第九十二話 沈黙のそよ風【後】

 突然やってきた長兄に、『翠桃園すいとうえん』で仕事をしていた弟たちは、たいそうおどろく。


「どうされたのですか! ファン兄上!」

「様子を見にきただけだよ。金王母こんおうぼさまのお世話なら、黒嵐ヘイラン小慧シャオフゥイにまかせているから心配ない」


 うそは言っていない。「みんな、仕事を続けて」と平静をよそおいながら告げれば、黒俊ヘイジュンをはじめとした一番目から六番目の弟たちは、各々の持ち場へもどった。

 黒皇ヘイファンも言葉どおり、ひろい果樹園を見て回る。

 それこそ目を皿のようにして、黄金の桃木を一本一本かぞえた。


(千二百……すべてある)


『翠桃園』の手前に植えられたこの桃木には、三千年に一度、ひとつずつ、仙桃が成る。そのどれもが健在であった。

 そろそろ収穫をむかえるこの時期に『なにか』があっては、金王母に示しがつかない。

 ひとまず、欠けた桃の実がないことを確認した黒皇は、こころの底から安堵の息をもらす。


 そんなときだった。ふらふらと、黒皇の視界に入る影があったのは。


黒雲ヘイユン……!」


 八番目の弟、黒雲。その顔を黒皇は長らく目にしていなかった。なぜなら。


「兄上……『おつとめ』が、おわりました……」


 力なく笑った黒雲は、ひざからくずれ落ちる。


「黒雲! 皇兄上、黒雲が!」

「落ち着きなさい」


 それは、黒皇自身に向けた言葉でもあった。

 倒れ込んだ黒雲の上体を抱き起こし、ひたいに手を当てれば、やはり焼けるように熱い。


 太陽として、下界を照らす。

 ときには危険をともなう役目であるため、ひとりひとりの頃合いを見極め、弟たちに『おつとめ』を教えていた黒皇ではあったが。


(……見誤った)


 莫大な影響をおよぼす陽功の使用は、まだ八番目の弟には荷が重すぎたのだ。


黒東ヘイドン黒倫ヘイルン黒杏ヘイシン、黒雲をへやに」

「おまかせください!」

黒文ヘイウォン黒春ヘイチュンは金王母さまにご報告を。それから、金瓏宮こんろうきゅうにおられる青風真君せいふうしんくんをお呼びしてほしい」

「青風真君を……?」

「『氷功ひょうこうのご助力をいただきたい』とお伝えすれば、わかってくださるはず」

「はい、わかりました!」


 黒皇の指示を受けた弟たちが、即座に散ってゆく。

 黒東、黒倫、黒杏ら三つ子の兄に担がれた黒雲が消えゆくさまを、じっと見つめる。


「あまり、ごじぶんをお責めにならないでくださいね」


 ふたり残された果樹園にて、そっと声をかけてきたのは一番目の弟、黒俊だ。この子はほんとうに、さすがとしか言いようがない。


「黒俊、しばらくの『おつとめ』は、私がいこう」

「まさか、おひとりでなさるおつもりですか? それは兄上に負担が……!」

「だいじょうぶだ。その代わり、たのみたいことがある」

「わたしに……ですか?」


 黒皇はうなずき、たたみかけるように告げる。


「もうすぐ『翠桃会すいとうえ』がひらかれる。宴が無事に終わるまで、青風真君といっしょに、ここの管理を任せたい」


 念には念を。

 そして願わくば、どうか杞憂であってくれ。


 黒皇はただその一心で、静寂につつまれた果樹園にたたずむ。

 ふいのそよ風は濡れ羽色の髪をなでるのみで、黒皇が胸にいだいた一抹の不安への答えは、なかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る