第2話

 松三は近くのホームセンターから半田ごてなど、さまざまな道具を買ってきてラジオの修理を 始めた。さすがに五十年前のものなので、コンセントに差し込んで電源スイッチを入れると放送を受信はしているが、音は小さかった。

 松三はシャーシーを取り出し、裏返して見たりして、コンデンサーやコイルや抵抗を取り換え たりしながら修理をしていた。それを見ていた有美が、

「おじいちゃんは天才やわ。何も資料を見ずに修理ができるなんて。こんな訳の解らないもの がちゃんと理解できているんだわ」

とオークションの一万円の手数料をもらったこともあって、松三をほめ上げる。 「高一の回路図なんか、目をつぶっていたって書けるぞ。高一どころかスーパーへテロダインだ って、いや高一中二(高周波一段増幅・中間周波二段増幅)でも何も見なくても頭の中に、アン テナから電波が入って、スピーカーから音が出るようになるまでの間のことは、細部にわたって 全部分かっているぞ」

 松三は得意満面になる。

 松三は木製のキャビネットも、きれいにニスを塗って磨き上げたので、由緒ある骨董品のよう な輝きをするようになった。松三の部屋は一階のガレージの奥で、六畳ほどの広さであったが、そこに、三階のベランダにアンテナを立て、電線を引いてきてラジオに接続した。

 松三の手にかかるとラジオは見事によみがえり、大きな音で鳴りだした。とても五十年も前の ものとは思えなかった。

 松三はこのときからテレビを見るのをやめた。四六時中ラジオをつけっぱなしにするようになった。利明が父親の部屋に行くと、

「とにかく、この音を聞いてみろ」

といって無理やり利明にラジオを聞かせる。そして、その音に対してなんだかんだと話をする。 これが松三にとっては何よりも楽しみであるのが顔の表情からよく分かった。

 実際にラジオからは良い音が響いてきた。五十年前にこんな良い音がしていたかどうかは利明には記憶はなかったが、今、町にあふれているどんな音よりも優しく、人間のぬくもりのようなものが感じられた。松三が起きている間はつけっ放している気持ちが分かるような気がする。

 このラジオの音が耳に届くと何とも言えない安心感と故郷に帰ったような懐かしさが感じられ るのだった。また、ラジオに直接アナウンサーやレコードがつながっているような臨場感のする音には新鮮な感動が出てきた。

「五十年前のラジオでも、こんなに見事に蘇るものなんだなあ、お父さん」

 利明が感心して言う。

「そうだぞ。人間も同じじゃ。死んだら終わりではないんじゃ。また必ずこのラジオのように蘇 るんじゃ。だから、死ぬることは、新しく生きることへの出発なんだ。世間で思われているよう な悲しみなどとは全く無関係だぞ。一日働いて夜寝て、また朝起きる、これを繰り返しているが、死ぬ生きるもこれの期間の長いものと同じじゃ。寝なければ体が疲れてしんどいだろう。それ と同じじゃ。次に新しく生きるためには死ななければ疲れが取れないのじゃ。だから死ぬことは大きな流れの中で眠ることと同じことじゃ。なんにも悲しんだりするものではないぞ。いいか、 利明」

 松三はまだ死についていろいろと話して置きたいようだったが、利明はあまり聞きたくなかっ たので話を戻した。

「テレビの地上デジタル放送は音が良いと言うけれど、お父さんの高一ラジオの方が聞き易いね。それに、カーラジオなどではAM放送は雑音が入って音が悪く、FM放送の方がきれいに聞こえるけれど、お父さんのラジオで聴くとこのAM放送の方が格段に良い音がするなあ」

 利明は父親を喜ばそうという気持ちも少しはあったが、実際にその音質の良さは感心するも のだった。現在言われている音が良いとか悪いとかの判断基準とは次元を異にした良さだった。

「アー、そうだぞ。高周波を一段増幅してその後、周波数を変換せずして、直接、検波するのが一番いい音のするラジオなんじゃ。よくもまあ、梶原初年兵はこのラジオを大事に持っていてく れたなぁ。懐かしいなあ・・・一度死ぬ前に田舎に帰りたいなあ。もうかれこれ二十年以上、帰ってないかなぁ」

 松三はいつもの遠くを見るような目つきになった。

 利明の仕事はビルやマンションの配電盤を作ることだった。高校を卒業して以来、四十年を超 えて同じ仕事をしている。中小企業に属する会社だったが、倒産もせずに現在まで続いている。

 今年の年末には六十歳の定年を迎える。仕事を休むことは年間を通じてほとんどなかったので 、有給休暇は繰り越し分も含めて四十日ほども残っていた。さすがに会社の上役も同僚も気を使 ってくれて、

「どんどんと休んで、年休を全部、消化してくださいよ」

としばしば休むことを勧めてくれる。言葉に甘えて、利明は仕事が込まない時は休みを取っていた。

 利明が年休をとった日の正午を過ぎたころだった。陽子は町内会の役員で、老人の世話をする〝触れ合い喫茶〟の手伝いに行ったまま、まだ帰って来なかった。 「オーイ、利明。もうすぐじゃ。ちょっと下に降りて来いや」

 松三の大きな声が一階から響いてきた。

「どうかしたのかい。陽子がまだ帰らないから、昼飯にうどんでも作ろうかと思っているところ だけど」

と言って利明は下に降りていった。

 松三は相変わらずラジオをつけっ放しにしていたが、利明にラジオの前に座れというようなしぐさをする。

「何かいい放送でもあるのかな?」

「シーッ、これを聞いてみろ」

 松三は真剣になってラジオを指さす。ちょうどNHKの正午のニュースが終わったところだった。わずかの時間、無音の状態で、次に番組のテーマ曲が流れた。それを聞いた瞬間に利明はまるで何十年もの歳月を一気に駆け戻って行くような感覚になった。少ししてアナウンサーが、

「昼のいこい」

とのんびりと言った。

「やはり、そうか。『昼のいこい』か。まだ、この番組は続いていたんだなぁ。もう何十年も聞 いた記憶がない。それもそうだ。午前中の仕事は十二時半までだからこの番組は聴けない。時間があったとしてもラジオなど聞かないものなあ。休みに車で出かけても、ラジオでは交通情報を 聞くくらいだから」

 利明は感動の面持ちで言った。利明が小さいころはもちろん、テレビやウォークマンなどは なかった。耳で聴くものとしてはラジオが唯一の楽しみだった。『昼のいこい』も子供向けでは なかったが、記憶の中にこびりついていた。

「そうじゃろう。ワシも懐かしゅうてなあ。今はもう毎日『昼のいこい』を聞いているのじゃ」

 松三もうれしそうに言う。

「特になあ、この曲は小関祐二という偉い作曲家が作ったものや。何か、宇宙にでも吸い込まれていくようなそんな気分にさせる良い曲じゃ」

 しみじみとして松三が言う。

「大げさにいうとこの曲を聴いていると、歳月の流れも、その間に死んだり生きたりすることも 全部、自然のままに、ありのままに行われているような、それでいて、それが何とも言えない喜 びを感じさせるような曲じゃのー。ワシが軍隊にいたとき、満州の氷るような薄い毛布の中で、また、南方諸島のうだるような暑さの中で寝たときも、いつもつらいことがあったり、日本が懐 かしくなった時に、どこからともなく頭の中に、いっぱいに広がって鳴渡ったのがこのテーマ 曲じゃったぞ。だから、わしはこの『昼のいこい』に助けられ、勇気づけられて生き延びた」

 松三は感慨深げに語った。二人はラジオの前にかしこまって座って『昼のいこい』を聞き続けた。

 その夜、利明は、有美にインターネットで『昼のいこい』のテーマ曲が本当に小関祐二の作曲 なのかということと、戦前からこの番組がこの曲で放送されていたのかということを調べさせた 。しばらくしてから、

「お父さん、おじいちゃんは半分は認知性で、半分は非常に頭がいいわ」

と言ってプリントアウトしたものを利明に差し出した。そのプリントを見ると、テーマ曲は間違いなく小関祐二の作曲であった。しかし、この番組が始まったのは戦後のことで、戦中戦前はまだ放送されていなかった。

「まあいいか。お父さんの心の中ではこの曲が過去にさかのぼって流れていて、それによって勇 気付けられたのだから」

 利明はなぜか父が勘違いしていることで安心した。また、その曲が父親の心に深く染み込んで いるのと同じように自分の心にも懐かしい、幼いころをよみがえらせる呼び水のようになってい るの感じていた。

 こんなことがあってから、松三は時々、深夜にラジオから流れる歌を大きな音で聴くようになった。陽子や有美は三階に寝ているので一階のラジオの音はほとんど聞こえなかったが、二階で 寝ている利明にはその音で目が覚めることがよくあった。

 利明は、どんな放送を大きな音にして 聞いているのかと思い、耳をそばだててみると、深夜番組で放送されるナツメロの音楽番組だった。

 翌朝、目をショボショボさせて起きてきた松三は、みんなの前で、

「昨日は、懐かしい歌を聴いたぞ。『国境の町』というやつだ。満州を思い出したなあ」

とか、あるときは、

「『ああ、モンテンルパの夜は更けて』を聞いたぞ。南方諸島が懐かしいなぁ」

とかいい始めた。そして出てくる曲がだんだんと多くなっていった。

 利明は小さいころから歌謡曲が好きだったが、松三やすでに亡くなっている母親がよく歌っているのを聞きながら育ったからだ。だから利明は前時代の両親のころに流行った歌が、しっかり と頭の中に残っていた。

 これらの歌を思い出すと、それが記憶に残った場所と出来事が心に蘇ってくる。松三の望郷の 念が利明の心の中にも広がってきた。

「田舎の情景が思い浮かぶなあ。最後にもう一度、田舎に帰りたいなあ」

 松三が故郷を見ているかのような眼差しになる。

「そうやなあ。一度、ゆっくりと田舎に帰ってみたいなぁ。だけど、その、〝最後に〟という言葉はやめてよ、縁起悪いから。何度でもまだ帰れる。年休も取ってくれと言われているし・・ ・近々、帰ろうか」

 利明も望郷の念に駆られる。

「ホーッ、そうか、楽しみにしておくぞ」

 松三は白髪の生えたまゆ毛を動かせて喜んだ。

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