第四十話 神の子【後】

 まさかとは思うが、後宮に関心があるのでは。


梅雪メイシェが、ほかの男のもとに行く? 駄目だ……駄目だ駄目だ、そんなことは許せない)


 紫月ズーユェは、考えるだけでぞっとした。


(あんなところに行ったって、こどもを生む道具にされるだけだ)


 もし梅雪が都へ行きたいなどと言い出そうものなら、こっぴどく一蹴してやるつもりだ。


(おまえは俺に愛されて、俺のこどもを生むんだ)


 紫月は悶々としていた。焦っていたともいえる。


「紫月兄さまは、なんていうの?」

「……は」

「本当のお名前。なんて書くの?」


 そうしたなか、梅雪からのふいの問いは、脈絡がなさすぎた。


 ──なにを言っているんだ。俺は、紫月だろう。


 そうやって軽く流していいような話題では、ない。

 じっと梅雪のまなざしを受け、紫月はとうの昔に仕舞い込んだ『それ』を、取り出す。


「……旭月シューユェあさひつきで、旭月だ」

「きれいな名前だね、旭月」


 梅雪が、笑った。

 どくんと、紫月の鼓動が脈打つ。


「わたしの名前はね、ハヤメっていうの」


 固まる紫月の手をとった梅雪は、その手のひらを指でなぞる。『早梅』と記していたように思う。


「これで、早梅ハヤメと読むのか……?」


 まるで異国の言葉をあてがったようだ。

 なにより、梅雪が突然こんなことを言い出す意味が、紫月にはわからない。


「そうだよ。わたしは、早梅のお人形さんなの」


 この子は一体、なにを言っているんだろうか。


「わたしは早梅で、早梅はわたし。からっぽなわたしは、もうすぐ早梅になるの。旭月だけに教えてあげる」


 あぁ、なんて単純なやつ。

 なにを言われているのかみじんも理解していないくせに、「ひみつだよ」とはにかまれただけで、なにもかもゆるせてしまう。


「わたしがもっと大きくなったら、早梅って呼んでね。そうしたら、すごくうれしいだろうから」


 そうか、そうなのか。

 紫月はようやく腑に落ちた。

 これはきっと、『あざな』のことなのかもしれない、と。


 ひととして実を結んだあかし。

 結婚することをゆるされた者が持つことのできる、もうひとつの名。


 その名を呼んだなら、だれよりも愛しい子は真っ赤な衣裳を着て、この胸に飛び込んできてくれるだろうか。


(早梅……)


 紫月はそっと、その音を舌で転がす。

 梅雪が、だれも知らないこころのやわいところを見せてくれたようで、嬉しかった。泣きたくなってしまうほどに。


「梅雪、それから紫月もいるかしら。夕餉の時間よ」


 扉越しに聞こえたのは、桜雨ヨウユイの声だ。

 本来は女中の仕事だろうが、厩舎きゅうしゃでのこともある。梅雪を気遣って、わざわざ呼びに来てくれたのかもしれない。


「はい継母はは上、すぐにまいります」


 危なかった。桜雨が来てくれなかったら、どうなっていたことか。

 柄にもなく熱くなってしまった目頭を隠すように背を向けた紫月の手を、くいと引くものがある。


「どうした、梅雪」

「紫月兄さまに、あげたいものがあって」


 紫月がなにを、と返す前に、右手になにやら押しつけられる。

 見れば朱の糸で梅花の刺繍がほどこされた、手のひらに乗る程度のちいさな巾着だった。

 長い紐が結ばれており、首へ提げられるようになっているほか、ほのかに甘い香りがする。


白檀びゃくだんの香り……これは、香り袋か?」

「お人形あそびの、おれい」


 とたん、紫月は言葉にできない熱情にみまわれてしまう。

 女が男に香り袋を贈る意味を知っているのだろうか、この幼い子は。


 ──あなたを、愛しています。


「ありがとう、梅雪っ……」


 さきほどはこらえた熱いものが、まなじりに浮かぶのを感じる。

 紫月はどうにもたまらなくなって、小柄な梅雪を両腕いっぱいにかき抱いた。

 愛しいひとに愛される。これ以上の幸福があるだろうか。

 感涙にむせぶ紫月は、知るよしもなかった。


「だいじに、してね」


 梅雪がそうつぶやいた、本当の意味を。



  *  *  *



 月のない深淵の夜。

 卓上の燭台にともされた橙の火が、音もなくゆれている。


「──それは、間違いないか」


 平生のおだやかな表情をひそめた桃英タオインが、向かいあった人影へ問う。


「えぇ、お兄様。遺族の許可を得て検死いたしましたので、間違いありません」


 答えたのは、桜雨。

 氷雨ひさめを閉じ込めたような瑠璃のまなざしで、兄であり夫でもある男をそっと見つめ返す。


亞夢ヤーモンのことですか?」


 重い口をひらこうとしていた桃英は、はじかれたように背後を見やった。

 突然転がった鈴の声音に、桜雨も驚きを隠せずに息をのむ。


「梅雪、こんな時間にどうしたの?」


 言いながら、愚問だ、と桜雨は眉間をおさえた。

 人の死を目の当たりにしたのだ。幼い娘が眠れずとも、不思議なことではない。

 紫月を責めるわけではないが、今夜はやはり母である自分がついているべきだった。


 けれど、それは桜雨の杞憂に終わる。

 当の梅雪が、さびしい、こわいと、泣きついてくる様子がないのだ。


「わたし、知ってるよ」


 梅雪は賢い子だ。三つで書をたしなみ、いまでは琵琶も弾きこなせる。だとしても。


「からだはきれいだった。でも、心臓がつぶれてたんだよね」


 だとしても、嗚呼。


「亞夢たちは、ころされたんだよ」


 いま目前に在るのは、神の子だ。

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