第百七十五話 言葉にできない感情【前】

 晴風チンフォンにつれられ、暗珠アンジュはひろい屋敷を奥へ奥へと進む。

 やがて離れの一角、北向きに面したへやの前にたどり着く。

 もともと、ひろさのわりにひとけの少ない屋敷だが、ここはとくに静まり返っており、部外者を寄せつけぬ、不思議な空気感を漂わせていた。


「俺だ。ちいとばかし邪魔するぜ」


 扉をこぶしで軽く叩きながらひとつ断った晴風が、ふり返り、暗珠へ目配せを寄こす。

 入れ、という意味だろう。

 暗珠は気を引きしめ、扉をひらいた晴風の背に続く。


「いかがなされましたか、お祖父様」


 そして暗珠は、すぐに思考停止する。

 歩み寄ってきた人物が、すこし大人びてはいるが、晴風と瓜ふたつ、まさに生き写しの青年であったためだ。


「いきなり悪ぃな、桃桃タオタオ。来客だ。会ってやってくれ」

「私に来客、ですか。いったいどのような──」


 晴風の後ろにたたずむ暗珠を瑠璃の双眸にとらえた刹那、桃英タオインの背に戦慄が走る。

 構えの体勢を取ってしまったのは、条件反射だ。


「……これはどういうことか、お教えねがえますか、お祖父様」

「俺の独断だ。責任は取る。こっちの坊主と話してやってくれ。こいつには、『知る権利』がある」


 顔を合わせるのははじめて。まだ名乗ってもいない。しかしながら暗珠も桃英も、相手が何者なのか、直感的に気づいていた。

 さきに口火を切ったのは、桃英だ。


「そのたたずまいは、皇室関係者──ルオ暗珠アンジュ皇子殿下とお見受けいたす」

「相違ない。貴殿はザオ家の御仁だな」

「早桃英。梅雪メイシェの父でございます。ごらんのとおり手が空いておりませぬゆえ、たいしたおもてなしはできませんが、ご容赦を」


 腰を折り、淡々と、流暢に告げる桃英は、腕に赤ん坊を抱いていた。きものの柄から察するに、男児だろうか。


「……そちらの子は?」


 梅雪に弟がいただろうか。原作の知識は網羅していたはずだが、思い当たる節がない。

 素朴な疑問を投げかけた暗珠に、桃英はつと瑠璃の瞳を細める。


「まぁま?」


 緊迫の静けさを、幼子の声がやぶった。


「じぃじ、まぁま、まぁま!」


 赤ん坊はきょろきょろとあたりを見まわして、だれかをさがしているようだった。


「まぁま……ぅう、うぁあああ~!」


 しかし見つけられなかったのか、水桶をひっくり返したように泣きじゃくりはじめる。


「あぁ蓮虎リェンフー、よしよし。もうすこしがまんしてくれ、いいこだから」


 まるい背を軽く叩いて桃英があやすも、赤ん坊はいやいやと首をふって、みじかい手足をばたつかせている。


 それを目の当たりにした暗珠はというと、絶句していた。

 いきなり赤ん坊が泣き始めたのもそうだが、なによりおどろくべきは、その容姿。


(……あかい、瞳? 翡翠の髪だから、早家の血は引いているんだろうが……)


 思考をうばわれた暗珠は、注意力が散漫になっていた。無防備きわまりなかった。


 ──ひたり。


 右の頸動脈へ押しあてられた『熱いなにか』の感触に、暗珠ははじかれたかのごとく我を取り戻す。


「これはなんの冗談なのか。その赤ん坊から、梅雪とよく似たにおいがします。それと、もうひとつは──」


 ふり返ることは許されない。

 背後を取った人物の様子を目視でうかがうことはできないが、暗珠はそれがだれなのか、すぐに理解した。

 表情まで目に浮かぶ。きっと鬼のような形相をしていることだろう。


「あぁ、なんて悪夢だ……堕ちるところまで堕ちたな、下衆め。もはや生かしておけるものか」

「やめてくれ憂炎ユーエンっ! 誤解だ、殿下じゃない!」

「っ、こら梅雪、飛びついてきたら危ないじゃないですか!」


 背後の殺気が散る。早梅はやめの乱入によって、暗珠を拘束していた憂炎の集中力が途切れたのだ。

 瞬時に身を反転させ、臨戦態勢に入った暗珠が目にしたものは、憂炎を羽交い締めにした早梅と、憂炎の右手から煙のようにかき消えた『剣のかたちをしたモノ』だった。

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