かつての恋人たちへ

miyoshi

かつての恋人たちへ

 口々に飛び交う「おはようございます」の声に、今日も一日パート勤務が始まる。  

 三角巾を身に着け、エプロンの紐をリボン結びにすれば自然と気合が入るものである。

 後方のレジで日配担当者が売価チェックをしているのを邪魔しないように気を付けて各レジの備品や釣銭の過不足がないかを点検し、本日の特売品を確認すればすぐに店内放送の「開店10分前です」の音声が聞こえてきた。運動会の行進曲にでも使われていそうなテンポの早い曲に急かされるようにして持ち場へ着いた。

 チラシを横目に見ると、本日限りのお値段で提供される品々の中には「お一人様合わせて5個まで」の文字とともにカラフルな写真が印刷されたカップ麺があった。こっそり脳内で退勤後の買い物リストに書き加えることにしよう。

 まだかまだかと透明なアクリル板のドアの前で開店を待つ客たちと目が合った。もうしばらくお待ちくださいませ、の意を込めて会釈する。

 店内放送の曲調が終盤に差し掛かった。私はこの曲の題名を知らないが、ピアノを習わせた息子と娘ならば知っているだろうか。最後の一音までフロア全体に響き渡り、ドアの前に配置した同僚がしずしずとドアをオープンする。

 買い物かごを手にした客たちが一斉に流れ込んできた。

 いらっしゃいませ。


 チラシの立ち上がり日かつポイントデー、そのうえ晴天だからだろう。平日にもかかわらず客入りは上々だ。レジ前の長蛇の列は途切れることなく続いている。そんな日は時間の流れが速く感じられるものである。特売日でなかったり、雨の日であったりと客入りの少ない日であれば昼休憩をはさんだ後の眠くなるような時間が訪れるものだが、今日はずっと忙しく働いていた。こんなに忙しかったのだから、夕飯はお惣菜を買って簡単に済ませてしまおう。体形維持に努める高校生の娘は嫌がるだろうが、退勤時刻が近づけばアジフライが値引きされているので今日のメインディッシュはこれに決まりだ。

 などと考えていたらあっという間に夕方勤務の学生アルバイトと交代の時間になった。お疲れ様です、の一言とともに売り場を後にし、ロッカールームへ直行した。

 手早く着替えて軽く化粧を直し、従業員から主婦の顔になって今度は客用の入り口から再び売り場へと舞い戻る。冷蔵庫の中身を思い出しながら足りない野菜と特売品の乳製品などを買い物かごに入れてゆき、最後にカップ麺のコーナーへと向かった。

 一つひとつが透明なフィルムで包まれたカップ麺はピラミッドのように堆く積まれていた。夕方からの客入りに合わせて陳列しなおしたのだろう。

 「お一人様合わせて5個まで」の組み合わせに少し悩んだが、結局『赤いきつね』と『緑のたぬき』をふたつずつと両者の良いとこどりの『紺のきつねそば』をひとつ購入した。

 この『紺のきつねそば』を見るたびに以前の自分と恋人のことを思い出してしまう。

 彼は大学の同級生で、色白のいかにも文学青年といった人だった。そしてなんとなく始まった恋だった。よくある飲み会の帰りに一方が口にした、付き合おうと、いう一言にもう一方のアルコールで緩んだ頭と口が了承して成り立つような恋。大学デビューを果たした二十歳前後のお飾りのような恋愛である。そのころの私は当然長くは続かないものだと思っていた。私は『彼氏』というツールが欲しかっただけ。きっと相手も『彼女』というファッションアイテムが必要だったのだろう。そんなふうに思っていた。しかし予想に反して私たちは卒業する直前まで交際を続けていたのだ。

 3年次の秋から4年次の夏ごろまでは短い間であったが同棲だってした。そのころによくふたりで食べていたのが『赤いきつね』と『緑のたぬき』だ。そばが好きな私とうどんが好きな彼が各々の好みに合わせて買いだめしていたのだが、あるとき私は『緑のたぬき』を食べたいが同じくらい『赤いきつね』の中に入っている油揚げを食べたいと思ってしまった。そしてその旨を彼に伝えるべく、今回だけ『赤いきつね』の油揚げをちょうだいよ、と訴えたのだった。彼は困ったような顔で、それじゃあ僕は素うどんになっちゃうよ、などと言いながらも私の要望をかなえてくれた。当時はまだ『紺のきつねそば』が存在しなかったから斬新な試みであったと思う。

 カップ麺の具材を分け与えてくれただけではなく、彼はなんでも私の要望通りに動いてくれていた。それは今だからわかることだ。あの頃の、若さだけが取り柄の女子大生だった私にはわからなかったことだ。相手に何か我慢させていた、対等な付き合いではなかったと知ったのは、互いに就職が決まった4年次の秋だった。

 その日の私は、バイトから帰ったら大事な話がある、と彼に言われていたのでおとなしくアパートの一室で待っていた。もしかしてプロポーズだろうか。卒業して社会人生活が落ち着いたら、結婚しよう、とか? 彼とだったら幸せに暮らせそうだ、などと浮かれていた。そんなふうに浮足立った私は、単位もすべて取り終えていたので、卒業旅行でもしようと伝えるつもりで彼の帰りを待っていた。人生で最も浮かれていた瞬間だといっても過言ではなかった。

 やがて日が落ち、空が青紫色に染まるころに彼は帰宅した。

 このころの私に少しでも観察眼があればすぐに気が付いただろう。やや青ざめ、疲れ切っていた彼の様子に。

 彼はいつもならマグカップに注ぐのに、今日はペットボトルから直接ほうじ茶を一口飲み下し、小さく息をついた。

 そして淡々と告げられた。

 ふたりで暮らしたこのアパートを出ていく、ということ。同じゼミの美人の同級生と交際すると決めたこと。

 大事な話は別れ話だった。

 君は気が付かなかったみたいだけど、実はもう荷物のほとんどを運び出しているんだ。彼女の部屋で卒業まで過ごすことにしたから。もともとこの部屋は君が一人で住んでいたんだし、僕のほうが出ていくのが妥当だと思って。今月分の家賃はここに置いていくね、それじゃあ。

 他にもいろいろと恨み言や言い訳を並べられたと思う。ショックであまり覚えていないが。記憶にあるのは幸せな日々と大きな油揚げを乗せた『緑のきつね』の味、それにローテーブルにきちんとそろえられた数枚の一万円札と輝く硬貨の色だけだった。

 ああ。だからマグカップを使わなかったのか。単位を全部取り終えていてよかった、もう学校に行かなくていいから友人から憐まれることもないな。

 そんなことを考えて残りの期間をアルバイトに費やしたのだ。

 そして数年後。就職した会社で出会った人と結婚し、寿退社の後、一男一女をもうけた。今はしがないスーパーのパート従業員だ。それでも、このありふれた日常をいとしいと思うくらいには幸せである。

 今頃、彼はどうしているだろうか。

 美人の彼女と結婚したのか。独り身なのか。元気に暮らしているのか。

 もう誰かに『赤いきつね』を素うどんにされることがないから安心しているのだろうか。

 この『紺のきつね』は私が食べよう。息子や娘に横取りされないように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

かつての恋人たちへ miyoshi @miyoshi_caf2

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ