄って、ミ二ウサギの子を買ってきた。家に帰って、そのウサギをまだ寝ていた美香の目の前に差し出した。

「わあ、お父さんウサギを買ってきてくれたの。ありがとう。うちは寝ている間、ずっとウサギさんのこととお月様のことばかりを考えていたのよ。眠っても夢に浮かんでくるの。かわいいなあ、このウサギちゃん」

美香はウサギにミミという名前をつけた。このウサギは生まれた時から人の手で育てられたらしかった。人間に非常になついていた。美香が布団の中に入れて一緒に寝ると、ミミも顔を上向きにして寝た。さらに胸に抱いて頭をなでてやると、じっとして気持ちよさそうに目を閉じる。美香は家にいる時にはミミを体から離さなくなっていた。「お父さん、今は晴れているのじゃない」

「今夜は晴れているけれど、月の出る日ではないよ」

「お父さん、今日は満月の日ではないの」

「ああそうだよ。だけど空は曇っているよ」

美香のしゃべる内容のほとんどが月に関してのことになってしまった。

美香は風邪が治ると、以前より元気になった。学校から真っ直ぐに家に帰ると、ミミを手のひらに乗せてあちらこちらと振り回す。「さあ、今から飛べるように練習しましょう。それでは、月まで行くよ。しっかりと捕まっていなさいね。絶対に落ちないようにね」

ミミは、美香の振り回される手に従ってあちらこちらと目が回るのではないかと思うくらい動かされる。ミミは恐がっているのではないかと思うが、よく見ると、目を輝かせて喜んでいるようにも見える。

「ああ、早く飛びたいなぁ。早く満月の、晴れた夜が来ないかなあ」

美香とミミはまるで一体のように見えた。

* * *

修治は高校を卒業して現在の会社に就職した。

 それ以来、三十年以上も勤めている。昨年までは、ずっと、営業を担当してきた。相手先の電話の声を聞いただけでも内容がすぐに分かるようになっていた。彼は自分の積み重ねてきたこの実績は誰にも簡単には替わることはできないと思っていた。それは仕事に対する自信でもあり、生活に対する安心でもあった。

 しかし、それが揺らいできたのは、経済的バブルがはじけてきた頃からであった。まさかと思っていた自分の立場が、若い者に取って代わられようとしているのが感じられた。

 それは、会社の人件費削減の方針によるものであることは間違いなかった。これまで営々として築いてきた上司との信頼関係がガラガラと崩れるのを感じた。こんなにも簡単に崩れるなんて、いったい自分が今まで尽くしてきたものは何だったのだろうか。

彼は仕事の業績を、自分の独り善がりとは思いたくなかった。おそらく、会社の経営上の問題が、彼の個人の思いをはるかに超えた状況にあって、それで彼の立場を危うくしているのだろうとは思った。しかしそれにしてもなんと、簡単に崩れ去るものか、とむなしさを感じた。

予感通り、彼は今年度から部署が変わった。

 営業畑一筋だったのが、今度は総務部に配属になった。総務といっても小さな会社だから、雑用係である。特に、彼でなければ出来ない仕事などはない。新入社員にでも出来る。

 それが逆に、彼にとっては戸惑うことや失敗が多くなった。しかも同じ失敗を何度も繰り返す。彼は自分が、周囲の変化する状況に順応する柔軟性と記憶力が何時の間にか枯渇していたのに気付かざるを得なかった。

 ひどい時には、まるで、会社を変わったような気持ちにさえなった。自分は長年勤めている自分の会社のことをこんなにも知らなかったのかと驚きもした。

食事がのどを通らないことが多くなった。周囲の者の自分に対する目が気にもなり始めた。修治はふと、中高年で転職した者の気持ちはこんなものではないか、と思った。給料は部署の変更に伴い、役職がなくなった事と会社の業績の悪化を理由にずいぶん下がった。

 上司は口では、慰めや激励を言ってくれるが、言葉の裏に、お前が辞めてくれれば会社も社員も助かる、と言っているように聞こえた。

 もちろん、自分だけが苦しい思いをしている訳ではない事は分かっているが、腹立たしさと不安を押さえることができなかった。

 青春と壮年の時代のほとんどを仕事に費やしてきた。特に熱中する趣味も遊びも持ってはいなかった。無駄といえば喫煙と少々の晩酌しかない。

 三十年間、実に真面目に真剣に生きてきた。今も一生懸命に生きようとしているのに、その総決算が現状である。いったい、自分の人生は何だったんだろうと思うと、彼は遣り場のない憤りと虚無感に駆られた。

運悪く、彼はバブルがはじける直前に、マンションを買い替えていた。以前の狭いマンションを売って、現在の広いマンションを買ったのだった。値段は、かなり節約をしなければローンの支払が厳しいと思える程だったが、毎年の昇給と不動産価格の急上昇を考えれば四、五年、辛抱すれば、十分な資産価値ができるものと思って購入した。

 ところがその直後から、バブルがはじけ始めた。彼や妻の夢も同時にはじけてしまった。それでも、何とか支払っていたが、会社での部署が変わってからの給料ではとても継続することは不可能になった。

彼は身を切られる思いで、マンションを手放すことを考えた。ところが、査定をしてもらうと、マンションを売ったとしも借金が約二千万も残ることが分かった。手放すこともローンの支払いも難しくなり、残された道は、妻に働いてもらうしかなかった。

 ちょうど美香が小学校に入学したので、時期としては良かったが、二人して無駄働きをしているという思いは、無意味な仕打ちを受けているように感じられた。

* * *

彼の会社は隔週の週休二日制であった。

 彼は翌日休みの土曜か金曜日には、仕事が終わってもすぐに家に帰らなくなった。会社を出るとをそのまま車を走らせて、兵庫県や京都府の人気の無い山間部に出掛けて行った。そして夜遅くまで、あちらこちらと山道を走らせた。

そんな時、たまに素晴らしい月夜の時があった。彼は車を止めて外に出た。昼間の様子とは全く違って、完璧な月の世界が完成されていた。どこにも昼間の姿を引きずっている部分は無かった。

 月光に照らされた自然の中を歩きながら彼は不思議な気持ちになった。

この世界には二つのものがあると思えた。一つは太陽に照らされた世界、もう一つは月に照らし出された世界だ。それは全く別の世界であった。ただ、共通しているのは自分が両方の世界に存在しているということであった。

 仕事で悩んでいる自分、経済苦にあえいでいる自分、それらは太陽の下での世界であった。同時に、月光の下での自分の世界も確実にあると思えた。それは、非常に静かで、穏やかで、何の苦しみも圧迫も感じられないものであった。時の流れさえも無関係のものに感じられる。

 この二つの世界の差は、生と死との違いとはまた別次元のもののように思えるが、それと等しいほどの相違があった。

 月光の下ではあらゆるものが新たな存在として発見できた。それには大変に心の和む感動を伴った。彼は永遠に月の世界の中で生き続けたいと思った。太陽の世界を引きづりながら生活している自分が完全な月の世界へ移行することはそれほど困難なことではないように思えた。

彼は、時の経つのを忘れて月下で過ごした。しかし、ふと我に返り、また車に乗らなければならなかった。

明け方になって家に帰ると、和美はいつもまだ起きていた。夫の顔をのぞき込むわけでも、彼に何かを尋ねることもなく、何気無く装っている妻に夫を気遣う気持ちがにじみ出ていた。

* * *

「晴れた、満月の夜が早く来ないかなぁ」

美香は、一日に何度も同じ言葉を修治に言うようになった。彼はこう言われるたびに、複雑な気持ちになった。そして、日を追う毎に深刻なものとして彼に迫ってきた。時には、恐怖さえ感じる。彼は、一方でその日が永遠に来ないことを願った。しかし、他方で、やがてはその日が来るだろうと予感せざるをえなかった。

仲秋の名月の日が近づいてきた。テレビのニュースでも話題になり始めた。美香は、そのニュースを見るたびに目を輝かせて私の方のを見た。今にも飛び立ちそうな雰囲気だった。 やがて、その日が来た。

天気予報では、大阪では曇り空で月を見ることはできないだろうと予報していた。 修治が仕事から帰ってきた時には予報通り空は曇って何も見えなかった。彼は胸をなでおろした。美香は机に向かって宿題をしていたが、何か集中できない様子だった。「ああ、残念だなぁ。次はいつになるかわか

らないのに」

ベランダの方を見ては美香がうらめしそうに言う。 夜がふけるにつれて、空は晴れてくるようだった。美香は何度もベランダへ出て空を見上げた。

「わあ、お父さん、だんだんと晴れてきてるよ。雲の上から明るい満月の光が差してきているよ」

修治もベランダへ出てみた。確かに晴れてきている。月光に照らされて雲の様子がはっきりしてきている。やがて、雲間から満月が全身を現し、こうこうと照らし始めた。

「出た、でた!お父さん、さあ 行きましょう、月へ行きましょう。ミミも一緒に行くのよ」

修治は、心臓が激しく鼓動するのを感じた。

「ああ、素晴らしい満月だ。大阪にもこんなきれいな月と空があったんだなあ・・・それでは、仕方がない行こうか・・・」

「わあ、ばんざい。ミミ、早く行こう」

彼は重い足取りで部屋を出ようとした。宣弘は面白そうに笑った。和美は悲しそうに笑った。彼は階段をゆっくりと屋上へ上って行った。美香は先に元気よく上って行った。背中には、この時のために作った小さな布製のリュックサックが背負われていた。その中にはミミが、顔だけ出して入れられていた。

屋上へ出て、手すりに寄りかかって空を見ると、輪郭のはっきりした見事な満月が空に浮かんでいた。

「さあ、お父さん、早く背中に乗せてよ」

「そうか、それじゃ、おっこちないようにしっかりと捕まるんだよ」

修治は、しゃがんだ。美香は元気よく背中に上り、両手を首に巻きつけてしっかりと抱きついた。彼はゆっくりと立ち上がった。それから手すりを乗り越えて縁のところへ立った。美香の両腕に大きな力が入るのが感じられた。

「お父さん、怖い。本当に飛べるの」

「本当に飛べるとも。だけど、恐いのなら止めておこうか」

「いやいや、飛ぼうよ。お父さんは嘘を言ったことはないものね」

美香の声にいつにもない緊張感がみなぎっていた。

「しかし・・・やっぱり止めておこうか」

「そんなこと言ったら、ウサギさんに言いつけてやる。ウサギさん、お父さん嘘をついたよう」

「ああ、ごめん、ごめん。本当に飛ぶから、ウサギさんには言わないでよ」

彼は大きく両腕を満月の方へ向けた。身体中に虚空を自由に飛び回ることができる強い羽が今にも生えてくることを心より願った。修治は膝をゆっくりと曲げた。

「しっかりと捕まっているんだよ。それじゃ、飛ぶぞ!」

「いいよ、お父さん」

彼は前のめりになりながら、両足を強く蹴った。

          (おわり)

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月旅行 大和田光也 @minami5

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