“『東洋深淵奇譚』
竹拓屋
“『東洋深淵奇譚』
―本書は昭和中期に『西洋深淵奇譚』を著した後、奇怪なる所以によって命を落とした作家、本出目鱈氏の日記を基に作られたものである。
昭和中期、男は未だ復興の途にある東京都神保町を歩いていた。
理由は単純で、次作の題材となり得る作品を探して神保町の古本屋を巡っていたのだ。
しかし、男の眼鏡に適う作品は生憎見つからず、彼は暗鬱な表情を浮かべて自身の袴の裾を土塗れにしながら荒々しい歩調で通りの縁を歩いていた。
そんな男の目に飛び込んできたのは、辛うじて「古本」と書かれた札が軒先に下げられているだけの目立たない古本屋であった。
恐らく戦火を逃れることが出来たのであろう木造二階建ての建物は本を傷めない様にするためか殆ど窓は無く、外から光を取り入れられるのは軒先の薄汚れた硝子でできた引き戸の他ない、といった有様だ。
しかしそんな外観に心惹かれた男は建て付けの悪い硝子戸を開けると声を上げた。
「おうい、やってるかい」
薄暗い店内には眼鏡をかけた翁が椅子に腰かけて本を読んでいるだけであった。
そこに男のひょうきんな声音が響いたが、老人は彼に一瞥しただけで何とも言わなかった。
「勝手に見させてもらうよ」
「おう」
短く、蚊の鳴くようなしかし、しっかりとしたしわがれた声が返ってきたという事実に気を良くして男は彼の背より高い本棚を眺めつつ、その間を縫うように闊歩する。
それを何度か繰り返した所で一冊、異質な本があることに男は気づいた。
その本の背表紙は光沢のある黒一色で、手に取ってみれば何らかの皮から作られていることがわかる。
そして、男は手に取ってこの本が異質なものであることを理解した。
本のどこを探しても、題名も作者の名も記されていないのだ。
しかし、その本の異質さの本質はそこではない。
その纏った雰囲気こそ、異質さの本質であった。
後に男は日記の中でこう記している。
『これまで何百冊と本を手に取ったが、その本だけは明らかに違った。本にはそれぞれ纏わりついている雰囲気というものがあるのだが、その本だけは今まで触れたどの本の雰囲気とも似つかない、独特で粘性を帯びた重くて黒い、そうとしか形容できないような雰囲気を持っていた』
ともあれ、自身の納得のいく本を見つけたことに男は酷く喜んだ。
頁を数枚捲ればalphabetが並んでいたが、男は旧帝大出身の人間であり、英語も苦なく読むことが出来る程度にはその言語を習熟していた。
それ故、その程度の事柄は彼にとって一切問題無かったのだ。
「此れは幾らだい?」
「値札のないものは全て10円だよ」
「買った」
代金を勘定台に叩きつけた男は、急ぎ足で古本屋を飛び出したのだった。
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