本編
序
蓮の花も満面に
白い月明かりをあびる水辺の
笠をまぶかにかぶっているため、その顔は隠されている。
笠のふちから
ひとたび落下しようものなら無事ではすまない蓮池を目下にしつつも、影の主はしゃんと背を伸ばして、あかるい夜のなかにあった。
後生大事に、ひと張りの
雪のごとく白い指が、銀色に月光を反射する弦を
しめやかな旋律が、
「
琵琶を弾く人物の背後に、低い男の声がせまる。
右の頚動脈に押しあてられた無慈悲な感触は、硬い硬い鋼のものだ。
されど、首筋に刃を突きつけられようと、琵琶の音はやまない。我関せず、とでもいうように。
これに、髭をたくわえた壮年の男は、つばを散らし
「貴様!
いかに怒号が轟こうと、なにが変わるわけでもない。
池をかこむ枝葉は沈黙し、風は乱れない。水面の月影さえも。
ただ月と夜と琵琶の音だけが、凛然と存在する。
「よいか、俺が魔教だといったら魔教なのだ。来い、
琵琶を奏でる白雪のごとき指が、弦上にとめ置かれた。
「
夜の静寂に、澄んだ声がひびく。年若な乙女の声だった。
「貴公の名は存じ上げている。
「おのれ! 殺されたいのか!」
「笑止。ときに荷を、ときに人を護る鏢局の武人が、かくも落ちぶれるとは」
乙女の口調はやわらかい一方で、軟弱さを感じさせない堂々たるものである。
「身を滅ぼしたのはおのれの責であろうに、なぜ関係のない女子供をねらう?」
火遊びがたたって高然が鏢局を追われたことは、
金品や旅客の護送を
だが高然は、みじんも反省の色をみせなかった。
職をうしない、余計に傍若無人な気性を荒らげた。
ふらりと出向いた
そして『魔教の
まさに、正気の沙汰ではない。
「高然よ。貴公の言葉に琵琶の音を返した私の態度が、ずいぶんとお気に召したようだな。よいことを教えてやろう」
乙女の声はゆるがない。
粛々とした月明かりに、鈴のごとく、
「きいてもいないことをベラベラとしゃべるのは、大嘘つきがごまかすときか、臆病者が気をまぎらわせるときだ」
「小娘! 言わせておけば!」
高然は力まかせに両刃の剣をふるう。
皮膚ごと裂かれた頚動脈から鮮血が舞うさまを想像して、高然は下卑た笑みがおさえられない。
がしかし、でたらめな鋼の軌道は虚空を掻くのみ。
──ベン。
地底にひびくような低い一音がうち鳴らされる。
それは単なる音律にとどまらず、空間をもゆらす強烈な音波となって、屈強な男の
石畳へしたたかに後頭を打ちつけた高然は、めまいに襲われながらも放りだされた剣の柄を探りあて、立ち上がりざまにふるう。
「弱いやつほど、さきに剣をぬく」
前のめりに体勢をくずした高然は、
とん……と、剣先に降り立つ乙女。
およそ常人では成し得ない、
「このぉッ!」
がむしゃらな剣さばきでは、やはり獲物をとらえられない。
蝶よりも軽やかに宙を舞う影が、ふわりと高然の視界をはずれる。
目を剥いた高然の目前で、
「
──ベベン。
乙女の華奢な指先がはじいたとは思えぬ、重厚な旋律。
空間をも歪める音波が、高然の
腹のなかで臓物がひしゃげる感覚に、男は天を仰ぐ。ぽかりとひらいた口から、鮮血が飛んだ。
まばたきのうちに致命傷を負った高然は、その場にくずれ落ちる。
「花を
地にひれ伏した高然は、たちまちに痙攣にみまわれた。
それは寒さによるものであり、恐怖によるものでもある。
「……あ、
愚かな高然はようやっと気づいたのだ。
琵琶をいろどる花の意味に。
おのれが
「まさか、まさか……
「おや、魔教の者をみるのははじめてか? 魔教狩りのくせに?」
可笑しげにふるえる乙女の声音は、言外の肯定だ。
高然はガクガクと四肢の暴れをおさえられない。
はなから敵うはずがなかったのだ。
剣先をはなれ、蓮池の水面へ降り立った相手は、人ではなく、仙女なのだから。
「
「げっ……」
悠然とした姿勢をくずさなかった乙女──梅雪だが、そのときはじめて鈴の音をくもらせる。
高然にとっても、傷口をえぐられ、塩を塗り込まれるかのような心地だった。
ふいに頭上へ落ちてきた男の声は若く、物腰のやわらかなものではあったけれども。
「夜のお散歩なら、わたしもつれていってくださいとおねがいしているでしょう。お外には危険がいっぱいなんですよ?」
「世の中の『危険』をあつめて煮つめたような君が、言うかね……」
「え、なんですって? かわいらしい声がよくきこえませんでした。もういちど言ってくれますか、小梅?」
「独り言だよ」
高然の知る限り、かの瑞花元君の尊名を呼ぶことのできる存在など、この
「え、焔魔仙教教主……
月明かりそのものをやどしたかのような
その燃える
「なんだコレは。薄汚い鼠だな」
「憂炎、素がでてる」
「おっと失敬。あまりに見苦しいモノでしたので、つい」
まるで菩薩かと思えば、阿修羅の形相をする。
中性的な美をもつ青年の存在は、底知れない畏怖でもって、高然の四肢と言論の自由を奪った。
「ともあれ、いつまでも置いておくと小梅の美しい瞳が穢れてしまいますから、さっさと野良犬の餌にでもしてしまいましょう」
「やめなさい、わんちゃんにこんなゲテモノを食べさすなんて。かの有名な高然殿だぞ」
「あぁ、色狂いの。それじゃあ
「ほんっとうに君には、人の心ってもんがないな……」
「おこがましくもわたしの小梅の視界に映ったんです。あの男は万死に値します。五臓六腑を引きちぎり、骨の一片まで粉々にしてやりたいところですが」
「こっわ……」
「そんなことより、琵琶を聴かせてください。添い寝をして、毛づくろいをしてください。小梅がいないと夜もねむれないんです」
水面のため息がきこえているのか、いないのか。
薄幸の美青年の皮をかぶった魔教主が、どろどろに煮つめた水飴のような声で梅雪を呼ぶ。
ふいの風紋によって、蓮の花が左右にわかれる。月光を映した水面に、ふわりと朱欄を越えた憂炎がひざまずく。
「さぁ、帰りましょうか。わたしの愛しい花」
それは宣告だ。
これ以上は、どこにも行かせないという。
月明かりに
今夜も、ここまでか。
観念した梅雪は、左腕で白琵琶をいだき、右手で差しのべられた手をとった。
満面の笑みをほころばせた憂炎は、しなやかな腕でみる間に梅雪をかこい込んでしまう。
背をすくい取られた拍子に、笠が頭をすべり落ちる。
「かぶっていろと言い出したのは、憂炎だろうに」
「いまはわたししか見ていないから、いいんです」
もう何度目かわからないため息をもらして、まぶたをひらく。
望月が近い。梅雪を抱いたまま、憂炎が遥か上空へ跳躍したのだ。
かくすものがなくなれば、秘められた乙女の
「あぁ、梅雪……わたしの小梅。
耳へ吹き込まれる男の甘いささやきを仕方なく聞き入れながら、内心ドン引きするのは、もう何度目か。
「いけませんね……だいじなものは、つないでおかないと」
その言葉に星の数ほど文句はあるけれど、下手な反論をして憂炎のごきげんを損ねるほど、梅雪は愚かではなかった。
「──愛してる」
たたみかける憂炎のひと言は、梅雪の胸をざわつかせる。
こうして何度睦言をささやかれ、何度沈黙を返したことだろう。
だが返事をせずとも、憂炎が気分を悪くすることはなかった。
梅雪が無断でどこかへ行ってしまっても、何度でも連れ戻し、わらっていた。
逃がすわけがないのにと、知らしめるように。
そして今宵もやはり、捕まってしまった。
硝子細工をあつかうように梅雪へふれる憂炎は、いつものように、だいじにだいじに囲い込んでしまうのだろう。
ゆえに梅雪も憂炎を抱き返すことはない。
琵琶を落としてしまうから、というのは言い訳で、こうした憂炎への反抗は、今後もくり返されることだろう。
梅雪が、自由を手に入れるまで。
焔魔仙教教主、憂炎。
冷徹無慈悲な魔教主が翡翠の瑞花を溺愛していることを、央原で知らぬ者はいない。
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