第三十五話 秋風は涼やかに【前】

 梅雪メイシェが、毒の入った茶を飲まされた。


(世話係はなにをしていた!? 『ヒョウドク』? なんだそれは!)


 邸宅を駆けずり回る使用人たちの叫び声は、断片的な情報しかもたらさない。

 とおになったばかりの紫月ズーユェではあったが、生まれつきの賢さで散らばった点と点をつなぎ合わせ、しだいに状況を把握する。


 梅雪が口にするすべてのものには、毒がまぜられていた。

 ここザオ家では、そうして毒をすこしずつ体内に蓄積していくらしい。


 だが無知で愚かな乳母が、致死量をはるかに超える毒の入った茶を、梅雪に飲ませてしまった。

 これを受け、乳母、食事の管理をしていたくりや係、その他すこしでもこの件にかかわった使用人は、すぐさま屋敷を追い出されたのだと。

 梅雪と喧嘩をして紫月が飛び出した、一晩のうちの出来事だった。


 腑に落ちると、今度は燃えさかるような怒りが、紫月にわき上がる。


梅梅メイメイに書を教えていた、あの乳母か……あいつ……殺してやろうか)


 そんな考えがよぎったけれども、やめた。


 なにより腹立たしい相手は。

 第一に責めるべきは。


 ──ねぇ、旭月シューユェ、あなたはすごい子なのよ。


 紫月の脳裏に、母の言葉がよみがえる。


 ──だからは、あなたが一番だいじだと思うひとのために、使いなさい。


 そうだ、報復なんかしている場合ではない。

 おのれには、やるべきことがある。


 考えるまでもなく、紫月は駆け出した。



  *  *  *



 梅雪が床に伏して三度目の夜。

 わずかに開いた窓のすきまからすべり込んだ紫月は、音もなく床へ降り立ち──、立ち上がった。


 母と死別し、ただの猫のふりをして生きてきた紫月にとっては、最後に人の姿になったのがいつだったか、もう覚えていない。


「梅梅……」


 寝台に横たわった梅雪の顔色は、真っ白だった。

 唇は紫で、ひゅう、ひゅうと、ひどくゆっくりな呼吸を、やっと続けている状態。


 思わず目を背けてしまいたくなる。紫月はそんな自分を叱咤し、唇を噛みしめた犬歯で──人のものよりするどい牙で、おのれの親指を噛み切った。


「口をあけて、梅梅」


 うつろな瑠璃の瞳が、ふいの声の主を探し、闇をさまよう。


「だ、れ……なん、で……?」

「いいから! おねがいだから!」


 梅雪は紫月だと気づいていないのだ、ろくに見えず、聞こえてもいないだろう。

 そんななか、弱々しい呼吸をくり返す梅雪のちいさな唇が、すこしだけひらく。

 すかさず紫月は親指を突っ込んだ。


「んぅうっ!」


 驚きと息苦しさで、梅雪が口を閉じようとする。その拍子にガリ、と歯が食い込んだ。


(こんな痛み、梅梅にくらべたら……!)


 紫月は奥歯を噛みしめて、異様な熱をもつ親指を梅雪の舌下ぜっかへ押しつける。

 噛み傷からあふれた紫月の血液が、毛細血管からみるみる吸収されてゆく。


 どれだけ経っただろう。ふっと、親指の痛みが引く。

 紫月がそっと引き抜けば、脱力した梅雪の寝顔が目に入った。


「……息、してる」


 さきほどのたよりないものとは違う。

 徐々にだが唇に赤みが差し、なにより苦悶にゆがんでいた梅雪の表情が、おだやかだ。


 とたん、眠る梅雪へ折りかさなるように、紫月さくずれ落ちた。


「ごめん……ごめんね、梅梅、おれがばかだったっ……!」


 あのとき、しょうもない癇癪を起こさなければ。

 梅雪のそばを離れなければ。

 そうしていたら、この子はこんなに苦しまずにすんだかもしれない。


「……まもるから」


 愚かな自分をゆるしてくれとは言わない、だから。


「おまえを傷つけるやつは、おれがやっつけてやるから」


 もう離れない。離さない。

 そのためなら、なんだって投げ出してやる。

 紫月の脳内は、ただただ、その思いだけで埋め尽くされた。


「そこにいるのはだれだ! お嬢さまから離れろ!」


 あぁ、だれかきた。

 なんのために? だれのために?


「──うるさい。おまえが消えろよ」


 深い眠りに沈む梅雪を抱きしめて、紫月の藍玉の眼光が、夜闇にまたたいた。

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