第七話 凍てつく毒【後】

「そうだ君、こっち向いて。口のなかのものをぺっとしなさい。美味いもんじゃないだろう」


 ハヤメがふところを探ったところ、手巾ハンカチのようなものはなかった。

 そこで血にまみれた憂炎ユーエンの口もとをぬぐおうと、ハヤメが袖をふれあわせたときだった。


「っ……かはッ!」


 こぽりと吐き出された、血糊。

 どさりと床板をはねたからだを見おろして、ハヤメは血の気が引く思いだった。

 卒倒した憂炎の口からとめどなくこぼれているものは、血糊ではない。

 ──血だ。


「憂炎? どうした憂炎、憂炎っ!」


 肩の痛みも忘れて憂炎へ駆け寄るハヤメ。

 夢中でちいさなからだを抱き起こすが、状況は深刻なものだった。


「うぁっ……!」

「憂炎! 一体どうし──」

「いたい……痛い痛い痛い! うるさいうるさいうるさいッ!!」


 指先がふれただけでも「痛い」と。

 ささやき声まで落として名前を呼んでも、「うるさい」と。

 憂炎の錯乱具合が、尋常ではない。


 脇腹や手足には打ち身の痣があるものの、それが原因とは考えにくい。

 そもそも憂炎に目立った外傷はないのに、ふれただけでこんなに痛がるなど、おかしい。


(聴覚に……なにより、痛覚異常……神経系の病でもわずらっていたのか?)


 いや、それもない。

 憂炎に持病があったなら、先ほどまで問題なく会話ができていたことの説明がつかない。


「みえない……なにも、みえない……さむい、さむい……」

「憂炎……っ、これは!」


 とっさにふれた憂炎のからだが、冷たい。四肢の末端から、凍りついているように。

 うつろな柘榴色の瞳は闇をさまよい、焦点があわない。


(なんだ……なにが起きているんだ)


 視覚に、体温調節機能までやられている。

 ハヤメが次の行動を決めあぐねているうちに、かは、と憂炎がふたたび血しぶきを散らした。

 突然の全身症状。

 これが外傷や病によるものでないとすれば。


(まるで、猛毒でも飲んだみたいじゃないか……!)


 そこで、はたと我に返る。


 ──梅雪は作中屈指の悪女だ。

 皇子のをくわだて、捕らえられる。

 稲妻に撃たれたかのように、ハヤメは思い出した。


(そうだ、梅雪は……体内毒をもつ少女だ!)


 ハヤメが知らなくとも、このからだが知っている。


 梅雪の血中には、高濃度の神経毒がふくまれている。

 微量でも摂取をすれば神経を破壊し、感覚器異常をきたす。

 最終的には全身の血流がとどこおり、凍てつく寒さに苦しみながら死に至るのだ。

 人呼んで『氷毒ひょうどく』。ザオ一族が生まれもつ猛毒だ。


(私に噛みついたことで、憂炎が『氷毒』を摂取したなら、解毒法は……)


 ……あぁ、だめだ。思い出せない。

 それがどこにあるのかはわかるのに、余計なものが邪魔をして、すぐには取り出せない。となれば。


「悪いがクラマくん、ここまでだ」

《ハヤメさん、なにをするつもりですか》

「またあとで連絡する」

《ハヤ──!》


 ハヤメは人さし指でふれた空中のメッセージウィンドウを、思いきり上方へはじく。

 接続は中断。【70%ダウンロード完了】と表示された画面が、ぷつりとブラックアウトした。


 ハヤメは深く呼吸をする。

 まぶたを閉じ、雑念を極限までそぎ落とした状態で、からだに刻まれた記憶を掘り起こす。


(毒そのものを消し去る方法は、ない……が)


 ひとつだけ、活路があった。


「いたい、さむい……もういやだ、つらい、しにたい……ころして」

「馬鹿なことを言うもんじゃない!」


 そんな弱気を口走られては、ハヤメも意地になるというもの。


「死なせない。死なせないったら死なせないからな」


 ハヤメは襟に指を引っかけ、力任せにひろげる。

 同時に帯をほどき、着物を床板へ落とす。

 ためらいはなかった。


 下着のみの姿になったハヤメは、倒れた憂炎を抱き寄せ、素肌をふれあわせる。


「私がそばにいる。だから憂炎、きいてくれ」


 痙攣にも似た凍えを訴えるからだを包み込み、振り乱された月白の髪へ指を通す。


 成功するかどうかは、運次第。

 そうだとしても、心から信じている。

 君なら成し遂げられると、信じている。


 ──憂炎。


「君の炎で、氷をとかすんだ」

 

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