阿佐ヶ谷ステイチューン

パラダイス農家

第1話 お耳の恋人

 人生凪いだ27歳女のひとり暮らしは、凪だ。

 嬉しいことも起こらなければ、悲しいこともそうそう起こらない。贅沢できる稼ぎはないけれど、飢えて死ぬほど貧しくもない。

 人は言う。「恵まれているよ」「贅沢な悩みだよ」。

 それは分かる。波乱も苦難もそれほどない、それなりに幸せな人生だ。

 だけれど満たされない。何かが足りない。

 足りないものは。本当に欲しかったものはなんだろう。


 私の人生は、凪の海に漂う帆船だ。

 今のところは安全だけれど、この先どこへも行けない。


『みんな忘れてるんだけど、生きてるだけでえらいんだよね。本来は』


 聞こえてきたラジオがそんな私を慰めてくれる。もちろん向こう側は、特定の誰かに向けた言葉じゃない。誰もに心当たりがある耳障りのいいことを喋っているとは分かっている。


「いいこと言うなあ」


 満たされない心にはそんな言葉が嬉しかった。


 *


 阿佐ヶ谷駅の改札口を出ると、大きな商店街がある。

 その名を、阿佐ヶ谷センター商店街。昭和の空気が色濃く残るここは、大型スーパーやネット通販の令和の世でも住民たちの台所だ。

 そのアーケード街のちょうど真ん中。古ぼけた雑居ビルの2階、個性豊かな商店街の人々をまとめる商工会議所が私の職場だ。


「あーちゃんおはよ〜! おみやげ食べて〜!」


 アルミ製の薄い扉を開けると、ご機嫌な声が気だるい水曜日の体を揺り動かした。同僚が温泉まんじゅうの箱を手に「おひとつどうぞ」とニコニコ笑顔を振りまいている。

 「ありがとう」。気だるいテンションを無理に合わせてひとつ摘むと、会長がまんじゅう片手に笑っていた。


「いやー、ハナちゃん若いよねえ。日帰りで熱海行ったんだって」

「もう25のアラサーだよ〜。でもね〜、ドライブしたいって言われて〜」

「もしかして例のカノピちゃん?」

「えへへへへ〜」


 商店街が個性豊かだと、商工会の面々もかなりクセが強い。

 誰より濃いのが彼女、出社3秒で温泉まんじゅうを食らわせてきた同僚だ。

 

「どうしてもハナとゆっくりしたくなったらしくて〜」


 彼女は三ツ矢華。

 生まれも育ちも阿佐ヶ谷の、和菓子店・三ツ矢本舗の愛され末っ子。商店街のあらゆるところに顔が利く絵にかいたような看板娘で、明るく愛嬌もあってとにかくオープン。彼女の告白カムアウトを噂で知った青年団の若い衆なんて、下唇を噛み締めながら祝福したほどだ。


「はー、俺もカノジョほしいすわ〜」

「え〜? こないだ入船さんトコのさーちゃんが褒めてたよ〜?」

「マジすか!? ちょっと俺行ってきます!」

「ついでにお線香持って行って。入船のばあちゃん七回忌なのよ」


 そんな年じゅうハッピーな女・華を中心に、電気屋の出来損ないの次男坊、還暦を過ぎた盆栽屋のおじさん会長、そして阿佐ヶ谷には縁もゆかりもない私の4人が狭いオフィスで働いている。

 求人情報誌には間違いなくこう書かれるだろう。

 「アットホームな職場です」

 きっと居心地がいいのだろう、地元民には。


「そだ! あーちゃん、昨日の楽しかった?」


 死ぬほどつまらなかった昨夜の懇親会を思い出すと、余計に肩が重かった。

 商工会の仕事は膨大だ。七夕まつりや福引大会なんてイベントごとは言わずもがな。販促キャンペーンを打ったり商店街の利害調整や経営にまつわる諸問題のサポート、地元小学校の社会科見学の指導やら所轄との連携、懇親会やら町内会やら果てはコロナ対応まで。

 そのうちのひとつが、若手限定の異業種交流会——早い話が商店街合コン大会である。


「しんどいだけだって。男は喋んないし、女からは嫌われるし」


 異業種交流会なんて言ってみても、実態はただ面倒なサービス残業だ。

 若手と言っても平均年齢は三十路越えで、どちらも恋愛ベタばかり。顔を合わせて酒を酌み交わしたってなんの化学反応も起こらない。出会いの場に出てくるなら、せめて腹をくくってこいと言いたくなる。あげくにお通夜ムードをなんとかしたくて親しげに話しかければ男から妙な気をもたれ、愛想を振りまいたがゆえに悪目立ちして女から白い目で見られ。

 やったところで何ひとつ得がない。


「あーちゃんもついでにいい人見つけたら? チャレンジしようよ、人生変わるような恋!」

「いいってそういうの疲れる。次ハナちゃんやってよ幹事」


 だいたい、数合わせで女子にカウントされるのも気に食わない。本当は、男性側の席に座りたいのに。


「ハナはカノピとラブだも〜ん♪」


 そんな私の気など知らず、華は満面の笑みでまんじゅうを頬張る姿を自撮りしていた。インスタにアップして、カノピとやらに送るのだろう。お熱いようでようござんしたね。


「会長、もう辞めません? 異業種交流会なんてやるだけムダですって」


 悲鳴をあげてみても、会長は恵比寿さまみたいな頬肉をぷるんぷるん震わせるだけだった。異業種交流会は続くのだ。参加者が、そして参加者の親御さんが当人たちの結婚を望み続けるかぎり。

 そして始業時間の午前8時半。ふたの締まりが悪いカセットデッキがひどく音質の悪いラジオ体操を奏ではじめて1日が始まる。


 阿佐ヶ谷商店街・商工会議所。気さくで壁がないアットホームな職場だ。

 外様の私は気疲れもするけれど、ギスギスした前職よりははるかにいい。合コンの数合わせみたいな仕事もあるけれど、イベントの準備は文化祭前日のようでワクワクする。

 帳簿の収支を合わせるようにプラスとマイナスを差し引きすれば、人間関係も仕事内容もやや黒字。恵まれているほうだろう。


 だから私は満ち足りているはずだ。満ち足りているはずなんだけれど。


 言い聞かせながら仕事をこなし、昼食を買いに出た。商店街のいいところは、食べ物には困らないこと。和洋中からトルコに東南アジアと、ちょっとした食のテーマパークだ。


「どうせチャレンジするなら、今日こそはベトナム料理チャレンジしちゃう?」


 そんな不敵な独り言をひとつ。チャレンジだなんて好奇心を煽ってみても、何かが変わる訳ではなかった。私に足りなかったのは、400円のバインミー・サンドイッチではないらしい。気持ちはパンに挟まった野菜のようにしなしなだ。


 だったら、何を求めているのだろう。

 古橋綾は、なぜ足りないなんて思うのだろう。

 私はそこそこ満ち足りている。そんなはずなのに。


 *


「あーちゃん、お客さんだよ〜」


 職場である事務所に戻ると、シマリスのように麦芽ビスケットをカリカリやっている華が来客を告げていた。今日はアポなんて入っていない。


「お客さん?」

「待ってもらってる〜。すっごい美人さん〜」


 言われてパーティション奥の応接間を覗くと、きっちりしたスーツ姿の女性と目があった。


「すみません、アポイントもなくお食事時にお邪魔してしまって」

「ああいえ……」


 彼女の美しさに圧倒されて言葉に詰まった。

 神様が目を開けて福笑いを遊んだに違いない、バランスのよい聡明そうな顔立ち。顔面完成度が高い。ともすればリクルートスーツみたいな地味な姿なのに、学生に備わるはずのない余裕を感じられる。オトナの余裕というやつだ。立ち姿の背丈はすらりと高く、背筋もピンと伸びている。年齢は同じくらいだろう。

 およそスーツ屋の広告モデルか何かだと見間違うほど。それくらいの美女だ。

 仲良くしてあげてもいいかな。なんて悟られない程度に性根を前のめりにする。


「ご挨拶が遅れました。わたくし、エフエムアサガヤの槙島と申します」


 恭しく取り出された名刺には、取締役、槙島美澄みすみとある。


 FMあさがや株式会社。なんだそれは。

 阿佐ヶ谷商工会に勤めて半年は経つけれど、そんな会社は聞いたことがない。

 会長や次男坊に尋ねようにも、ふたりは事務所から忽然と姿を消していた。逃げやがって。


「本日は、どのようなご用件で……?」


 これも仕事だ、仕方がない。こちらも名刺を渡し、「寒いですね」なんて雑談を挟みながらハラを探る。商工会にアポなしで尋ねてくる者なんて営業かヤクザかヤクザ営業だ。招かれざる客にお帰りいただくのはシマを預かる商工会のスジの通し方というもの。


「このたび、わたくしどもでコミュニティFM事業を買収しまして」

「コミュニティFM?」


 用意していた営業お断りマニュアルとはまったく違った反応で、あっけにとられてしまった。聞きなじみのない言葉をおうむ返しすると、美澄は「やっぱり」と納得したように苦笑する。


「FM放送です。早い話が、阿佐ヶ谷限定のラジオ局ですね」

「あ、ああ! ラジオ! そうですよね、FMって言えば!」


 とりあえず知ったかぶりをかましたけれど、見抜かれてしまっていることだろう。微妙に恥ずかしい。


「実は10年ほど前から放送していたんですが、お聴きになったことは?」

「すみません、お恥ずかしながら……」

「お気になさらないでください。誰も聴かないどころか、知られてすらいないラジオでしたから」


 一応は謝ってみたものの、知らないんだからしょうがない。

 ラジオなんて体操くらいしか知らないし、聴き方もよく分からない。なんせ私の人生には縁がなかったし、それこそ今後も必要ないものだ。

 そんなラジオ局が何の用だろう。放送というからには広告出稿の依頼だろうか。


「我々は無名のコミュニティFMです。本来であればラジオCMのお願いをしたいところなのですが、残念ながら今のFMあさがやには広告効果はありません」


 だろうね。と、納得してしまって社交辞令が一拍遅れてしまった。


「そんなことはないと思いますが」

「ありがとうございます。そのお優しさが嬉しいです」

「いえ、まあ」

「渋い顔ばかりされるんです、本当に。ラジオなんてオワコンだ。プレゼンなんてしなくていいからとっとと帰れって」

「大変ですね……」


 両手をがっしり握られた。目線が合う。前のめりだ。キラキラ光る瞳の奥にやる気と覇気がみなぎっている。やる気がまぶしい。美人だから余計にだ。ついでに暑苦しい。


「ですが、私はオワコンだなんて思いません。むしろこれからだと思っています。本日お伺いしたのは、まずはFMあさがやを知ってほしいということ。それだけお願いしたくて」


 言うなり、美澄はポスターを取り出した。《チャレンジ! FMあさがや》とある。チャレンジと言えば聞こえはいいが、番組を担当するパーソナリティたちは見覚えのない顔ぶればかり。

 どうにも胡散臭い。現時点で開店休業状態のラジオ局を買い取ったところで敗色濃厚だ。

 そもそも広告なしで経営できるの? 今後の事業計画書は?

 前職で培ってしまった悪い品定めを見抜いたのか、美澄は「損はさせませんから」と手をパタパタさせて笑っている。安心してほしいのだろうが、ますます怪しい。


「ポスターの掲示は会長の許可を得てからになりますがよろしいですか? 私では判断がつきかねますのでいったん預かる、というカタチで」

「ありがとうございます! それと、もしよろしければなんですが」


 美澄は自身の名刺を裏返してみせる。QRコードだ。読み取れということだろうとスマホをかざしてみると、FMあさがやのページが表示された。


「スマホでも簡単に聴けますので、お時間があればぜひ聴いてみてくださいね」

「便利な時代ですねー」

「ええ。ネットが発達した今こそ、ラジオの時代ですから! きっとお気に召しますよ」


 「なるほど〜」なんて返してみたけれど、ラジオの——少なくともFMあさがやの——時代がくるとは思えなかった。

 恭しく礼をして、美澄は事務所を後にする。この後も「ラジオはいらんかね?」と営業まわりするらしい。絶体絶命の背水の陣だろうに、よほど自信があるのだろう。見送った美澄の背中はしゃんと伸びていた。


「ねえ、ハナちゃん。ラジオって聴いたこと……」


 有名インフルエンサーのインスタライブを見ながらハートを連打しているハナを見て、尋ねるまでもなく実感した。

 このネット時代にスマホで見るものは動画だ。SNSや動画サイト、あるいはサブスクなど。仮にラジオを聴くとしても、もっと大きな放送局の、有名なパーソナリティの番組だろう。ローカル放送の無名の人物になんて心惹かれない。


「チャレンジするまでもないか」


 ラジオは死んだメディアだ。10年前からあったのに誰も話題にしなかったくらい影響力もない。足を棒にして営業している美人社長には悪いけれど、商店街としてやれることはない。

 ラジオも聞かず、ポスターも放り投げ、すっかり冷えたバインミーにかじりつく。


「バンズと卵焼きと野菜の甘酸っぱさが……まるで合わない……」


 ほら、やっぱり。美味しくない。

 バインミーなんて食べ物、物珍しさから多少インスタ映えするだけだ。

 チャレンジなんてするもんじゃない。


 *


 別に観たい番組がある訳ではないのにテレビをつけるのが、流行りで言うところのナイトルーティーン始まりの合図だ。


「あー、今日も働いた〜!」


 服を脱ぎ捨てて、下ろしていた髪をターバンでまとめる。エアコンをかけ、地味な部屋着に袖を通し、おひとり様用こたつに座る。

 こたつの上にはなんでもある。リモコンにスマホの充電ケーブル、絡まったイヤフォン。筆記用具や郵便受けに入っていたもの。メイク道具、鏡。昨晩食べたカップラーメンの容器、箱ティッシュ。


「あ、チンするの忘れた」


 ゾンビみたいな唸り声をあげて、コンビニ弁当を温める。冷蔵庫から強めの缶チューハイを取り出して、再びこたつの定位置に収まる。

 聞こえてくるのは夕方のニュースの声だ。

 中継先に居た2世タレントと会話しながら、弁当で晩酌をする。


『こちらは来年の干支、寅にちなんだ縁起物を作る工房に来ております〜!』

「へー、来年って寅年なんだ。ていうか、もう年末?」

『ひとつひとつ、焼物に筆で絵付けをしているんですね〜。なんと、1日に150個ほど色を塗るそうで』

「150個も? やっばー、指攣りそ」

『と言うわけで、中継でした〜』

「あーッ! 最ッ高!」


 テレビを相手に、こたつで飲む。

 居心地のいいこたつと9パーセントの缶チューハイは、人生の収支をプラスに振り切らせてくれる友達だ。今日の苦しみも明日の不安も、ふかふかの布団としゅわしゅわの泡が優しく包み込む。これぞ包容力。世の人々が恋人に求めるものだ。


「こたつちゃん結婚して」

「もちろんよ、綾ちゃん」

「大好きー!」


 愚にもつかないひとり芝居をしながら、まどろんで眠りに落ちる。「こたつで寝たら風邪ひくわよ」「せめてメイクは落としなさい」なんてうるさく言う人間はここには居ない。

 目が覚めた頃にはテレビでは夜のニュースが流れ始めている。のっそり起き上がって湯船に湯を張り、風呂に入りながら歯を磨くなんて業務効率化を終えれば、あとは面倒臭さと戦いながら髪と肌をケアして寝るだけ。ナイトルーティーンはこれで完結する。


 ご機嫌に歌って、髪の毛を乾かしながら思う。

 世間的にはきっと、ズボラ女子の範疇に入ってしまうのだろう。

 だけど、おひとり様の女の暮らしぶりなんてこんなものだ。世間体や、恋愛みたいな疲れることからドロップアウトすれば、人生はかくも生きやすくなる。


 世間がどうだろうが誰が何を言おうが、私は私だ。

 三ツ矢華のように、絵に描いたようなステキなキラキラ女子になる気はない。

 あるいは槙島美澄のように、無理めな仕事に果敢にチャレンジする気もない。


「私以外私じゃないの〜♪」


 なら、それでいいじゃないか。今の古橋綾でいいじゃないか。

 私は私がしたいように生きている。充分に満ち足りている。

 人間関係にも仕事にもそこそこ恵まれ、路頭に迷わない程度には稼ぎもある。病気も抱えず健康体だし、友達だってそれなりに居る。恋愛みたいな疲れることはしたくないけれど、まだ三十路まで3年もあるし、容姿もまあまあ悪くもない。今までしてこなかっただけで、しようと思えばすぐできることだ。

 だから恵まれてる。満ち足りている。今はひとり暮らしをエンジョイしているだけ。

 私に足りないものなんてひとつも——。


「……」


 ——本当に満ち足りていると思っているなら、この涙はなんだ?

 ひとりが寂しいのか? 将来が心細いのか?

 快適なひとり暮らしを捨ててでも、手に入れたいものなんてお前にあるのか?


「ダメだ、不安定になってる」


 冷蔵庫の中のしゅわしゅわが恋しい。包容力でもって抱きしめてもらえないと眠れない。

 すぐさま9パーセントの魔力で持って、大しけの心を凪の海に変える。

 わざわざ挑んだりしなくていい。上を見ればキリがないというじゃないか。

 必死に言い聞かせている自分に泣きたくなって、そんな心すらもストロング缶が散らしてくれる。


「もう寝よ……」


 ベッドに潜り込んで、布団を頭から被った。

 時刻は23時前。

 こたつの上の片付けも、脱ぎ散らかしたものの片付けも、明日の私に任せよう。布団に身を委ねて、素敵な明日へワープしよう。アラームだけは忘れないように。

 スマホには、昼間開いたままのウェブページが表示されていた。


 FMあさがや。87.9MHz。

 現在放送中!


「誰が聴くんだよ、こんな時間に……」


 バカだ。正真正銘のラジオバカだ。

 時代に取り残された死んだメディアを。電波と赤字を垂れ流すだけの無駄遣いをこんな時間まで続けているなんて。

 《放送を聴く》と書かれた再生ボタンを観た途端、事務所を尋ねてきた美澄の姿が脳裏を過ぎった。


『私はオワコンだなんて思いません。これからだと思っています』

『ええ。ネットが発達した今こそ、ラジオの時代ですから!』


 ラジオの時代なんてあり得ない。誰もFMあさがやになんて期待すらしていない。

 敗色濃厚のコミュニティFM経営に勝機なんてないのに、美澄はラジオを信じている。正気を失っているとさえ思えるほどの熱意に突き動かされている。

 それほどの熱意が、ラジオにあるのか。


「いいよ、聴いてやるよ……」


 凪いではいるが満ち足りない、私にも伝わるものなのか。

 そして何より。


「ラジオの時代って言うんなら、ラジオで私を救ってみてよ」


 やってみろ、ラジオ。やってみろ、FMあさがや。

 孤独が染みついたワンルームに暮らす私を、このゆるやかな地獄から引きずり出してみろ。

 震える指で再生ボタンを押した。ページが遷移して、画面が真っ黒になる。映像はない。主役は音。時報と軽快な「FMあさがや」の英語に続いて、声が聞こえてきた。


『やー……。緊張する。やっぱ緊張するわ〜、だって生放送だよ? しかも初めて。マジで社長トチ狂ってるって。あ、狂ってるって放送コード大丈夫だっけ? うわー、その辺の心配もすべきだったなー』


 声は女性。声優のように綺麗ということはないが、言葉は聞き取りやすい。話しぶりからして槙島美澄ではないだろう。初めての生放送にうろたえている、美澄が用意したチャレンジ枠のパーソナリティだ。

 そんなに緊張するなら仕事なんて受けなければいいのに。どうせギャラだって安いのだから。

 斜に構えたリスナーの感想などいざ知らず、愚痴を吐き終えたのか、パーソナリティはひと息置く。息を吸い込む小さな音が始まりの合図だ。


『新島花蓮かれんの! オールナイトニッポン!』


 エコーがかかる。数秒の沈黙のあと、パーソナリティは声にならない熱っぽいため息をついた。感極まったような声色でテンションも高い。


「はあああ〜ッほんッと嬉しい夢叶った! ラジオ好きだったら絶対わかってくれると思うんだけど、このタイトルコールした過ぎるでしょ〜!? 有楽町じゃないしまだ2時間も早いし36局もネットしてないけど! ていうかせっかくならビター・スイート・サンバかけてほしかったな。音源ない? え? ダメ? いいじゃんちょっとくらい〜」


 何を言っているのかわからなかった。

 ラジオ好きにはわかる共感めいたものがあるんだろうけれど、こんなものは職場と同じだ。内輪の人間が勝手に盛り上がって、よくわからないノリを強要させられる。

 こんなところでまで外様の気分を味わうとは思わなかった。

 スマホを切って寝てしまおうとした矢先、平謝りの後、本当のタイトルコールが聞こえてくる。


『FMあさがや水曜日! 新島花蓮の《夜でもあさがや》!』


 番組のテーマソングらしいポップチューンが流れ始め、再びパーソナリティ——花蓮が話し出す。

 チャレンジ枠、新島花蓮。

 話を聴くに、彼女は新人だ。正しい番組タイトルを言わなかったり、放送コードを無視したりする、お喋りにかけては圧倒的な素人。そんな彼女が毎週水曜23時からの1時間、レギュラーの生放送を始めるという。


『NGワードってどんなのがあるんだっけ? ちょっと印刷して持ってきてよ、読んでみるから。いやわかってるって読まない読まない。うんこ〜! あははは!』

「この人アタマ大丈夫……?」


 なぜだろう、聴いているこっちがハラハラしてくる。

 いつ放送コードに触れてつまみ出されるか分からない。それに頭も——失礼ながら悪そうだ。いつどこで拡散され、炎上するかわからないネット時代、こんな綱渡りみたいな放送をするなんて。


『というわけで私、新島花蓮です。ふだんは芸人と劇団員やってるんですけどモノ好きな社長にスカウトされて喋ってまーす。っていうか聞いて? スカウトしといてギャラがすっごい安いの! 2000円だよ!? しかも事務所が6:4で持ってくから800円! おまけに翌々月振り込み!』

「すごいぶっちゃけるなあ……」


 ギャラの安さに我が耳を疑った。コミュニティFMと言えどラジオなんだから、もう少しもらえているような気がするのに。

 なのに不思議と、花蓮が嘘をついているようには感じない。時給800円トークには謎の熱量がこもっていて、なぜだか信じてしまいそうになる。


『800円って信じられる? 週にバインミー2個買ったら終わりじゃん。そもそもバインミーを買うっていう行為が人として終わってるじゃん』

「ふふっ……」


 思い当たる節があって笑ってしまった。阿佐ヶ谷のバインミー好きに謝ったほうがいい。無茶苦茶だ。それでも、今日ムダにした400円分のガッカリが、思わぬ形で笑えてくる。


『バインミーってすっごい喉渇かない? おまけに野菜しなっしなだし、マジでサブウェイ見習ってほしいんだよね。インスタ映えとかマジでいらん』

「それ!」


 思わず声を張り上げていた。

 花蓮のことなんてほとんど何も知らないのに、語りに自然と飲まれていく。スマホの音量をあげて、斜に見ていた真っ暗な画面に顔を近づける。


『でもあの店、フォーはすごい美味しいんだよね。おじさんも楽しい人じゃん? 半分以上何言ってるかわかんないけど。あー、ダメだ。こんな商店街ディスしてたらスポンサーついてくれなくなるわ。新島花蓮は阿佐ヶ谷のすべてを応援しています』


 「今さら」なんて、吹き出してしまったけれど、例の店主が聴いてたらと想像したら楽しかった。

 実際、FMあさがやの存続には商店街の協賛が欠かせない。美澄がポスターを置いていったのは、どうにか阿佐ヶ谷の本丸を味方につけたかったからだろう。それこそ、大好きなラジオのために。


『おっと、ふつおたが来ました。募集もしてないのに届いたよ。なんでかな〜?』


 思わず「自作自演でしょ」なんてツッコミを入れてしまった。それがちょうど花蓮の喋りと喋りの間にハマって。


『まあいーじゃん細かいことは。いい感じにツッコミ入れてくれると助かります』

「電話じゃないんだから」


 ワンルームとスタジオ。偶然に息が合うのがなんだか面白い。


『ラジオネーム、《チンピラ伍長》。あの〜、新島さん。あなた喋らないと死んじゃう人ですか? ニイジマグロって呼んでいいですか?』

「いいじゃんバカっぽくて」

『えー、やだー。実はマグロってバレるじゃん。ラジオネーム、《鼻からぼた餅》。へー、マグロなんですか。俺阿佐ヶ谷住みなんだけど、どこ住み? LINEやってる?』

「ひっどいナンパ」

『ラジオネーム、《アナル帝国の逆襲》』

「下ネタ多すぎでしょ」

『新島さん、僕は下ネタが嫌いです!』

「どの口が言ってんの」

『どの口が言ってんだよ』


 言葉が重なった。

 声しか知らない新島花蓮と、声を合わせて笑っている。送られてきた——という体裁の自作自演のお便りはくだらないものばかりだ。これがもし私ひとりでハガキを読むだけだったら、あまりにバカバカしくてクスリともしない。

 だけどふたりなら。

 電波を通じてふたりになれば、そんなバカバカしさも笑えてくる。


「ほんと、くだらない」


 涙が出ていた。あまりにバカバカしくてくだらなくて。だけど久しぶりに、心の底から笑えている気がして。


『ラジオネーム、《槙島美澄》。うわ、社長じゃん。読ませていただきますね〜、ごほん』


 居住まいを正した花蓮につられて、こっちの背筋まで伸びた。


『水曜レギュラーに就任した新島花蓮さんに質問です。《夜でもあさがや》を、どういう番組にしていきたいですか?』


 社長らしい真面目な質問だ。さすがの花蓮もハイペースなボケのふつおた読みをやめて、絞り出すように語り始める。


『ひと言で言うのは難しいんだけど、そうだな〜……。マジメでつまんない、長い話になるけどいい?』

「そんなことないって」


 美澄のときには一拍遅れた言葉が、口をついて出る。

 あれだけ「ラジオはオワコン」だの「引き受けなきゃいいのに」と思っていたのに、いつの間にか花蓮の話を聞きたくなっている。

 自分でも信じられない。姿なんて知らない、声だけの人間だ。

 今日初めて存在を知った赤の他人なのに、なぜだか昔からの知り合いみたいに感じてしまう。バカをやって笑い合っていたような気になってしまう。


「聴かせて、花蓮」


 だから知りたい。教えてほしい。

 電波の向こうの新島花蓮は——貴女は、何を考えているの?


『ま、誰も聴いてないと思うけど』

「私がいる」


 花蓮は息を吸った。長い、空気の漏れる音が両耳の神経を研ぎ澄まさせる。


『ラジオ大好きなんだよ。理由はたくさんあるし、今ここで喋っちゃったら来週話すことなくなりそうだから言わないけどさ。一番はやっぱり、救ってくれたからだよね』


 言葉が、全身を駆け巡った。


『寂しいときとか悲しいときとか、ホンット自分クソだなってネガ入ってるときでも、ラジオはいつも同じ温度で迎えてくれるんだよね。わかるかなあ、この感覚。なんて言えばいいんだろうな〜……』


 花蓮の言いたいことは、ハッキリとわかった。


「ラジオは、よりそうもの?」

『……うん、よりそう感じ。ヒマだな〜ってときに、フラッとラジオつけてバカやってたら楽しいじゃん』

「都合のいい友達じゃない」

『そう、私は都合のいい女。都合のいいお耳の恋人。そんな風に思ってもらえたら最の高よ』


 おかげでわかった。

 これがラジオだ。オワコンなんかじゃない。

 今の時代に——いや、今の私に必要なもの。


『だからまー、ラジオから受けた恩をラジオで返したいっつー話。あー、マジメにやり過ぎてキャラがブレちゃったわ。ハッズ!』


 居心地悪そうに冗談めかしても、花蓮のラジオへの熱量はごまかせなかった。

 ラジオを聴きたくなる気持ちが分かった。理解できた。ほんのわずかの間に、耳から入って身体に染み込んでしまった。


 ——私は、新島花蓮が好きになった。

 ラジオの楽しみ方をその声で教えてくれたから。

 なにより人間として、彼女の考え方が素敵だと思えたから。


『えーと次も社長から。パーソナリティやる上での夢。そりゃアレだよ。ラジオの頂点・有楽町で、あの曲で全国36局ネットでお送りすること! え? ラインナップ見ろって? いやだから夢って言ったじゃん、夢も見させてくれないのかよ、ここのスタッフは!』


 無理なんて言わないでほしい。叶ってほしい。叶えてほしい。

 それがどのくらい難しい夢なのかわからないけれど、もし、できることがあるのなら。


『次も社長から。番組への要望は? 時給を上げろ。次のふつおたは、えーっと……』


 ハイテンションで毒を吐いてみたり、時には弄られてイジけたり。側から見れば情緒不安定な女のようだけれど、オーバーな仕草がかえって可愛らしい。

 当初の危なっかしさもどこへやら。いつしか危うさすら自分の持ち味にしてしまって、花蓮はその後も切れ間なく、1時間の放送尺通りに喋りきった。曲をかけず、フリートークとふつおたのみ。


『《夜でもあさがや》水曜日は、お耳の恋人、新島花蓮がお送りしました。おやすみ、阿佐ヶ谷』


 テーマソングが徐々に小さくなり、放送は終了した。まるで夢のような1時間は跡形なく消えたけれど、花蓮が伝えてくれたラジオへの熱量はしっかりと身体の中に残っている。

 あれだけ9パーセントの友達に甘えたのに、眠気なんて微塵も感じなかった。布団の中でも眠れない。暑いくらいに身体が燃えている。


「仕事増やさないでよ、槙島さん……」


 枕に顔を押し付けてゾンビのように唸った。花蓮がバインミーの話題を繰り広げたのもラジオの魅力を語ったのも、明らかに私を狙い撃つためのもの。

 昼間、わざわざアクセスの仕方まで教えてきた美澄は策士だ。

 ラジオはこんなにも素晴らしいと、電波を使っての大プレゼンをやってのけたのだから。

 

「こんなん絶対、応援したくなるって……」


 自分で言っておいて、数時間前との態度の変わりように笑えてくる。熱量に当てられてしまったのだから仕方がない。もう一生、ラジオをオワコンだなんて思えない身体にされてしまったのだから。

 凪いだ心に、ちいさな風が吹いた気がした。


 *


「あーちゃん、そのポスターなに?」


 寝ぼけ眼を擦りながら商店街を歩いてきた華に問われ、ポスターの端っこを握らせる。

 せっかくのポスターだ。なるべく目立つところに綺麗に貼りたいから、ラジオなんて一生聴かなさそうな華の手だって借りる。


「そこの壁に貼るから背伸びして。そうそう……。あ、行き過ぎ。あと、右に3度!」

「3度とかむずかしい〜」

「あと気持ち左に! そう、そのまま!」

 

 こうして、まずは1枚。《チャレンジ! FMあさがや》とチープなデザインのポスターが商工会議所の入る雑居ビルの壁に収まった。会長の許可なんて取っていないが、まあ適当に言い含めればなんとでもなるだろう。最悪、美澄に押し切られたとでも言えばいい。


「うん、綺麗に貼れた! ありがと」

「あーちゃん、なんかいいことあった?」


 きょとんとした華には説明したってわからないだろう。もとい、口で説明したってわからない。あの体験をしたものにしか熱量は伝染しないのだから。


「ん〜……。あったかも?」

「わー! よくわかんないけどおめでとう! 記念に撮るね〜♪」


 どこからともなく取り出した自撮り棒で、華はよくわかんないけどおめでとう記念写真を撮って事務所への階段を登っていった。

 今日は木曜。次の水曜まではあと6日もある。花蓮と美澄、ふたりの作り出す熱量が待ち遠しい。ただの平日が楽しみだなんて思えるのはいつぶりだろう。

 綺麗に貼れたポスターを感慨深く眺めていると、背後から声がした。


「あの〜? 私も撮ってもらっていいですか、写真」

「ええ、よくわかんないけど記念なので何枚でも——」


 声に聞き覚えがあった。いや、聞き覚えどころじゃない。昨晩染み込んだ熱量が、体の奥底から湧き上がってくる。


「——へ、え!?」

「ポスター貼ってもらってありがとうございます。あ、私、新島花蓮って言いまして、喋ってるんですよ〜。全然ヘタックソなんですけどね〜」

「お、おおお……!?」


 新島花蓮、ご本人登場だった。

 声は知れども姿は見えず。あれだけサバけた喋りをするのがどんな女性か、気にならなかったと言えば嘘になる。放送後にFMあさがやのサイトをくまなくチェックしたのに、彼女の写真だけはどこにもなかったのだ。ナウプリンティング。宣材写真すらないド新人。

 一夜にして私をラジオ好きに変えた女性が、目の前に居る。


「あ、え……! に、いじ……ま……!?」


 顔なんてロクに見えなかった。パッと見、綺麗な人だと思った。その程度しか頭に入ってこない。


「ご迷惑でした?」


 顔が頭に入ってこないのは、何を言えばいいのかわからなかったからだ。

 昨夜の感動を伝えたい。込み上げる熱量をどうにか、大好きなパーソナリティ本人に伝えたい。こんな千載一遇の大チャンスを逃すべくもない。何を言おう、何から言おう。昨日の放送を思い出せ。心に残ったことがいくらでもあるはずだ。《アナル帝国の逆襲》。違うそんなくだらないこと思い出すな。あれだけ耳から全身に染み込んだじゃないか。《アナル帝国の逆襲》。《アナル帝国の逆襲》。


「ああああ……な……!?」


 その単語はやめろ! 踏みとどまれ私の口!


「あ、やっぱ大丈夫です。応援お願いしますね」

「があああっ……!?」


 去り際に見せた花蓮の微妙な表情が、ナウプリンティングだった脳内に登録されてしまったのだった。

 よろよろと壁にもたれ、そのまま地面に倒れ込んだ。しおれた野菜みたいに、身体の芯が定まらない。くたくただ。


「もっとなんかあっただろ、バカーッ!」


 このまま甘酢の漬物にして、バインミーにでも挟んでくれ。

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